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ひまわりの咲く丘で

 振り上げた鍬を、一息に地面へと打ち下ろす。沈み込んだ刃を手前に引いて土を掘り返し、一歩下がってはまた同じ動作を繰り返す。麦わら帽子の下、額に滲む汗を首にかけた手拭いで拭いながら、広々とした畑をわたしは耕していた。いい野菜作りは、いい土作りから。畑仕事を一から叩き込んでくれた名人の教えは、自分の中にもすっかり馴染んでしまっている。土を調え、苗を植え、毎日毎日細やかに手入れをしてやりながら、やがて来る実りのときをじっと待ち続ける――ひとりの農民として生きることを選んで以来、この長い道のりを要する営みをわたしはとても気に入っていた。今のわたしが戦うべき相手は武器を握った兵ではなく、太陽であり雨風であり、野獣であり害虫だった。
 セリス公子率いる解放軍によって、帝国が打ち破られたのは約二年前。軍人としての自分に終わりが来たのは、それよりももう少し遡る。わたしがかつて所属していたフリージ公国の魔法騎士団――ゲルプリッターの一団は、駐留先であるマンスター地方での戦いにおいて、今では統一トラキアの王となっているリーフ王子の北トラキア解放軍に敗北を喫した。といっても、わたし自身がその戦いを最後まで見届けられたわけではない。ただひたすらに剣を振るい、雷撃を放っていたことは覚えているが、敵の魔法を受けて情けなくも落馬したところで当時の記憶は途切れている。次に気が付いたとき、わたしは簡素なベッドの上で、全身に包帯を巻かれて横たわっていた。傍らで介抱してくれていた少女が、涙混じりに「よかった」と言ってくれたときの表情はきっと生涯忘れることができない。落馬の勢いでトラキア大河にまで転落したらしいわたしは、奇跡的に生きたまま支流沿いの小さな村まで流れ着き、そこの村人たちに助けられたのだった。
 嬢ちゃん、あんた帝国の軍人さんだったんだろう。残念だけど、あんたのお国は負けちまったよ。北トラキアでの帝国の敗北、つまりはフリージ軍の敗北をはっきりと知らされたのは、自力で寝起きができるまでに回復した頃のことだった。この時にはもう、解放軍は南トラキアでトラバント王を討ち倒し、帝国へ向けて進軍を始めていたのだという。村の人々が戦の結末をしばらくわたしに語らずにいたのは、「瀕死のわたしがそんなことを知れば絶望のあまり本当に死んでしまうのではないかと思ったから」だそうで、それを聞いたときにはつい笑ってしまったものだった。笑ってしまえるくらい、わたしは祖国の敗北をすんなりと受け入れていた。自分から確かめることをしなかったのも、どこかでこうなることを分かっていたからなのかもしれない。笑った後で、わたしは少しだけ泣いた。悲しかったからでも、悔しかったからでもない。フリージの人間が、これまでどんなに北トラキアの民を苦しめてきたのか。身を以ってそれを知る彼らが、憎き侵略者であるはずのわたしをまるで我が事のように案じ、心でさえも慮ってくれたからだ。
 そうして村の世話になりながら終戦を迎えて、以来わたしは今まで一度も国に帰ることなく、恩返しのために村の農業などを手伝っている。寝ていた間に体力は相当落ちていたものの、手足が動くようになってから少しずつ訓練を重ね、半年ほどで概ね元通りの身体を取り戻すことができた。収穫した作物の輸送も、新たな畑地の開墾も、ならず者たちの撃退や村の自警団の指導も、自分にできることは何だってやっている。初めの頃の客人扱いが抜けた今では、きっと村の一員として認められているのだと思いたい。
 怪我が完治した後、一度くらい故郷に戻ってみてはどうかと勧められたこともあったけれど、わたしにそのつもりはなかった。毎回はっきりと断り続けていたせいか、そのうち帰れと言われることもなくなった。わたしはこの村に、骨を埋めるつもりだった。
「ナマエ、そっちはどうだい?」
 掛けられた声に振り返り、わたしは帽子のつばを軽く持ち上げた。そこにいた女性――村の肝っ玉母さんと呼ばれているこのご婦人は、死にかけていたわたしを家に引き取って面倒を見てくれた命の恩人その人だ。家族そろっての手厚い看護のおかげで、今のわたしはこうして働くことができている。
