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食事(永井荷風)

「カツ丼ひとつ、つゆだくで!」
 正午の食堂、カウンターに向かって元気よくその一言が発せられた時から、既にささやかな波乱は始まっていたのかもしれない。
 声の主から二人ほど後ろの位置。列に並んで注文の番を待っていた男の眉が、そのときぴくりと動いていた。

「失礼」
「あ、永井先生。本日もご機嫌うるわしゅう」
 注文通りの品を前に、当人の方がご機嫌全開といった風で箸を取るのはこの図書館の司書を務める娘だ。一方、彼女の真向かいの席にトレーを置いた長髪の男は、その端整な顔を惜しげもなく歪めていた。彼のトレーの上には、司書が昼食に選んだ品と同じものが置かれている。ただし、その丼の縁からは、飴色のつゆが顔を覗かせたりはしていない。
「……そうだな、さっきまでは気分が良かったのだけれど」
 嫌悪感を隠そうともせず、大げさに溜め息を吐きながら男は席に着いた。
「ああ、せっかくのカツレツをそんな風にふやけさせて……。カツレツ丼への冒涜だとは思わないのかな」
 そうして、これ見よがしにサクサクと軽快な音を立てながら箸を運び始める男の姿に、司書も笑顔を一転させて不愉快そうに眉根を寄せる。
「……先生こそ、このふやふやになった衣の良さがお分かりにならないなんて、人生損してますよね」
「ほう、言ってくれるじゃないか」
 曰く、揚げたてのカツレツの食感を楽しまないとは何事だと。
 曰く、それでは意味がない、衣が汁を吸うのが嫌ならトンカツと卵丼とを別々に食べればよかろうと。
 傍から見れば至極どうでもいい言い争いを繰り広げながら食事を共にする二人は、この食堂では最早馴染みの光景となっていた。
「……うわっ、見ろよ高村。あいつらまーたやってやがる!」
「はは、今日も相変わらずみたいだね」
「気に入らねぇなら一緒に食わなきゃいいだろーがよ……」
「でも、何だかんだで仲がいいんだよ、あの二人」
「あん?」
 渦中のテーブルから程近い席。詩人兼彫刻家の同胞の言葉に、向かい側に座る青年は怪訝そうに首を傾げる。
「……全く、貴方の嗜好は本当に理解し難いな。確かにこの食堂のカツレツ丼が美味であることは認めるけれど」
「それはお互い様です! でも、ほんとおいしいんですよねここのカツ丼。玉ねぎたっぷりだし、ちゃんと椎茸も入ってるし」
「何よりこの割下が本当に上品な味に仕上がっている。良い出汁を使っているのだろう」
 と、口論はいつの間にやらカツ丼の礼賛合戦になっているようだった。大真面目に語り合うような内容でないことには依然変わりもないが、くだらない諍いを聞かされ続けるよりはまだマシかもしれない、と青年は思う。
「そう言えば、駅前のお蕎麦屋さんもカツ丼がおいしいって評判なんですよ。先生、今度行ってみませんか?」
「ああ、是非ご一緒させていただこう」
 清々しい様子で笑い合う二人は、まるで一試合を終えた好敵手同士か何かのようだった。
「ほら、ね?」
「……付き合いきれねー」
 見守るような視線を彼らに向ける友人と同じ境地にはとても至れず、金髪の歌人はやれやれと肩を竦めるのみだった。



ずるいひと(中島敦)

 後戻りする機会ならきっといくつもあったはずなのに、悉くそこから目を背けようとしてきた。
 だけど、どこで間違えたのかと聞かれたら、それはたぶん最初から、だ。
 二人のひとを好きになってしまったことが、そもそもの過ちだった。

