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誰が為

「司書さん、こちらにいらしたのですね」
 尋ね人の姿は、潜書の部屋と呼ばれる一室にあった。
 今日は誰一人として本の中の世界へ赴くよう命じられた者はいなかったはずだが、念のためと室内を覗いてみたのは正解だった。清掃やら書棚の整理やら、潜書の要はなくとも部屋を訪れる理由ならば確かにいくらもあるだろう。ただし今度のそれは、少なくともそのような些事で片付くものではないようだった。
「もしかして、探させちゃいました? ごめんなさい、中島先生」
 こちらを振り向いた女はいつも通り人好きのする笑みを浮かべてはいたが、そこへ微かに差した翳りに気付かずいられるような己ではない。お司書はん、なんやえらい難しい顔して歩いてはったけど、どないしたんやろなあ。食堂前の廊下を通りかかった折に、そんな会話の一端をこぼれ聞くことがなかったとしてもだ。
 もっとも、それを耳にしたからこそ、所用を放り出して彼女の居所を探すことになったのではある。その手で第二の生を与えられて以来、具に彼女の姿を見つめ続けてきた中島にとって、「えらい難しい顔」の真実よりも優先すべきことなど一つもなかった。
「……有碍書、また増えちゃったみたいで」
 そしてその答えは、彼女が手にする一冊の本にある。
 侵蝕の穢れを受けてしまった文学書は、有碍書としてこの部屋の禁書棚に隔離されることとなっている。これらを浄化し元ある姿へ戻すことこそが、転生を果たした己ら文筆家に与えられた最大の使命なのだが、問題の本はこれまで見てきたものと少し様相が異なっていた。焼け焦げて炭化したかのような黒が、表紙の端から端までをすっかり覆っている。
「随分と侵蝕が進んでいるようですね……。何という本なのですか?」
「それが、分からないんです。見てください、背表紙も真っ黒」
 これでは題号を読み取ることもできない。そもそも、有碍書となってしまったこの本が発見されたのはつい今朝方であるとのことで、いつから侵蝕の標的とされていたのかも分からないのだという。もっと早くに見つけられていれば、と司書は溜め息を吐いたが、ふと思い出したようにあっと声をあげ、本へ落としていた視線をこちらへと向けた。
「それより先生、わたしに用があったんじゃないですか?」
 改めて用向きを問われると、返す言葉は少し考える必要があった。もちろんはっきりとした答えはあるのだが、有りのままを伝えれば目の前の顔を硬ばらせるくらいには不穏なそれである。
 件の会話を聞いた途端に、他のことは何も考えられなくなった。彼女の憂いを案じたのは事実だが、ならば真っ先に手を伸べるのは自分でありたいと。誰かに先に越されることを想像しただけで、嫉妬に押し潰されそうになったなどとは。
 中島は司書に懸想していた。
 いっそ目を逸らしたくなるほどに、その想いに囚われていた。
「……いえ、あなたがお悩みのようだと聞き及んだものですから。何かお力になれることはないかと思ったのです」
 僅かばかりの殊勝さにその余の全てを覆い隠して伝えれば、数度瞼をしばたたかせた後、司書は破顔する。
「中島先生は、いつもお優しいですね」
 やわらかな声は、じわじわと首を絞める真綿のよう。
 中島の言葉を、彼女は純粋な善意と疑わない。そう仕向けているのは己自身であるのに、屈託のない笑顔がこうももどかしい。
 「いつも」お優しい、司書は中島をそう評した。すなわちこれまで彼女に差し出してきたものは、中島の意図を外れることなく正しく積み重ねられている。一見して彼女を思い遣る行為は、その実己のためであった。果たして自分は彼女に相応しい男であるのか、その自信が中島にはない。そして受け入れられないならば、この想いは永劫気取られるわけにはいかない。中島の内に息衝く並外れた羞恥心は、恋に破れた惨めな男に成り下がることをひどく恐れているからだ。拒まれるとも知れない心の内を全て晒け出すなどできようはずもない。だから中島は、下心に被せた厚情で彼女の瞳に熱を灯さんと欲している。彼女自らが、ただひとり己だけを選ぶのを浅ましく待っている。