「そろそろ終わるところです」
「ちょうどよかった。次から次へで悪いんだけど、今度は街まで野菜を卸しに行ってくれないかい? 荷馬車はもう準備してあるからさ」
「もちろん、喜んで」
「助かるよ。馬車も操れて、腕っぷしも強いときたら、もう言うことないさね。あんたに任せときゃ、大事な商品が山賊どもに奪われる心配もいらないってもんだ」
 本当、あんたみたいな娘っ子が兵隊やってたなんてねえ。折に触れて聞かされる慣れた台詞に、思わず苦笑がこぼれた。
「お母さんったら何度目ですか。わたしが村のお世話になり始めて、もう二年も経つんですよ」
「おや、そんなにかい。早いもんだねえ」
 騎士の家に生まれ、当然のように士官学校を出て、魔法騎士として戦場に立ち、それ以外の生き方を知らなかったはずの自分が、誓いを捨ててから早二年。フリージ公国の精鋭部隊、ゲルプリッターの一員だったナマエは、もうどこにもいないのだ。
 最後に残った一区画を耕し終え、農具を納屋に戻して村の門へと向かう。日差しはまだ強い。麦わら帽子をかぶり直し、わたしは荷馬車の御者台に乗った。

 ――本当は、たった一つだけ心残りがある。
 導いてくれた人がいた。ずっと憧れていた人がいた。わたしは最後まで、あの人に報いることができなかった。
 トラキア大河の戦いの後、あの人がどうなったのかをわたしは知らない。名誉の戦死を遂げたのかもしれないし、解放軍の捕虜になったのかもしれない。わたしのようにどこかで生きているのかもしれないし、故郷に帰ることができたのかもしれない。そうであってほしいとは思うけれども、高潔なあの人なら、主君を失ってなお生き長らえることは望まないだろうか。
 村の人々のおかげで今のわたしが生きていられるように、あの頃のわたしが軍人として生き抜けたのは、全てあの人のおかげだった。
 聖戦士トードの再来と称された稀代の武人。強くて気高くて優しくて眩しくて、この人がいてくれるならどんな戦場だって怖くはないと、いつだって勇気をくれた人。その背をずっと追い掛けていたいと、ただ一人願った人。誰より大切な、上官だったあの人。数え切れないほどたくさんのものを与えてくれたあの人に何も返せないまま、わたしは呆気なく戦いから脱落して、結局そのまま軍人の道を退いてしまった。その選択は自分が望んでしたことだったが、それでもかつてのことを思い返さない日はなかった。たとえ僅かでもあの人の力になれるよう、報いることができたと誇れるよう、もっともっと死に物狂いで努力をしておけばよかった。
 川から引き上げられたときに身に着けていたゲルプリッターの隊服は、今も箪笥の中にしまってある。元はぼろぼろだったであろうその服を、お母さんはきれいに繕った状態で渡してくれたのだった。ただ、以来一度も、わたしはそれを箪笥から引っ張り出したことがない。そんなことをしなくても、あの人の下で過ごした日々は鮮明に思い出すことができるからだ。
 二年もの歳月が過ぎても、わたしの中のあの人は、少しも色褪せることはない。
 わたしはきっと、あの人に――。

 ***

「お帰り、ナマエ。ご苦労さんだったね」
 厩舎に馬をつないで戻ると、畑の方から歩いてきたお母さんがちょうど家の前でわたしを迎えてくれた。
 彼女が手にした籠には、色とりどりの野菜が詰め込まれている。夕食の材料をとってきたのだろう。もうそのような時間なのだ。思えば、街道から村が見えた頃には既に、太陽はずいぶんと傾いていた。
「はい、ただいま帰りました。晩の支度はわたしも手伝いますね」
「いんや、そんなことさせてる場合じゃないんだ。あんたにお客さんが来ててね、その様子じゃまだ会ってないんだろう?」
「……お客さん?」
「ああ、それもかなりの美丈夫さ。あんた、いつの間にあんな男を捕まえてきたんだい?」
 事も無げな調子で掛けられた身に覚えのない言葉に、わたしはうろたえながら首を振る。
「まさか。全く心当たりが……」
「なんだ違うのかい。ナマエもまだ若いんだ、浮いた話のひとつやふたつくらいあったっていいだろうに」
「お母さん、わたしはそんな」