 一つの名と一つの身体で、別の心を持った二人のひとに恋をした。
 その想いの両方を叶えることも、どちらか一つだけを選ぶこともできないのは分かっていたから、わたしには初めから両方を諦める以外に道はなかったはずだった。そうするしかなかったし、そうしなければならなかった。ただ、諦めることはできても、消し去ることまではできなかったけれど。
 だから、そうして未練がましく燻らせていた想いを遂げることになるなんて本当に夢にも思わなかった。
 隠し通していた心の内を暴いたのは当の相手である彼だ。しかも、絶対に受け入れてはくれないだろう、と思っていた方の彼だった。
 二人の彼――二人の中島敦というひとへの恋心を、彼は蔑んだりも嘲ったりもしなかった。それどころか、もう一人の彼と心を通わせるきっかけすら彼はわたしに与えてくれた。
 その代わり、彼はわたしに一つだけ条件を課した。
 ――奴だけを愛している顔でいろ。
 明け渡した想いの半分と同じだけのそれを返してくれたのに、もう半分だけを抱えた振りをしろと彼はわたしに強いたのだ。
 それはひとえに、もう一人の彼の為。そうと分かるからこそ、わたしは何も言えなかった。もう一人の彼の前では自分への想いを否定しろと言うくせに、二人きりになれば何度でもそれを暴こうとする。
 それでもわたしは二人の彼を好きだった。
 そうして一人を騙し続けることを選んでしまったのだ。

 何も考えられなくなるくらいに腕の中で溺れた後は、いっそ眠ってしまった方が楽なのかもしれない。
 それでも、部屋を出て行く彼を起きて見送らなければならないとしても、共にいられる僅かな時間に目を瞑っていたくはなかった。
 彼ではない彼がつけた痕跡の上から、もう一度重ねられた噛み跡。事の間はそんなことばかりされているせいで、時々どちらのものなのか分からなくなる。その赤いしるしを、わたしは指で辿った。
「痛むのか」
 痛いのはこれじゃない、だなんて言えるはずもない。わたしが何も答えずにいるのを、彼は肯定と取ったようだった。
「お前は手酷くされる方が好きだろう」
「……そんなこと」
 ない、と、最後まで言えなかったのはなぜだろう。
 彼が隣で身を起こした。朝が来れば今度はもう一人の彼に会えるというのに、情事のあとのこの時間だけは、永遠に明日が来なければいいと願ってしまう。
 遠ざかった体温に、わたしは手を伸ばした。ただ触れたいだけだった。それだけのはずだったのに。
「――いかないで」
 言葉にするつもりなんて、本当になかった。
 彼が驚いたように目を瞠る。
「っ、ちが、今のは、ごめんなさい忘れて、」
 呆れられた、と思った。けれども彼は僅かに双眸を細めると、シーツの上に腕をつき、それからわたしの頬に手を添えた。
 そうして、額の触れそうな距離でその唇が開かれたとき。逃れられない楔が、またひとつこの身に穿たれるのだった。
「――許せ」
 それは信じられないくらいに優しい声だった。



指輪(中島敦)

 ――本の中にはどうしたって一緒に行けないから、せめてわたしの代わりに連れていって、いつでも側にいさせてくださいね。
 あの日、女はそう言いながら、男の指に銀色の輪を滑らせた。
 恋人からの手製の贈り物に歓喜した男は、以来一度もそれを外したことがなかったので、指輪に隠された事実にはまだ気が付いていなかった。その内側に嵌め込まれた小さな宝石と、そこに秘められた力には。