 迂遠な道と分かってはいた。自分ではない誰かが先に、彼女の隣に立つかもしれない。それでもなお、執心を秘した手を伸べ続けることしか今の中島にはできなかった。そうしてこちらの心中など知る由もない司書は、お優しい中島先生のそれを訝ることなく掴むのだ。
「……悩みというか、この本、どうしようかなって。いえ、どうするも何も、浄化してもらうしかないんですけど……」
 再び手の中に視線を落として、司書は表紙をそっと開いた。どれだけ頁を捲れども、そこにあるのは塗り潰したような一面の黒。
「……これ、わたしが昔好きだった本だと思うんです。名前も思い出せないし、こんなだから装丁も分からないけど、でも絶対に、そんな気がするんです」
 子供の頃、毎日のように読んでいた物語があった。初めは学校の図書室に通い詰め、それでも飽き足らず両親に乞うて買ってもらった児童書。夢と希望に溢れた世界に幼い彼女は心躍らせたはずだったのに、それ以上のことは何も思い出せないのだと。記憶から消えていくって、こういうことなんですね。やるせなさを声音ににじませながら、司書は言う。
「あんまり猶予もなさそうだし、明日にでも誰かに潜ってもらうつもりではいるんです。それで……せめて少しでも何か思い出して、この本と相性の良さそうな人選でもできないかなって思ったんですけど……だめだったみたい」
 力なく自嘲するような笑みは、彼女には似合わない。そう思ったときには、次の言葉が口を衝いて出ていた。
「……私に任せてはいただけないでしょうか?」
 え、と彼女が目を丸くさせるのにも構わず、何ならすぐにでも出られると伝える。もはや後に控えていたはずの用が何であったかも忘れた。
「でも先生、こんなに真っ黒いのなんて初めてだし、もしかしたらすごく危ないかもしれないし」
「危険はどなたにとっても同じことです。私では頼りないとお思いかもしれませんが……」
「まさか、そんな風に思ったことなんてありません! だけど……」
 もう一人の自分が戦場でどのように振舞っているのかは、ひとから伝え聞く内容でしか知らない。それらはどれも、鮮やかだの正確無比だのという剣技への称賛と、平生の――つまり今の中島とはまるで別人のようだ、と戸惑う声のふたつから成っていた。自ら確かめることは永遠に叶わないが、記憶は残らずとも魂の容れ物はただひとつ。猛き虎の如き武勇を誇るらしい“彼”は、同じこの身体で剣を振るっているのだ。そうであるならば。
「事は急ぐのでしょう。私は準備をしてきますから、司書さんは他に手の空いている方を探してきてください」
 言い切る中島に司書は最後まで逡巡を見せたが、こちらに引く気がないのを察したらしい。やがて表情を腹を決めたようなそれに変え、真っ直ぐな視線を向けてきた。
「……分かりました。お言葉に甘えて、先生にお願いすることにします。……でも」
 言葉を切り、抱えた本をわざわざ棚に預けて、司書は中島の手を拾う。緩く力の籠った指先に、それはきゅうと握り込まれた。誰にでもこんなことをしているのなら、無自覚な分余計に厄介な悪女だ。恨みがましく思う一方で、手套越しに伝わるあたたかさにどうしようもなく胸が鳴る。
「絶対に、無理はしないでくださいね。何があるか分からないし、危ないと思ったらすぐに帰ってきてください。約束ですよ」
 中島は頷いた。
 私に務まるかどうかは分かりませんが、だなんて、今日ばかりはそんな予防線は張らない。
「……あなたの大切な本は、きっと守ってみせます」
 翳りのない笑みが見たい。
 消えかけた彼女の思い出を、この手で取り戻したい。
 かつて夢中になった物語を楽しげに語る声を、その傍らで聞いていたい。
 それを誰にも譲りたくはなかった。


 ***


 満身創痍の身体だった。
 “彼”はいつも、こんな苦痛の中で戦っていたのだろうか。朦朧とした思考の淵で、ぼんやりとそんなことを考える。
 もはや剣を握る手にも力が入らないほど憔悴しきった男を、敵は見逃してはくれなかった。勢いよく放たれた矢が、一直線にこちらへ向かってくる。ああ、これは、避けられないな。そう思ったところで、中島の意識はぷつりと切れる。
 ひときわ高い剣戟が啼いたのはその時だった。眼前に迫った矢を、風をも切り裂くような鋭い一閃が薙ぎ払う。浅からぬ傷を負っているはずの足は、それをものともせず軽やかに駆けた。懐にさえ入ってしまえば、射手に為す術はない。身を躱す間も与えることなく、渾身の力を乗せた刃がその腹を貫いた。洋墨瓶を模したような異形の敵が、瘴気を撒き散らしながら消えていく。