 動揺するわたしの様子がおかしかったのか、お母さんは笑いながら「いいから探しておいで」と言った。家で待ってはどうかと勧めてはみたものの、村を見て回りたいからと辞退されたのだという。こんな村の中を見たって何にもならないだろうという意見に同意はしないけれど、特別物珍しい何かがあるわけでもないというのは事実だ。人相を尋ねても、あまりの美青年ぶりに驚きすぎて細かいことは覚えていないとのことで、わたしはますます首が傾ぐ思いだった。
 見つけたら家に連れて来るんだよ、と楽しげな彼女と別れ、ひとまずわたしは村の中心部に足を向けてみる。旅人の格好をしていたから見ればすぐに分かるだろう、というのも彼女の談だ。「かなりの美丈夫」が一体どれほどの容貌を指すのかはともかく、やはり全く見当がつかない。市場で顔を合わせる街の人々の中には、確かに見目の麗しい青年たちもいる。それでもお母さんの言を考えれば、失礼ながらそこまでのものではと思ってしまうし、せいぜい挨拶と世間話をする程度の間柄である彼らとは、そもそも先ほどの遣いで会ってきたばかりなのだ。
 結局、村の主だった場所では、その人物を見つけることはできなかった。痺れを切らして去っていったのならそれはそれで仕方がないとも思うが、探せる範囲くらいは全て回っておかなければ不誠実だ。
 最後に向かったのは村外れの丘だった。そこを最も可能性の低い場所と考えて後回しにしていたわたしの選択は、どうやら誤っていたようだ。昼間はよく子供たちの遊び場になっているその頂上から、夕陽に照らされてひとつの影が伸びている。今の時間、村の人々ならば、こんな何もないところへ足を運んだりはしないだろう。

 そうして太陽に近付くように丘を登り始めたわたしには、あまりにも心の準備が足りなかったと言わざるを得ない。
 一歩、また一歩と前へ進んでいくにつれ、輪郭だけだったその姿が次第にはっきりと現れてくる。
 男性の後ろ姿だ。そう認識した直後、わたしは息を呑んだ。自分の目を疑った。
 心臓がたちまち早鐘を打ち始めて、どくどくと脈打つ音までが聞こえてくる。
 足が止まった。吹き抜けた風が帽子を落としても、身動き一つさえ叶わずに、震えばかりが強くなる。
 見紛うはずがなかった。旅装に身を包んでいようと、その背中を違えるはずがなかった。――それはかつて、ずっと追いかけ続けていた人のものだったから。
「ライン、ハルト……さま……?」
 眩い夕陽の下で、彼は振り返った。
 優しい眼差しがわたしを捉える。それはあの頃から少しも変わっていなくて、わたしはふと自分が白昼夢の中にいるのではないかと思った。目の前にいるのが他ならぬ彼だからこそ、これは都合のいい幻覚なのではないかと思った。
「久しいな、ナマエ」
 けれども彼は正しくわたしの名を呼び、動けないわたしの方へゆっくりと近付いてくる。瞬きもできずに彼を見つめるばかりの視界は、そのまま何も映さなくなった。彼の腕は静かに、それでいて有無を言わせずわたしを閉じ込めた。抱きしめられているなんてやはり夢ではないかと思ったが、夢かどうかを確かめる手段がない。なぜならこんなことは初めてだったからだ。こんな温度も力加減もわたしは知らない、知らなかった、だから記憶と比べることなんてできるはずがない。
 そんな思いを否定するように、身体に回された腕にぐっと力が込められた。少し痛くて、息苦しい。これが現実であることを知らしめようとする、決して強くはない、だからこそ生々しい痛みだ。
「……よくぞ生きていてくれた」
 絞り出すような声だった。
 途端に、かつて彼と駆け抜けたいくつもの戦場が次々と脳裏に浮かんでは消えて、ひとつだけどうしても思い出したくなかった記憶の蓋が揺らぎだす。広がる大河、激しい剣戟の音。地の利に勝り、相手を上回る戦力を有していながらも、大敗を喫したあの戦い。飛び交う怒号と悲鳴と叫喚の中、いつだって真っ直ぐで勇ましくて眩しかったあの背中が、苦悶の声とともに折れ曲がった瞬間。
 それが、落ち行くわたしが最後に見た彼の姿だった。
 よくぞ生きていてくれた、なんて、そんなことはわたしの方が言いたかった。
「ラインハルトさま」
「ああ」
「ラインハルトさま」
「ああ、ここにいる」
「お会いしたかった」
 私もだ、と彼は言い、それからわたしは子供のように泣いた。その間、彼はずっとわたしを抱きしめてくれていた。

