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ただしい大人
たとえば素直さだとか、純粋さだとか、ひたむきさだとか。幼い頃にはきっと誰しも持ち合わせていたであろうこの種の性質は大概、加齢とともに擦り減っていくものだと思っている。理想を砕かれ、希望を手折られ、真心を踏み躙られるたび人は痛みに
もちろん、無垢なる心をいつまでも失わずにいられる人間だって世にはいるだろう。けれども自分は逆で、比較的早期にそれを手放した方だった。枕元の抜け毛に落胆する日々が来るなんて想像もできなかった十代の頃でさえ、言うなればその程度の断片しか残していなかったかもしれない。
「七海さん! 今日も世界一かっこいいですね!」
「そうですか」
「大好きです!」
「それはどうも」
「わたしとお付き合いしてください!」
「お断りします」
「ですよね! でも一生好きです!」
純度百パーセントの直球はいつだって、サングラス越しにも目を背けたくなるほど眩しい。真正面から受け止めるにはもう、余計なモノを抱えすぎている。
「――で、今日でフったの何回目~?」
長い両脚を行儀悪くテーブルの上に投げ出して、軽薄の権化のような男は言った。
「数えていません」
中途半端に空いた時間を潰すのに、談話室で新聞を読むという選択をしたのが最初の間違いだったのかもしれない。何より決定的なミスは、「なーなみ! 恋バナしよーぜ!」とか言いながらこの男――五条悟が現れた瞬間に、さっさとこの場を逃げ出しておかなかったことだ。数分前の己の立ち回りの拙さを、七海建人は大いに後悔していた。三十路手前の男が、同じく三十路手前の男に対して恋バナだとかいう単語を使わないでほしい。寒気がする。
「三桁いったら教えてよ。なまえの失恋百回記念、盛大に祝ってやんなきゃだし」
「だから数えていないと言ってるでしょう」
相変わらず人の話を聞きやしない。せめてもの抵抗として、紙面に目を落としたままぞんざいな返答を投げてはいるが、記事の内容は全く頭に入ってきていなかった。何が失恋百回記念だ。そんなものを祝われる当の本人は怒るどころかむしろ喜びそうだということは置いておいて、そもそも前提となる認識に齟齬がある。
「大体、振ったとか失恋だとか大袈裟なんですよ。アレはもう挨拶みたいなものです」
苗字なまえは東京高専の三年生で、知り合ったのは二年前の夏、目の前の男から引率業務を押し付けられたのがきっかけだった。そのときの一体何が彼女の琴線に触れたのか、以来足掛け三年、七海はなまえと顔を合わせる度に、熱烈な愛の告白を受け続けている。周りに誰がいようとお構いなしな彼女のおかげで、初めのうちは注がれる好奇の視線に居た堪れない思いをしたこともあった。しかし何しろ毎回決まって繰り返されるので、その光景を気に留める者は早々にいなくなったし、七海自身もそういうものと諦めてからは最後まで相手をしてやっている。二人の同級生が停学になって以降、教室では時折寂しそうにしているとも聞くが、七海の前ではそのような素振りを見せることもなく、なまえはいつでもあの調子だった。
冗談や戯れであるとは思っていない。七海の姿を見つけた途端、喜色満面に駆け寄ってくるあの少女から言葉通りに好かれていることは理解している。ただ、なまえにとっては、七海と件の応酬をすること自体が目的で楽しみなのだ。そこにそれ以上の何かを求めているわけではないだろう。
「挨拶ねぇ。花のJKからあんだけ好かれといて、そんなこと言っちゃう?」
「年上の異性に意味もなく憧れる時期ってあるでしょう」
「なまえのアレはそういうのじゃないよ。だって、それなら普通僕じゃん、どう考えても!」
「アナタみたいなのが身近にいるから、私がまともに見えたんじゃないですか」
「あー、完璧すぎて近寄りがたいってヤツね。やっぱ僕くらいのグッドルッキングガイになると、そう思わせちゃうのも仕方ないか~」
五条悟は皮肉をも無効化するので、こちらも戯言は無視することにした。
「……まあ、彼女にもそのうち、馬鹿なことをやっていたと思う日が来るでしょうよ」
若気の至り。青さゆえの愚行。七海にとってはもう大分昔の話だ。いつかあの笑顔が自分に向けられなくなったとき、一抹の寂しさを覚えるようなことはあるのかもしれないが、それは巣立っていく子を見送る親の心境と同種のものだろう。
「どっかの馬の骨に大事な生徒持ってかれるくらいなら、オマエがもらってくれた方が僕は断然安心なんだけどね」
「何言ってるんですか。彼女まだ十八の子供でしょう」
「十八なら条例違反にはならないよ?」
「日頃アナタが教え子をどんな目で見ているのかよく分かりました。心底軽蔑します」
「ウソウソ、さすがに冗談だって!」