「……先に行っていろ。次の戦いには間に合わせる」
 侵蝕者と一戦を交えた後、会派の三名へ一方的にそう言い渡し、中島敦は一人来た道を返した。
 有碍書の穢れ具合からして、次の敵部隊と遭遇するまでにはあまり猶予もなさそうだったが、言葉を違えるつもりはない。用件自体は一分もあれば済んでしまうようなものなのだ。ただ、他人にそれを見られることだけは、何としてでも避けたかった。
 身を隠すようにして、建物の間の狭い路地へと入り込み、剣を壁に立てかける。手套を外し、露わになった左手を目の前に翳して異常の有無を確かめた。今の戦いで、敵が放った矢の一閃がそこを掠めていったからだ。身体の創傷などを気にしたのではない。問題なのは、指の根元に居座っている金属の方だった。
 擦れた感覚はあったように思うのだが、見たところ表面に傷はついていない。中島は安堵した。そんなことになれば、あの男がどれほど落ち込むことか。念のため、指から抜いたそれを一通り確認してみるが、どこをどう見てもやはり無傷だ。どうやらとてつもなく頑丈に出来ているらしいが、あの女に鍛金の真似事ができるとも思わないので、これは純粋な金属強度とかではなく例の不可思議な術式の類なのかもしれない。物理や化学を究めたことはなくとも、錬金術だのアルケミストだのといった存在がそれら自然科学の埒外にあることは、転生したこの身を以ってよく思い知らされている。元より理解の範疇を超えているのだから、考えたところで結局は何にもならないだろう。
 奇妙といえば、指輪の内側に埋め込まれた石もそうだった。この石はひとりでに熱を持つのだ。気が付いたのは、贈られた翌日のこと。あの男が指輪を着けたまま潜書したので、中島は当然その状態を引き継ぐことになったのだったが、有碍書を進む道中、指のある一点が突然じんわりと火照りだした。一体何かと思った矢先、会派は予期せぬ敵の襲撃を受けたのだった。
 それからそういうことが何度か続いた。全ては有碍書での出来事だったが、たとえば戦闘中に中島が必殺の一撃に何度も狙われたり、禍々しい瘴気を帯びた見たこともない侵蝕者が現れたりと、指輪のその部分が熱を持つと決まって何かが起こる。換言すれば、何かが起こる前には必ずその石が発熱するということだ。
 仮にも恋人である相手に対し、あの司書が害を為すものを贈るなどとは万が一にも思えない。経験則から、中島はそれが“危険を知らせるもの”であると結論付けた。実際、有碍書の外で同じことが起こったためしは一度もない。
 だから、もう一人の自分は未だその存在を知らずにいる。戦えないあの男に危険は及ばないのだからそれでもいいのだろうが、だったらそんな機能は初めから必要なかったのではないか。いつでも側に、と言っていた司書が、あの男を想ってあの男のためにこれを作ったのなら。恩恵を受けるのは、いつだって“俺”の方なのだ。――確かに、もしもこの身に何かがあれば、“奴”とてただでは済まないのだろうが。
「これはこれは、なんとも素敵な指輪ではありませんか」
 再びそれを指に戻した、まさにその瞬間のことだった。出し抜けに掛けられた声に、路地の出口を振り向きながら最大級の舌打ちで返す。
 よりにもよって、この男に見咎められることになろうとは。己の油断を心底腹立たしく思う。
「……奇術師め。どこから沸いた」
 他の二人と共に行くマントの背中が視界から消えるのを、確かに振り返って見届けたはずだったのに。だからこの男――江戸川乱歩と組むのは嫌なのだ。中島を興味深いと言って憚らないこのしつこい男は、どれほど邪険に扱おうともまるで懲りることを知らないのだから。
「贈り物ですか?」
「答える義理はない」
 端から分かっているのだろうに、くだらないことを。思いきり睨みつけてやると、男はおやおやと大袈裟に肩を竦めてみせる。
「相変わらずつれないですねえ。しかし、アナタが装飾品に興味をお持ちだったとは意外でした」
「……こんなものを俺が好んで着けているとでも思うのか。奴の私物に決まっているだろう」
 ふむ、と息を吐いて腕を組む、その芝居がかった仕草がなおさら中島を苛立たせた。一刻も早く、この不愉快な男を視界から追い出してしまいたい。どのみちそろそろ戻らねば、次の戦いが始まってしまうだろう。
「そうでしたか。でも、アナタにもよくお似合いですよ」
 何が何でも余計なことを口にせずにはいられないらしい。こんな男に指輪の存在を知られるなどとは、本当にとんだ失態だった。唯一救いがあるとするなら、江戸川はあくまで自らが探偵ごっこをしたいだけで、所構わず何でも話の種にするような性質ではないということくらいか。その点に関してだけは案じずともよいだろう。仮に吹聴でもしようものなら一体どんな目に遭うことになるか、分からぬほどの馬鹿ではあるまい。
 不躾な視線を遮るように手套を纏い、己の得物を右手に握る。立ち塞がる邪魔な図体を肩で押し退けて、中島は早足で歩き出した。

 路地裏に残された男は、ひとり満足気に口角を上げていた。
 あれほど傷つくことを恐れていながら、手放すつもりは一切ないのだろう。いつも獰猛な虎の目をした男が、まるで恋人の写真でも眺めるかのようにそれを見ていた。――これだから、彼らへの興味は尽きないのだ。
「……おっと、こうしてはいられません。ワタクシも次のショーへ向かわなければ」
 不機嫌な背を追って、江戸川もまた歩き出す。出遅れている間に怪我でもされたら大変だ。何しろ片手を庇って戦っているのだ、気取られない程度にではあるが、援護はしてやらねばならないだろう。
 その指の縺れを、彼が克するいつかまで。

17.09.02~18.01.20

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