 戦いの後、解放軍の捕虜となったラインハルト様は、バーハラの陥落から程なくして解放され、一度はフリージに戻ったのだという。けれども祖国に留まっていたのはほんのわずかな間だけで、再編された新たな公国軍に身を置くこともなく、彼はこの旧北トラキアで旅をしていた。
 どうしても果たさねばならないことがあったからだ、という彼の言葉を、わたしはこの地の民に対する責任のようなものなのだと思った。圧政、子供狩り、それらの咎めは決して彼や個々の軍人が受けるべきではないはずだが、ラインハルト様はそういう人だからと思えば納得はする。わたし自身、この村で力を尽くそうとすることに、贖罪の意味合いが全くないわけではない。
 だとすれば、彼の終着点はどこになるのだろう。終わらない旅なのだろうか。考え込むわたしの内心を見透かしたかのように、ラインハルト様は緩く首を振った。
「この地に在る限り、民への力添えを惜しむつもりはない。ただ、私が言いたいのは――」
 彼は一度言葉を切って、真っ直ぐにわたしを見つめた。
「ナマエ。我が隊の中で、おまえが最後だったのだ」
「……わたしが、最後」
「ああ。私と同じように虜囚となり、共に解放された者もいた。どうにか撤退を遂げていて、祖国で無事を喜び合えた者もいた。……中には、物言わぬ再会となった者も少なくはなかった」
 責任は責任でも、わたしは大きな思い違いをしていた。ラインハルト様は彼の部隊にいた全ての兵たちに対し、その労をねぎらい、あるいは墓前に花を手向けようとして、国ではそれを果たせなかった――つまり消息の知れなかった者たちを探すために、この因縁の地へとやって来たのだ。戦乱に荒れた町や村に立ち寄っては復興の手助けをしながら彼は旅を続け、一人また一人とかつての部下の安否を確かめていき、そうして最後にわたしが残った。自由になる手足を取り戻しておきながら一度も国へ帰らずにいた、便りの一つすら出さなかったわたしだけが最後に残り、そんなわたしを探して、ラインハルト様は今までずっと――。
「……大河に落ちたのを見たという話も聞いた。それでも、おまえならばきっとどこかで生きていてくれるはずだと思っていた」
 本当にその通りだったな、と微笑んでくれる彼に、あれほど泣いたばかりの身体がまたしても嗚咽を漏らしそうになってしまう。彼の情の深さに、溺れそうになってしまう。
「どうして、あなたはそこまで」
「当然だろう。私を信じてついてきてくれたおまえを、私が諦めてどうする」
 こんな風にして、わたしは何度でもこの人に救われてきたのだ。
 俯いて両目を固く閉じ、込み上げてくる熱いものを抑えつける。どうすればよかったのかと考えてみても、どうしようもなかったという結論にしかならない。一度でも国に帰っていれば、一言でも無事を報せていれば、こうして終わりの見えない道程を彼に歩かせることもなかっただろう。けれどもそれはできなかった。どうしたってできるはずがなかった。わたしはもういい加減に分かっていた。
 彼の運命を知ることが、わたしは怖かった。国に帰れば、国の者と連絡を取れば、きっとそれを避けては通れない。だからわたしはそこからずっと目を背け続けていた。――もしもラインハルト様が、もうこの世にいなかったとしたら。決してあり得ない結末ではないと分かっていたのに、受け入れる心積もりなんてわたしは少しもできてはいなかった。それを聞かされるのが、その事実を突きつけられるのが、何より怖くて仕方がなかった。怖くて怖くて、彼がわたしにしてくれたように信じ切ることなんてとてもできなくて、わたしはいつまでも一人で逃げ続けていた。
 けれど、今は違う。
 ゆっくりと深呼吸をして、わたしは顔を上げた。
「ラインハルト様。あなたの部下でいられてよかった。あなたと共に戦えてよかった。あの日々は、わたしにとって何にも代え難いものでした」
 わたしに怖いものはもうなくなった。まるで希望そのもののように彼はわたしの目の前に現れて、その温かな手でわたしの心を掬い上げてくれた。
 そして、わたしを見つけてくれた彼の旅は、これできっと終わりを迎えられるのだろう。ならばもう、わたしは何の憂いもなくここで頑張れる。彼の幸せを願い、遠い祖国で活躍するであろう彼を想いながら、この場所で胸を張って生きていける。だから今は。