「無様なものだな」
 吐き捨てた言葉は、もちろん足元に散らばる墨の残骸へ向けたものではない。
 珍しく自ら戦う気を起こしたから、しばらく様子を見てやるかと思えば結果はこの有様だ。あのまま肉体の支配権を委ねていれば、いったいどうなっていたことか。
「歓心を買いたいばかりに、出来もしないことを嘯くからこうなる」
 大言壮語も甚だしい。もう一人の自分に、中島はなおも毒づいた。届くことなどないと分かっていながらも、そうせずにはいられなかった。――何が私に任せてだ。何が守ってみせるだ。己の力で戦ったことなど、ただの一度もなかったというのに。
「敦くん! 大丈夫か!?」
 大きな声を上げながらこちらへ駆け寄ってきた体躯のいい男は、名を吉川英治という。もう一人の自分が比較的懇意にしている相手ではあるが、熱血漢を地で行くようなこの男の気質が今の中島にとってはどうにも鬱陶しい。
「……手酷くやられたようだな。提案なのだが、ここは一度帰還しないか?」
 気遣わしげにそう申し出る男に一瞥もやらず、中島は身を屈め、地面に転がった眼鏡を拾い上げて懐に入れた。身体を取り上げた直後、反射的に邪魔だと払い落としたものだ。
「断る。この程度、別にどうということはない」
「しかし、これまでの戦いでも十分侵蝕は抑えられただろう。来たるべき本陣での決戦に向け、やはり万全の体勢で出直すべきでは……」
「くどい。その必要はないと言っているだろう」
 道半ばで帰還などすれば、その後がどうなるのかは目に見えている。あの司書のことだ、自分たちの疲労を慮って、次の潜書には別の会派を向かわせるだろう。それでは意味がない。この本を蝕む悪しき者たちは、他でもない我が手で浄化せねばならない。彼女の大切な本を救うのは、中島敦という男でなければならないのだ。そうでなければ――……
「……また奴の卑屈に付き合わされるのは御免だからな」
 呟いた声は誰に聞こえることもなかった。
 そうして、潜書を続行するという会派筆頭の言葉に吉川はそれ以上の異を唱えず、残る二人もそれに従った。幸か不幸か、深手を負っているのは中島ひとりだけだった。危ないと思ったら帰ってきてください。もう一人の自分が、司書とそんな約束をしていたのを思い出す。律儀に守ってやる必要もないが、司書は「危ないと思ったら」と言っていたのだから、約束を違えることにもならない。

 結局、中島率いる会派は最奥部に巣食う害悪の根源を討ち果たし、有碍書の浄化に成功した。
 各々大小の怪我は負いながらも、揃って五体満足での帰還。出迎えた司書は心底安堵したような表情を見せたが、それも束の間、会派の面々は彼女の手により慌ただしく医務室へと引きずられ、代わる代わる寝台へ押し込まれることとなった。
 損害の程度としては、中島を除く三名は比較的軽傷にとどまる。彼らは補修を受け終わるなり、腹が減ったと医務室を後にしていった。中島自身は、幸い心神喪失に追い込まれるには至らなかったが、精神の疲労に増して肉体に対するそれが著しい。戦いに慣れないもう一人の自分が妙な使い方をしたせいか、いつも以上に倦怠感があった。
 アルケミストの手による補修とは、あくまで魂の穢れを浄化することであり、その容れ物である肉体の回復にまでは及ばない。書の中の世界で侵蝕者から受ける傷は、いわば精神の傷が具現化したものであるから治癒もされるが、空腹が満たされないのはこれが理由だ。だから、補修が終わり外傷が消えたとしても、もう一人の自分へすぐに身体を返すわけにはいかなかった。今回の戦いをどこまで鮮明に記憶しているのかはまだ知れないが、結局独力では何も為せなかったと落ち込むことは明らかだ。そこに鉛のような疲労感まで加われば、尚更面倒なことになりかねない――そう考えて、中島は今の己のまま暫し寝台に身を沈めておくことにした。
「……先生、まだ起きていらっしゃいますか? もしよかったら、少しだけ……」
 小さな足音の後、遠慮がちに掛けられたカーテン越しの声。
