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司書室にて

「うわっ、おまえまたあのばあさんにタカったのかよ」
 部屋に入ってくるなり、金色の髪を短く切った青年はぎょっとした声を上げた。
 彼の視線の先、なまえが着席する執務机の上には、饅頭やらどら焼きやら最中やらの種々の和菓子がこれでもかというくらいに散らばっている。それらは全て、彼の少し前にこの司書室を訪ねてきた男が置いていったばかりのものだ。
「……人聞きの悪いこと言わないで。たかったことなんてないし、ついでにばあさんでもないし」
 ばあさんでもじいさんでもいいけどよ。そう言いながら金髪の男――石川啄木は助手の机から無遠慮に椅子を引きずり出すと、なまえの正面までずるずると運んだそれにどっかりと腰を落ち着けた。本来の使用者は、今は書の中へ潜ってもらっている。
「あいつ、おまえのこと孫か何かだと思ってんじゃねえの」
 うっかり溜め息をこぼしてしまったのは、なまえ自身も同じようなことを感じていたからだ。大量の菓子の贈り主である尾崎紅葉は、なまえが特務司書に就任して比較的間もないうちに転生した文豪の一人である。右も左も分からないといった状況の中、ひと癖もふた癖もある文士たちのまとめ役を買って出てくれた彼のことは大いに頼りにしたものだったが、それに気を良くした部分も多少はあったのだろうか。元来面倒見がよく世話好きの彼は、まるで孫娘にでもするかのように何かにつけてなまえを甘やかそうとしてくるのだった。菓子攻撃はその最たる例である。時折相伴にあずかる程度ならいいのだが、事あるごとに期間限定だとか現代の若者のようなことを言いながら、過分な土産を置いて去っていくのだ。せめて一緒に、と言っても頷いてくれるのは五回に一度くらいで、残りの四回はよいよい若人と食べよなどと満足そうな笑みでもって辞されてしまう。しかも、それらを買い求めるため実際に足を動かしているのは彼の愛弟子の方だった。今のところそれらしい態度を取られたことはないが、あの潔癖症の男から恨まれていてもおかしくはないのではとなまえは内心思っている。
「俺様も食っていいか?」
「どうぞ」
 ならば茶でも淹れてやるかとなまえは席を立つ。それほど日持ちするものでもないし、自分一人ではとても手に負えないので、かえってありがたい申し出だった。いつだったか、こんなに受け取ってばかりでは太ってしまうと尾崎に告げたことがあったのだが、その時には「おなごはふっくらしているくらいが可愛かろうて」と返されてしまい結局事態を変えるには至らなかった。ふっくら程度なら可愛げもあるかもしれないが、このまま続くようならそれを通り越してずんぐりになってしまう。
「……少しは運動でもしてみようかな。正岡さんとキャッチボールとか」
「やめとけよ。普段からロクに身体動かしてねぇんだ、怪我でもすんのがオチだって」
 それもそうかもしれない。本の中では身体を張っている彼らと違い、なまえはいわゆるデスクワークばかりなのだ。
「おっ、うめぇ! さっすが甘味にうるさいババアなだけあるな……」
「だからババアじゃないってば」
 男の前に湯呑みを置いて、椅子へと戻る。
 行儀悪く片膝を立てて饅頭にかじりつくこの男は、図書館の中でもなかなかに手を焼かせてくれるうちの一人だった。そういう手合いは大きく二種類に分けられて、一方は常人に比べ相当に繊細で傷つきやすい精神を持ち合わせた、手っ取り早く言えば面倒くさいタイプ。そしてもう一方は、細心のメンタルケアを要するわけではないものの、自由奔放すぎたり破天荒だったりと何を仕出かすのか分からないようなタイプで、石川はこちらの方だった。日夜借金取りから逃げ回っているおかげで、用がある時に捕まらないなんていうのは日常茶飯事だし、主に金銭トラブルという名の面倒事を引き込んだことも一度や二度ではない。そんな彼がああも心の琴線をふるわせる歌を詠むというのだから、人とは本当に分からないものだ。
 前世の記憶こそ有してはいるが、転生した文豪たちはかつての彼らそのものではない。本人と作品、またその両者に対して人々が抱いているイメージなどが合わさって再構成された存在である、となまえは聞かされている。恥ずかしながら、この職を拝する以前は石川啄木という人物自体に関する知識などせいぜい立派な歌人という程度にとどまり、実際のところかなり素行に問題のある人間だったということは、転生した彼に振り回される形で身を以て知ったようなものだ。それでもどこか憎めない、人を惹きつけるような何かを確かに持った男だ、と思わされてしまうのだからたまらない。見た目も態度もこんなにチンピラ然としているのに、と言ったらさすがに失礼かもしれないが。