そんなことは分かっているがおよそ教育者としては許されない発言だ。この男の倫理観や道徳観にいまひとつ期待ができないことは十数年前から身に染みている。これでも、当時よりは相当まともになったはずなのだ。
「でもさ、ぶっちゃけオマエだってかわいいくらいは思ってんじゃないの?」
「庇護すべき年少者という意味では」
「七海つまんなーい!」
鬱陶しい絡み方をされるのはいつものことでも、何故だか今日はやたらとしつこい。思い切り睨みつけると、五条はわざとらしく肩をすくめた。
「そんな怖い顔しないでよ。僕はただ、かわいい後輩とかわいい生徒に幸せになってほしいだけなんだから」
「何がかわいい後輩ですか、気色悪い。次の任務があるので、もう失礼します」
七海はソファから立ち上がり、さっさとドアの方へ向かった。出発時刻までにはまだ十分すぎるほどの暇があるけれど、これ以上ここで会話を続ける気にはならない。まだ話は終わってないよ、と背中に掛かる不服そうな声も、本気でこちらを引き留めるつもりはないようだった。廊下に出ると同時につい溜息が零れる。平穏に過ごせたはずの空き時間だったのに、何だか無駄に疲れてしまった。
単に面白がっているだけであろう不適切教師の放言に取り合う価値がないのは当然として、元よりこの件は、七海の側で何をどうこうとかいう話ではないのだ。彼女にもそのうち、馬鹿なことをやっていたと思う日が来る――結局のところ先ほど五条に言ったこれが全てであって、近い未来に少女が心身ともに大人になったとき、その幼い夢も自然と幕引きを迎えることになるわけだ。それならば、今はわざわざ無理に目を覚まさせる必要もない。「若人から青春を取り上げるなんて許されていない」ではないが、水を差すのが野暮だということくらい自分にだって分かっている。
まっすぐな好意に決まって素気無い言葉を返し、それでもなまえは笑っていて、今日も元気で何よりだと思う、その繰り返し。
いつか終わるにしても、続く限りは付き合ってやる、ただそれだけのことであり、なんてことはない日常の一部だ。
そう思っていた。
***
「七海さん!? どこか怪我したんですか!?」
寝台に横たわっていたはずの少女は、こちらの姿を捉えた途端に勢いよく飛び起きた。
どう考えても医務室に寝かされている人間にはあるまじき態度に、この場に訪れたのは誤りだったのではないかと思う。しかし、その頓珍漢な台詞とあまりに俊敏な身の動きに、確かに胸を撫で下ろしている自分がいた。
「していません」
この日、数日間の出張を終えて高専に戻った七海を迎えたのは、なまえが呪霊の討伐任務で負傷したとの報だった。既に治療は終わっており、命に別状はないとのことだったが、彼女の状況を知らせてきた五条が「オマエが顔出してやればすぐ元気になるんじゃない」と言い終わる前に、七海の足は医務室へと向かっていた。
「よかったぁ。こんなところに来るなんて、何かあったのかと思っちゃいました」
「君の方こそ、他人の身を案じている場合ではないようですが」
「もしかして、わたしが心配で来てくれたんですか!? どうしよう、嬉しすぎて一瞬で元気になりました!」
「こら、安静にしてなって言ったろ」
騒ぎ出す少女に、この部屋の主――家入硝子が呆れたような視線を向ける。平生からどこか気怠げな彼女ではあるが、術式で力を使い果たしたという様子はない。いつもと変わらぬ調子で口を開くなまえも十分に元気はあるようで、身体も精神も深刻な状態でなかったことは見て取れた。とは言え、ここの生徒らは肋が折れようが脇腹に穴が開こうが平気な顔で戦い続けようとする輩ばかりである。それをよく知る七海として、現状の確認は必要だった。
「彼女の具合は?」
「硝子さんと七海さんのおかげで治りました!」
「君には聞いていません」
「もう心配はないけど、それなりに失血してるから当面は運動禁止。まあ、しっかり食べて寝てればすぐに血の気も戻るよ。何たって若いんだしな」
「……そうですか」
少なくない失血をもたらしたという負傷がどの程度のものだったにしろ、それは反転術式によって今や跡形もなく消えているだろう。これまで当然のようにその恩恵を受け続けてきた身ではあるが、改めて考えると奇跡のような所業だと思う。
けれど、痕跡がなくなっても傷を受けた事実が消えることはない。痛みや恐怖の記憶が消えることもない。それに耐え切れずこの世界を去っていった人間を、七海はもう何人も見てきた。
「心配しないでください! 七海さんに会えなくなる方が死ぬよりずっとつらいので、七海さんがいてくれる限りわたしは不死身です!」
「家入さん、彼女の頭も診てあげては」
「残念。そっちは手遅れ」
「どういう意味ですか硝子さん~!」
程なく七海は家入から医務室を追い出された。曰く、七海がいるとなまえが大人しくしていられないので安静を確保できないとのことだった。
