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中島敦編
己が生きていた時代には、少なくともそのような行事は存在しなかった。
婚姻が禁じられた世の中、嘆き悲しむ若き者たちのために、皇帝の命に背いて結婚式を行い続けたことで死罪になった一人の司教。そんな彼を偲ぶ日の存在を知識としては知っていたが、それがなぜか今の我が国では、女性が男性にチョコレートを贈る日になってしまったらしい。それもしばしば、愛の告白の形として。
そうして今、中島の手の中には小奇麗に包装された小さな箱があった。
つい昨日までは、「三十何人分も用意なんてしてられませんよ」と笑いながらこの行事への不参加を表明していたはずの司書が、中島の部屋を訪ねてきたのはつい先ほど、夕食が終わって一時間もした時分のこと。中島先生には色々とお世話になっているので、特別です。みなさんには秘密にしてくださいね。手渡されたそれが愛の告白の形であるのかどうかは別として、中島は思いがけず彼女の「特別」を享受することとなったのだ。
逸る指先で包みを開き、小箱の蓋を開けてみる。目に飛び込んできたのは、上品に飾り付けられたチョコレートケーキだ。
他でもない彼女からの贈り物であるという幸福。見た目と漂う甘い香りから、純粋に食欲をそそられる気持ち。けれどもそれらに混じって中島の心を去来したのは、微かなざわめきの気配だった。
一人分の大きさをしたそのケーキは、全く同じものが二つ、箱の中で綺麗に並んでいる。つまりはそういうことなのだ。特別は特別でも、二人の中島敦に向けられたそれ。
暫しの逡巡の後、片割れを口に運べば甘さと仄かな苦みが広がる。
彼女の想いに胸が温まるのを感じながらも、もう一人の自分へ抱いた後ろ暗い感情に気付かずにはいられない。できることなら独り占めしてしまいたかった、それが本音だ。けれども中島には、彼女の心を汲まずにいることだってできなかったのだ。
「……あなたに、だそうですよ」
閉じた小箱を、そっと机の上に置く。
彼の言葉が自分に届いたことはないけれど、自分の言葉は彼に届くはずだから。
――翌朝、箱の中は空になっていた。
森鴎外編
失礼します、と来室を告げる司書の声に、手元の書類から顔を上げる。
昨日から今日にかけて、有碍書への潜書に赴いた者はない。従って負傷者もいない。そんな状況でこの医務室を訪ねてくるのだ、彼女自身がどこか具合でも悪くしたのだろうか――と抱いた懸念は、何やら食器の載った盆を携えたその姿を目にしてすぐに消え去った。
「先生、少し休憩なさったらいかがですか。差し入れ、お持ちしましたよ」
そう言いながらこちらまで歩を進めると、司書は手にしていた木製の盆を机上へと置いた。その中央に鎮座して甘い湯気を漂わせるカップの中は、色の濃いココアのような飲み物で満たされており、受け皿には棒状のビスケットが添えられていた。ホットチョコレートです、と彼女は言う。ココアと何が違うのかはよく分からないが、その名称に森はああと思い至った。この二月一四日という日が、現代日本でどのような位置付けになっているのかは知っている。
司書はわざとらしく咳払いをした。
「……ええと。チョコレートには疲労回復効果があって、その香りにはリラックス効果もあって。……それからなんだっけ、カカオに含まれているポリフェノールは動脈硬化の予防が……」
一体どういうつもりで突然効能を謳い出したのかは知れないが、自信なさげなそれは完全に付け焼き刃の知識なのだろう。宙を見つめながら一生懸命記憶を探ろうとする姿が何だか妙におかしかったのと、唐突な言動の訳の分からなさも相まって、つい笑い声が漏れ出てしまった。
「……やだ、わたし何か間違ってました?」
「いや、失礼。……ところでその蘊蓄はまだ続くのか。せっかくだから、冷めないうちに頂きたいのだが」