 ――あなたを好きでいてよかった。
 心から、そう思えた。

「最後まで面倒をおかけしてしまい、申し訳ありません。こんなわたしを探してくださってありがとうございます。お会いできて、本当に嬉しかったです」
「……おまえは、国へ戻るつもりはないのだな」
「はい。この村の方々には、返し切れない恩義があります。わたしはここから、ラインハルト様のご活躍をいつまでもお祈りしています」
 これから先、彼にはきっと輝かしい未来が待っている。その姿を見届けられないのは寂しくもあるけれど、彼を慕うたくさんの人たちがいつもそのそばに在ることだろう。同じ空の下にいてくれると思うだけで、わたしは大丈夫だ。だから今度こそ、彼に誇れるように生きていく。いつかまた会えるその時を、何よりの楽しみにしながら。
「それなら、祈るばかりではなく手を貸してくれないか。何しろ明日からは、私もこの村の農夫となるのだから」
 だというのに、わたしの晴れやかな決意は一瞬でどこかへ吹き飛んでいった。
 思考停止に陥ってしまったのは致し方ないことだろう。自分の耳がおかしくなったのでなければ、彼の気がおかしくなったとしか思えない、それほどまでに突拍子もない話だった。農夫、誰が、ラインハルト様が、しかもこの村で。反芻すればするほど意味が分からないのに、彼はわたしに追い討ちをかけるかのごとく「おまえの恩人なら私の恩人であるも同然だ」とか「先ほど村長殿の許しは得たから問題はない」などと、すっかり見当違いな台詞を平然と付け加えるのだった。
「な……いったい何をおっしゃっているのですか……!? ラインハルト様はこのような所にいるべきではありません! あなたは国に必要なお方です……!」
 ようやく思考に追いついて勢いのままに飛び出した言葉を、ラインハルト様はどこまでも穏やかに否定する。
「そんなことはない。アーサー様とティニー様の下、フリージは既に新たなる道を着実に歩んでいる」
「あなたの力があれば、その歩みはなお盤石なものとなりましょう……!」
「ナマエ、世界は変わるものだ。長き戦乱の果てに平和を迎えようとしているこの時代に、帝国側の一将であった私は不要どころか負の象徴ですらあるだろう」
「ですがそれは忠義ゆえに……!」
「その通りだ」
 彼はそう言ったが、それ以上の反論をわたしに許してはくれなかった。
「……そして、私が剣を捧げたのは、生涯イシュタル様ただお一人だけなのだ」
 懐かしむように慈しむように、どこか遠い目でそんなことを言われてしまっては、わたしにはもうどうしようもなかったのだ。
「おまえの言葉は嬉しく思う。納得できぬというなら、それはそれで構わないさ」
「……いいえ。ただ……」
「ただ?」
 だから、これは恐らく最後の抵抗だった。
 その力を眠らせておくなんて勿体ないということも、華々しい道へ戻ってほしいということも、家族やあなたを慕う人々の元へ帰るべきだということも、全て言えなくなってしまったから。それはどれもわたしの本心であり、どれもわたしが本当に言いたかったこととは少し違っていたかもしれない。
「……ラインハルト様に、麦わら帽子はお似合いにならないかと」
 ラインハルト様は声を出して笑った。
 手厳しいなと言いながら、彼は足元に転がったままだったそれを拾い上げて頭に乗せた。思った通りどころか思った以上の不似合いさに、わたしも無礼を忘れて笑った。
 帽子も鍬も背負い籠も、やがては彼に馴染んでしまうのだろうか。いつか来るかもしれないその日をわたしが見守ることになるのだとしたら、そんな未来はやはりどこかおかしい。
 おかしくて、少しだけ切なくて、それでもいいと思える未来だ。

「さて、ここではおまえが先達だ。畑仕事の何たるかを教えてくれないか?」
「では、まずは心得からです。いい野菜作りは、いい土作りから。わたしはこれを、ひと月のあいだ毎日復唱させられました」
「なるほど……。立派な農夫への道は、なかなか遠そうだな」
「はい。野菜作りの道は厳しいのです。ラインハルト様といえど、手心を加えるわけには参りません」
「ははは。それは頼もしい」
 目一杯に背伸びをして、わたしは彼から帽子を取り上げた。