「何だよ。俺様の顔になんかついてんのか?」
「……別に。で、あなたこそなに? 給料の前借り交渉にでも来た?」
「馬っ鹿、そんなんじゃねーっての」
 とは言いつつも、男はふと考え込むような素振りを見せた。いや、でもそれもアリかな、あの野郎に借りて何日だ、そろそろ利息が上がる頃か。ぶつぶつと呟かれる言葉を聞いているうち、過去に彼が持ち込んだ面倒事の中でも一、二を争う事件が思い出されて、なまえはつい声を上げた。
「ちょっと、ヤミ金だけはもうやめてよね!」
「分かってら! あれはマジで悪かったって言ってんだろ?」
 日常生活を送る上では特段支障もないようだが、転生した文豪たちは当然ながら、自らの身分を証する何をも持たない。そんな相手に金を貸すような輩などおのずと知れたところだ。そして詐欺恐喝の横行するこの時代、悪徳金融業は彼が前世を生きていた頃よりもずっと狡猾で性質が悪いのだ。大方妙な書類に署名でもしたのだろうが、要するに石川は暴力団に騙されたのだった。
 そうしてある日、薄茶色のサングラスと趣味の悪いスーツを身にまとった大層柄の悪い男が図書館までやってきた。蹴り飛ばされたドアのガラスが散らばる中、ドスの利いた声で汚い言葉をがなり立てる大男の姿にはさすがに恐怖を覚えたものだ。たまたま運悪くその場に居合わせただけの萩原朔太郎が、涙も出ないほど震えあがっていたのは本当に気の毒だった。結局は図書館の金庫から蓄えの一部を拝借することでそれ以上の事なきを得たのだったが、その後珍しく険しい顔をした館長から石川はこっぴどく叱られていた。何せ金庫に保管されているのは厳密な出納記録のいる公金。当然馬鹿正直に事実を報告するわけにもいかず、当面の間は館長の私財がそれを補填することになってしまったのだから。肩代わりされた彼の借金は、毎月の給金から少しずつ天引きされる形で一応は館長の元に還付されつつある。完済にはまだまだ遠いけれども。
「って、金の話は後だ後!」
 パーカーのポケットに一度手を突っ込み、取っとけよ、と男は手のひら程度の大きさの紙に包まれた何かを差し出してくる。顎で促されるままにその包みを受け取って開くと、中に入っていたのは花をモチーフにしたネックレスだった。
「え、なに、どうしたのこれ」
「ちょっとしたツテでな。ああ、気にすんなよ、仕入れ値はタダだ」
 人脈ってやつだよな、と冗談か本気か分からないようなことを言うが、つまるところはなまえへのプレゼントということらしい。本人が金を出して買ったわけではないようだが。
「……これで、ちったあ飾り気も出んだろ」
 いきなり何なのだ、と首を傾げたところで、ふと思い至る。――もう少し格好を気にした方がいい。今は潜書に赴いている現助手の永井荷風を初めてその役に任命した日、一日の業務を終えた後になって彼から告げられた言葉だ。少しいいだろうか、と改まった様子で切り出されるものだから何事かと身構えてみれば、真っ直ぐに視線を向けられながらそんなことを言われたのだ。突然頭を殴られたような心地で呆然としているところへ、男はさらに追い討ちをかけてきた。素材はそこまで悪くないのに、いかんせん貴方は地味すぎるんだ。徳田くんほどではないが。もちろん知らぬところで巻き添えを食ったもう一人の被害者には何も伝えてはいない。
 本人からしてみれば、苦言ではなく善意からのアドバイスのつもりだったのだろう。それは分かるが、なまえも一応はまだうら若き乙女なのである。別に気を遣ってないつもりもなかったのに、とその夜は酒席でつい愚痴をこぼしたのだったが、思い返せばその場には石川がいたような気もする。しかし、そんなことをいちいち覚えていたとは。
「……ありがと」
「へっ、いいってことよ」
 なんだか妙に気恥ずかしくなってしまって、礼を言うのに男の顔は見られなかった。
 手を焼いている、というのは間違いなくそうだ。けれど、寮母の気分ではないが、手が掛かるほど世話のし甲斐がある、というのもまんざら嘘ではないのかもしれない。そうして時々こんな風に、予想もしないところから幸福のかけらが降ってくるのなら。やはり悪くはないかもしれないなんて、なまえはそんなことを思ってしまうのだった。
「それはそうと、前借りの話だけどよ……」
 簡単に絆されているようでは、司書としてはまだまだかもしれないけれど。