ちょうど小腹を空かせていたこともある。それに何を隠そう、森は大の甘党だった。
「あっ、はい、すみません。どうぞお召し上がりください」
と言う割には、語り足りないのかどこか腑に落ちないといったような表情をするのだ。
「なんだ、不満そうだな」
受診者用の椅子に腰掛けた司書にそれを指摘しつつ、謎の薀蓄の真意を聞き出そうと水を向けてみる。不満なんて、と彼女は首を振った。
「ただ、ちょっと気が抜けただけです」
「というと?」
「……だって、合理的な理由がないと口にしてもらえないんじゃないかって思ってたから」
先生、焼き芋がお好きな理由だって、栄養価が高いからとか加熱されて衛生的だからとかおっしゃってたでしょう。司書はそうも続けた。
確かにそのような会話をした記憶はあるが、別段それに拘泥しているというわけではない。なんなら火が通っていて美味ければ、森にはそれだけで充分だ。――そんなことよりも。「合理的な理由がないと口にしない」と思っている相手にお手製のチョコレートを食させようと、もっともらしいこじつけまで用意してくるとはなかなか可愛らしいところもあるではないか。これまでバレンタインのバの字すら口にすることもなく、まるで興味もなさそうな顔をしておきながら。
「これは科学的な裏付けのある話ではないのだが」
そんな彼女にふと悪戯心が芽生えて、森はそう切り出した。
「……? はい」
「一説によれば、チョコレートに含まれているとある成分には、媚薬に似た効果があるとかないとか」
造詣の深い貴方なら、当然知っていたのではないか。と最後まで言い終わらないうちに、目の前の頬はみるみる赤く染まっていく。無論彼女にそんな意図が一切ないことは承知の上だが、中途半端に仕入れた知識も残念ながら抗弁の役には立たないようだ。
「そっ、そんなのは知りません!!」
それこそ湯気でも出さんばかりに真っ赤な顔をして、勢いよく椅子を立った司書は逃げるように部屋を出ていった。
ほんの戯れのつもりが、覿面に効いたらしい。
「……少しからかいすぎたか」
贈り主のいなくなった室内で、ようやく一口カップを啜る。程好い人肌に温んだそれは、ひどく自分好みの甘さがした。
徳田秋声編
勢い余って街まで出てきたのは失敗だった、そう思ったときにはもう後の祭りだった。
どこを歩いても、辺りはそこらじゅう仲睦まじそうな男女の組み合わせばかりだ。うっかり心が折れそうになるけれど、嫌気が差して飛び出してきたばかりの場所にすごすご逃げ帰るのはあまりにも格好が悪い。とは言っても、こうして僕が図書館を抜け出したことに気付くようなやつなんて、どうせ誰もいやしないんだ。別に格好なんてあったものじゃない。
何が面白くないって、何もかもがそうだ。僕が普通に生きていた頃にはなかったバレンタインだとかいう行事も、それ一色に染まって浮かれた街中も、そんなくだらない催しにあろうことか何かを期待して、柄にもなくそわそわしてしまった自分自身も。
もしかしたら。そんな思いは、綺麗にラッピングされた包みをにこにこしながら配り歩くあの子の姿を見た瞬間に打ち砕かれて、別に彼女が悪いことをしたわけでもないのにどうしようもなく恨みがましい気持ちになっている。あのまま顔を合わせていれば、彼女は誰かにしたのと同じように、いつもありがとうとか言いながら抱えた包みを手渡してきていたんだろう。神様は不公平だなんてぼやくこともある僕だけど、公平や平等だって尊いように見えて本当はそうじゃない。その他大勢と変わらない、取るに足らないと思い知らされるだけだ。蔑ろにされないだけいいじゃないか、なんて、僕があの子に向ける想いはそんなものじゃ納得できないところにまで来てしまっている。
身勝手だってことくらい、分かっているさ。別に僕は、あの子のなんでもない。たまたま最初の一人目だったという、ただそれだけのことだ。