 補修作業は完了したようで、さんざん負ったばかりの傷はもう身体のどこにも残ってはいなかった。普段はほとんど意識することもないが、こういうときには改めて、この身がひとの紛い物であることを思い知らされる。中島は上体を起こし、手を伸ばして寝台を囲う白い仕切り布の一端を引いた。狸寝入りを決め込んでもよかったが、詮無いことを考えるよりは司書の相手でもしていた方が幾分かはましだろう。
 お疲れのところすみません。そう前置きして、寝台の傍らまで近寄ってきた女は丁寧に頭を下げた。
「あの、今度のこと、本当にありがとうございました」
 初めから今の己が戦場に立っていたならば、あれほどひどい怪我を負うこともなく、戦いの終わりと同時にさっさと身体を返していたはずだ。だとすればこの女から真っ先に労いを受けられたのは“奴”の方だったのに、ずいぶんと皮肉なものだ。
「……奴が勝手に引き受けた仕事だ。礼なら奴に言えばいい」
「でも、今の中島先生にも、どうしても伝えておきたかったんです」
 思い出の本が救われたのが余程嬉しかったのか、司書は中島の素っ気ない応対にも萎縮することなく、それどころかいっそう幸せそうな笑みを浮かべて小首を傾げてみせる。
「――だって、先生は、あっちの中島先生の気持ちを汲んでくれたんでしょう?」
 そのとき自身の内に生起した動揺が何なのか、中島には分からなかった。
 あんな風に言ってくれたの、初めてだったから、びっくりしたんです。でも、わたしすごくうれしくて――。司書は上機嫌に言葉を続けていたが、その声は次第に中島の意識を遠ざかり、やがては何も聞こえなくなる。知ったような口の利き方が不愉快だったのはそうだ。確かにそうだが、本当の理由はもっと別のところにあるような気がした。体の中心が、すうっと冷たくなる感覚がする。
 もう一人の自分のことを、中島は隅から隅まで知り尽くしている。司書へ抱いている愚直なまでの想いも、拒まれるのを恐れるあまり何も出来ずにいることも、そうでありながら特別になりたいと足掻いていることも全て。それゆえに戦えもしないあの男は、私に任せてなどと馬鹿げたことを申し出たのだ。
 そんな“奴”の身勝手に巻き込まれ、傷まで負わされる破目になったのが今の中島だ。だから目の前の女は別段おかしなことを言ったわけでもない。あっちの中島先生の気持ちを汲んでくれてありがとう、あっちの中島先生の代わりに戦ってくれてありがとう、傍迷惑な話だがそれだけだ。思い出の本がどうだとか、司書の事情など自分の知ったことではない。文学を脅かす忌々しい悪逆の徒を根絶やしにしてやる、その一点のみで中島は戦えるのであり、他に理由はいらない。
 なのになぜ、こんな思いをしなければならない。なぜ自分が――この俺が、司書の言葉ごときに乱されなければならない。
「おい」
 苛立ちが高じ、中島は早々に思考を放棄した。
 これほど気分が悪くなるとはとんだ見込み違いだ。もう一人の自分でもあるまいに、気紛れを起こして司書の相手などしなければ良かった。
「用が済んだなら出て行け。目障りだ」
 惜しみなく怒気を含ませた口調、唐突に色を変えた空気に司書はたちまちうろたえた。笑みを一転凍りつかせ、それでも何かの可能性に期待でもしているのか、恐る恐るといった声音が様子を窺うように中島を呼ぶ。
「……あの、先生?」
「聞こえなかったのか。さっさと失せろ」
「ごめんなさい、わたし、何か気に障ることを……」
 怯えを隠すこともできずにいるくせに、なおも去ろうとしない姿に堪りかね、中島は寝台そばの脇机を思いきり叩きつけた。バンッ、と怒りをそのまま表したような刺々しい衝撃音に、女の細い肩が面白いように跳ねる。だが、加虐心から机を殴ったのでもなければ、そんな反応は何の慰めにもならない。
「……! 失礼しました……!」
 ようやく司書は逃げるように部屋を出ていった。慌ただしく扉が開閉し、小走りの足音が遠ざかって消える。訪れた静寂の中で、思わず舌打ちが落ちた。
「……馬鹿が……」
 全てが面倒になって、中島は投げやりに身体を横たえた。少し眠れば目を覚ます頃には疲労も抜けているだろう、後のことは全てもう一人の自分が被ればいい。元はと言えばその手で蒔いた種、“奴”の自業自得なのだから。
 今頃になって、掌がじんと疼き始める。
 もうさっさと寝てしまいたかったのに、閉じた瞼の裏側に浮かんでくる傷ついた女の顔が本当に不愉快だった。