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秘め事
首筋に刺すような痛みが走って、ぞくりと背が震えた。
混濁した意識の中で、まただ、と思う。前に付けられたのはいつだったか、思い出せないくらいだからきっともう消えかけている頃だ。それでも、全て綺麗になくなってしまう前に、必ずこうして刻まれる新たな赤いしるし。シャツの襟に隠れるかどうかの、際どい噛み痕。もっとも、それを咎められるだけの余裕など、今の自分にあるはずもない。
男が首元から顔を上げた。――なかじませんせい。無意識にそう呼びかけて、けれども声になるより先に、今度は唇に噛みつかれる。射抜くような琥珀色の双眸があまりにも近くて、思わずぎゅっと目をつむった。無遠慮に差し込まれる舌から、微かに鉄の味がする。
繋がっている間、男はいつもなまえに言葉を許してくれなかった。何かを伝えようとすればすぐに唇を塞がれてしまい、意味を為さない声ばかりが鼻から抜ける。そうして、限界が訪れる寸前までさんざん呼吸を奪い尽くした後、涙を浮かべながら浅い息を繰り返すなまえを見下ろして、彼はひどく満足気に笑うのだ。
「……いい眺めだな」
低い声がどうしようもなく羞恥を煽った。瞼を上げなければ良かった、と思う心さえお見通しだと言わんばかりにいっそう強く突き上げられ、漏れ出た嬌声のはしたなさについ右手で口を覆う。それもすぐに引き剥がされて、シーツの上へ縫い付けられた。執拗に自由を奪おうとしてくる中島の所作は自分の意に反しているはずなのに、どうしてかその手に指を絡めてしまう。そこに手套がないことを、こんなにも嬉しいと思ってしまう。
貪り尽くすような口づけの合間、息苦しそうにこぼれる男の熱っぽい吐息。徐々に激しくなる抽送に、終わりの気配がちらちらと見え隠れしていた。後ろへ流している長い前髪が額に落ちて、中島が鬱陶しげに眉根を寄せる。彼に代わってそれを除けようと、伸ばした左手が阻まれなかったことになまえは安堵した。快感に歪んだ彼の表情が、たまらなく心を疼かせるのだ。こんな時でなければ垣間見ることもできないそれを、前髪に隠してしまうにはあまりに惜しかった。この視界だってそう長くはもたない。熱塊を打ちつけられる度に押し寄せる幾重もの波に飲み込まれてしまえば、すぐにでも目を開けていられなくなってしまうから。
(あ、だめ、もう、無理――)
身体の中心から湧き上がる痺れが頭から爪先までを一気に駆け抜けて、もう何も考えられない。
全てが白く弾ける直前に、一度だけ名を呼ばれたような気がした。
目を覚ましたときに、隣で中島が眠っていたのは初めてのことだった。
肌を重ねるのは決まってなまえの私室で、一晩中手加減なしに抱き潰された身体が疲れきって意識を失っている間に、男はいつも姿を消してしまうのだ。夜が明ければ一人きりのはずだったのに、今日に限ってどういう風の吹き回しなのか。静かに眠る横顔からは何も分からない。時に言葉より雄弁に語る鋭い眼光も、今は休息の中にあった。無防備なその姿は、まるでもう一人の。
「……なんて言ったら、怒られちゃうかな」
二人の男に心惹かれたなどと言えば、気の多いふしだらな女と謗られるかもしれない。それでもなまえは、二人の彼――二人の中島敦に想い焦がれていた。どちらか一人を選ぶことなどできなかったし、そうしようという気もなかった。伝えるつもりのない想いだったから、それで構わなかった。片やもう一人の自分をよく知らないと言う。片やもう一人の自分を甘ったれと蔑む。そんな彼らを共に慕っていると告げたところで、受け入れられるとも思わなかった。だから、こんな想いはずっと秘めたままでいい。二人の彼と過ごす時間を慈しむことができればそれでいいのだと、なまえはそう心に決めていたはずだった。
その決意が脆くも崩れ去ったのは、危うく彼らを失いかけた日のこと。目も当てられないほど夥しい傷をその全身に負い、中島が、あの中島が一人で立つこともままならず、左右から身体を支えられ血だらけで帰還したあのとき。魂が砕ける一歩手前にまで陥った中島が尋常な精神状態でなければ、それを目にしたなまえの方もそうだった。一体どうやって補修を遂げることができたのかも定かではないが、傷が塞がった後も男のそばを離れられなかったことだけは覚えている。あなたを失うなんて耐えられないと泣いたなまえを、中島は突き放した。お前が言っているのは奴のことだろう。憎々しげな声の内側、ほんの一握り滲んだ寂しさに堰を切られて、気付けばなまえは叫んでいた。そうじゃない、彼だけじゃない、あなたも彼も愛している――。激情に任せてそう告げてしまえば、後は流れるままだった。