そこに特別を見出したいのは、どうせ僕だけなんだから。
「徳田先生!」
行く当てもなくぶらぶらと歩いていると、不意に背中へ声が掛けられた。この時代に僕をそんな風に呼ぶ相手なんてただ一人だ。そうじゃなくても、僕があの子の声を聞き間違えるはずなんてないけれど。振り返れば、彼女はぱたぱたとこちらへ駆け寄ってきた。
「……こんなところで何してるのさ」
「それはこっちの台詞ですよ! 出掛けるんだったら、せめて誰かに一言言ってください。探したじゃないですか」
大きく肩を上下させる彼女の息は荒い。僕を探したというのはどうやら本当らしい。図書館を出てからはまだそれほど時間も経っていないのに、誰にも気付かれていないだろうという僕の予想は早々に裏切られてしまったみたいだ。……だからって、そんなことくらいで溜飲を下げるわけじゃない。本当さ。
「何かお買い物でもあったんですか?」
「……別に、君には関係ないよ」
自分に言い訳をしようと躍起になるあまり、気が付いたら思った以上につっけんどんな声を出していた。……やってしまった。一応は探しに来てくれた人を、それも息を切らせてまでそうしてくれた人を相手に、今のは少しあんまりだったかもしれない。彼女は気が短い方ではないけれど、これじゃあ機嫌を損ねてもおかしくはなかった。そうして事態は今よりもっと悪いことに――なるのを覚悟したっていうのに、目の前のこの子は怒るでも傷つくでもなく、穏やかに笑ってみせるんだから拍子抜けだ。
「それならそれで、用事が終わるまで待ってますから。そしたら一瞬に帰りましょう? わたし渾身のチョコレートタルトがもうすぐ焼けるんです。先生と二人で食べようと思って、作ったんですよ」
たぶん冷えても美味しいけど、焼きたては今しか食べられませんから。そう続ける彼女に、僕は訳が分からなくなる。この子が何を言っているのか分からないんじゃない。何を言い出すのかと訝っているんじゃない。なんとなく抱いていた、そうだったらいいなという期待が幻想でしかないことに気付かされて、それが面白くなくて僕はここまでやって来たはずだったのに。急に訪れた成就の気配に、どうにも頭がついていかないんだ。
「……どうして僕にそんなこと」
「どうしてって。いくらなんでも、今日が何の日かはご存知ですよね?」
「だけど君、さっき配ってたのは……」
一瞬だけきょとんとした表情を見せた後、彼女はああ、と至極どうでもよさそうな声を出した。なんだよそれ、こっちの気も知らないで。知られたらそれはそれで困るということは、この際どこかへ置いておくことにする。
「あれは先生方への日頃の感謝の気持ちです。いわゆる義理ってやつです。……まあ、まだ余ってますし、欲しいなら差し上げてもいいですけど、既製品ですよ?」
どんよりと心を覆っていた靄が晴れていくのを、やっとで僕は実感した。今になって考えてみれば、僕の望みは初めから叶っていたというのに、それを勝手に駄目だと思い込んで落ち込んで、結局僕は一人で空回っていただけだったのだ。
はあ。思わずこぼれたため息に妙な誤解をされないよう、ついでに頬が緩まないようにも気をつけながら、僕は口を開く。
「……じゃあ、君の渾身のタルトとやらは、その……僕にだけってことで、いいのかい」
二人で食べようと思って。彼女は確かにそう言った。
それでも念押しをしてしまう辺り、やっぱり多少の情けなさを感じないでもないけれど。これまで自分に自信を持てるような生き方なんてしてこなかったんだ、仕方ないじゃないか。――それに。
「……改めて言わないでくださいよ恥ずかしい……」
目を逸らしながら、ほんのり頬なんて赤らめられたら。そんなことだってもう、全部どうでもよくなってしまったんだ。
「……先生、もう帰りませんか」
「……そうだね。なんだかお腹が空いたよ」
「それなら、ちょうどよかったです」
どちらからともなく、僕らは手を繋いだ。