扉を閉めている間も、なまえは最後まで楽しそうにこちらへ手を振っていた。彼女の傷は既に塞がり、おそらく恐怖を引き摺ってもいない。それでも、少し前にこの同じ扉を開けた瞬間。七海を見て起き上がるより先、表情が切り替わるその寸前。視界に映った白く憔悴した横顔が、脳裏に焼き付いて離れていかない。
何を今更動揺しているのか。なんてことはない日常が、本当はいつ崩れ去るとも知れないものであることを、自分は嫌というほど理解しているのではなかったか。会う度に笑顔で馬鹿なことばかり口にしているなまえの性質が、彼女と悲劇とを結び付け難くさせていた面はあるだろう。だが、女だろうが子供だろうが関係なく死んでいくのが呪術師の世界だ。己を犠牲にしてでも年少者を守るという大人として当然の責任は、そもそも対象が手の届く範囲にいることを前提としている。そうでなければ何もできない。七海の知らないところで、七海とは無関係に、守るべき存在は若い命を散らすかもしれない。それがなまえであっても何らおかしなことではない。
そうして今、最悪の可能性を明確に想像させられてみて、ひとつ分かったことがあった。好き勝手に咲いている花でも、眺めれば心は和らぐ。あの応酬に満たされていたのは、なまえばかりではなかったのだ。
向けられる笑顔に救いを、ひとかけらの活力を確かに得ていた。だから、それが無残に手折られたとき、自分は必ず後悔する。守れなかったことや、死地に赴かせてしまったことだけではない。
――こんなことになるのなら、偶には水くらい遣っておけばよかった、と。
「あっ! 七海さーん!!」
一週間ぶりに、七海はなまえと顔を合わせた。
高専の敷地内、朝の走り込みの最中だったのだろう。こちらへ駆け寄ってくる足取りは軽く、身体は充分回復したことが覗える。
まだ朝日が眩しいにもかかわらず、七海は自然とサングラスを外していた。何故だかそうしなければならない気がした。
「おはようございます! 朝から会えるなんて最高です!」
「おはようございます。怪我はもういいのですか」
「はい、おかげさまで完全復活しました! そんなわけで今日も大好きです、わたしとお付き合いしてください!」
「お断りします」
「ですよね! でも一生好きです!」
一生。それはいったいどのくらいの期間を指すのだろう。具体的なイメージをもって発せられた言葉でないことは分かっている。ただ、術師の一生は、非術師のそれよりもきっと短い。
「君も懲りない人ですね」
「だって、大好きすぎていつも言い足りないんですもん。それに、わたし後悔したくないんです。もしもの時、もっと伝えておけばよかったじゃなくて、ちゃんと伝え切れたって思いたいので!」
悔いを残したくないのは誰しも同じなのだ。けれど、少女が無垢な笑顔でそう口にすることが、七海にはとても残酷なことのように思えた。
「……話が違います」
「え?」
「この間に比べてずいぶんと弱気なことを言っている。私がいれば不死身、ではなかったのですか」
「もちろん気持ち的にはいつでもそうです!」
気持ち的には、という枕詞は大いに正しい。知り合ってからの二年数か月、初めはほんの子供にしか見えなかった少女が、今ではすっかり大きくなった。それは身体的な成長だけの話ではない。いくら普段は天真爛漫にしていたって、見たくもないものをたくさん見せられ、過酷な目に遭いながらいくつも死線を潜り抜けてきた結果として、彼女は今もここに立っているのだ。なまえだって、この地獄のような同じ世界を生きている――だからこその言葉であり、それがひどく受け容れ難かった。
「苗字さん」
義務と責任。すべきこと、すべきでないこと。その間にきっといくらでもある、してもいいこと、してあげられること。呪いを知らぬ常人の幸せから遠ざかってしまった少女の、ささやかな幸福に大人として寄与するだけならば、差し控える理由も抵抗を感じる必要もないはずだった。
見上げてくる二つの瞳が、いつまでも翳らないでいてほしいと心から思う。けれど、それは。
「私も善処はしますので、君も長生きしてください。……私からは以上です」
触れるのは初めてだった。子供をあやすそのものの仕草で、七海はなまえの頭を撫でた。
少女が少女でなくなったとき、もしもその心の内に確かな思いが残るのならば、それを幼い夢などとは呼べなくなるのかもしれない。愛らしい、微笑ましい、健やかであってほしいという自身の思いもまた、庇護すべき年少者に対するものではなくなる日が来るのかもしれない。
ただ、今は答えを出すべき時ではないと思った。問題の先送り、見えないふり、気付かないふり。それは小狡い大人の振る舞いであり、まさしく必要な術であった。
「……ひゃい」
離れていく手を名残惜しそうに視線で追いかける少女の頬が、ほんのりと朱に染まっている。
サングラスを外したりなんてしなければよかった。