そうして始まった関係を、もう一人の彼は知らない。もう一人の彼だけが、何も知らない。
なまえがもう一人の彼に抱いている思慕の情を、中島が内心でどう思っているのかは分からないが、少なくとも頭から否定するつもりはないようだった。けれどそれは、中島が彼のことを熟知しているからだとなまえは考える。彼と過ごすなまえの姿を、その目を通して中島は見ている。だからこその黙認だとすれば、もう一人の己を知らない穏やかな彼にとっては事情が違っていた。なまえが抱えた「中島敦」への想いの半分だって、彼にとっては誰とも知れぬ男へのそれと変わらないのかもしれないし、あるいはもっとひどいのかもしれない。――奴を籠絡したいなら簡単だ。奴だけが特別だと思わせればいい。どちらの彼にも嘘など吐きたくないというのに、いつかの中島の言葉はなんと底意地の悪いことだろう。
二人を想えば想うほど、なまえは身動きが取れなくなる。そうしているうちに夜が来て、中島に好き放題抱かれるばかりになって、頭がとろけてまともなことは何一つ考えられない。もしかしなくともただのふしだらな女だ。歪な関係は、結局いつまでも変わらないままだった。だから、珍しく隣で眠っている男も目を覚ませばすぐにこの部屋を出て行って、情交の残滓を綺麗さっぱり洗い流してから、もう一人の彼へと身体を返すのだろう。寂しいなんて、とても口にはできないけれど。
「……中島先生」
――好き。
たったの二文字に音を乗せようとしただけで、息が詰まった。空気だけを吐き出す胸が苦しい。まるで声の出し方を忘れてしまったかのようだった。あの日以来、中島はいつだってなまえにそうと言わせてくれないから。もう一人の彼には、いつまでも言えないままだから。
上掛けを軽く押しやって、気怠さの残る身体を引きずるようにして起こす。不躾に上から覗き込んでみても、中島は未だ目を覚まさなかった。夢を見ない眠りの中にあるのか、険のない平らかな顔はやはりもう一人の彼のようにも見える。浮かんだ欲求のままに、なまえはその頬へ手を伸ばした。なんだか無性にキスがしたかった。
「……いいんですか? このままだと、わたし」
実のところ男は寝たふりをしながらなまえを泳がせているだけで、今も虎視眈々と息を潜めていて、いざ、と思った瞬間にはもう顎でも掴まれながら「俺を出し抜けるとでも思ったか」とか何とか言われて返り討ちに遭う。それくらいの覚悟はできていたし、むしろ期待すらしていたかもしれない。けれどもとうとうその時はやって来ないまま、男の唇は無抵抗になまえを受け入れた。ただ触れるだけのそれだったが、ぬるま湯のような温度に沈む感触が妙に生々しくて、結局一度そうしたきり、なまえは男の顔も見ないで再び布団に潜り込んだ。
罠だと思って足を踏み入れたのに、罠がないことが罠だったとは。ともすれば、隣で眠っているのは本当にもう一人の――そう思いかけ、なまえは内心でかぶりを振る。
(――そんなわけないか)
窓の向こうで気の早い鴉が鳴いた。
枕元の時計に目をやれば、針はまだ僅かばかりの猶予を告げている。男に背を向ける格好でなまえは目を閉じた。眠ってしまわなければ、部屋を出ていく男の背を見送らねばならなくなる。それではまるで、道ならぬ恋でもしているみたいだ。
***
なまえが再び眠りに落ちたのを確かめてから、中島は静かに身を起こした。
本当は、好きにさせてやるつもりなどなかったのだ。だが、息苦しそうに己の名を口にした彼女の声があまりに弱々しく消え入りそうだったから、揶揄おうという気も削がれてしまった。呼ばれたのは果たしてどちらの方だったのか、今ではもう知る術もない。
「……自惚れておけばいいさ。“中島先生”は、お前にご執心だ」
もう一人の己が彼女と想いを通わせる日は、遠からぬいつかにきっとやって来る。彼女の白い柔肌も甘ったるい嬌声も、“奴”のものになる日がいつか来る。けれど、それまでは。
未だ唇に残る感覚を辿るように、親指をそこへ滑らせる。ただ一度そっと押し当てられた微熱は、息を奪い合う口づけよりも余程猥りがわしい心地がした。