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ばかになりそう

 ガツンガツンと廊下を踏み鳴らす、硬質なヒールの音。
 一歩一歩を大きく響かせながら徐々に近付いてくるそれは、わたしは腹を立てています、と声高に宣言でもしているかのようで、つい苦笑がこぼれてしまう。現在の時刻は午後三時を少し回った頃。部屋の主が来客対応のためにこの司書室を出ていったのは、今から二時間ほど前のこと。本来ならば休暇を取っていたはずの午後を、招かれざる客の来訪に潰されただけでも相当なおかんむりだったのに、「三十分で追い返してやる」はずの予定が四倍に膨れ上がったともなれば、その胸中はさぞやぐらぐらと煮えたぎっていることだろう。
 不機嫌な足音が、部屋の前でぴたりと止んだ。さて、どうやって宥めてやろうか。彼女の好きな紅茶は、まだあっただろうか。
「ああもう! あの木っ端役人共ときたら!!」
 勢いよく扉が開かれると同時に、荒らかな声が飛んできた。
 可動域の限界までめいっぱいに押し開けられたその扉は、すぐさま同じ激しさでもって元の位置へと振り戻され、受け止めた木枠が痛々しい悲鳴を上げる。なかなかに老朽化の進んだそれに対して、なまえは些か労わりを忘れているらしい。以前、とある詩人が酔った勢いで殴った壁に大穴を開けた時には、顛末書がどうのこうのと頭を抱えていたのではなかったか。もちろん今の状態の彼女にそんなことを指摘したりはしないけれど。
 絨毯が衝撃を和らげてもなお足音は猛々しい。手にしたファイルと紙束を執務机に叩きつけると、なまえはくしゃくしゃと髪をかき回しながらソファに腰を沈めた。「これだから現場を知らない人間は」だとか「慇懃無礼にも程ってものが」だとか、しばらくは滝のように止めどなく文句を連ねていた彼女だったが、ひとしきり詰り尽くして気が済んだのか、やがて口を噤むと代わりに長い溜め息を吐き出した。――そろそろ頃合いだろう。中島はソファの傍らに近付き、彼女に声を掛けた。
「お疲れ様です。……大変だったようですね」
「……ほんっと、信じられない。小娘一人だと思って好き放題言ってくれるんだから。何度ぶん殴ってやろうと思ったことか」
 いくらなんでも本当に実力行使に出たりはしないのだろうが、殴りたくなったというのはあながち冗談でもなさそうだ。それほどまでに彼女の不興を買った客人は、中央からの視察者だった。
 国立施設である帝國図書館は文部科学省の所管にあり、その中に目下の文学危機に対応するための専門機関が置かれている。特務司書兼アルケミストへの指令はそこから下されており、人の言葉を話す例の猫が主なパイプ役を務めていた。ただ、今回視察を寄越してきたのはその本部ではなく、省内の予算管理に当たっている部署だった。文学とともに歩んできた我が国である、アルケミストの活動費用は優先的に確保されているのだが、あまりに特殊な職務の性質上、その活動内容はごく限られた範囲にしか明らかにされていない。もっとも、一度は人生に幕を下ろしたかつての文豪たちを蘇らせて本の中で戦わせているなど、説明したところで誰が信じるのかという気もするが、要するに大多数の役人たちからしてみれば、アルケミストなど一体何をやっているのかも分からないような連中であり、そんなところへ多額の金を回すことについて不満を抱いている者は少なからずいるわけである。とは言っても、侵蝕者の排除に全力を挙げるというのが国の方針である以上は金を出さないわけにもいかないので、財布役としては、やることをきちんとやった上で適正な予算配分を行っていることをアピールする必要があるのだろう。「実績作りのためだけの無駄視察」というのはなまえの言であるが、確かに訪問を受けたところで実情を明かせるわけでもないのだから、そう外れたものではないのかもしれない。日頃からお金の割り振りで色々言われてるもんだから、わざわざここまで来て鬱憤を晴らそうってんでしょ。彼女はそうも言っていたけれど。
「だいたい、責任者が不在だって初めから言ってるのに、強引に訪ねて来る方がおかしいと思わない? どこまで融通利かないんだか……」
 本来ならば、なまえが一人で対応するような来客ではない。当然、あの豪快で気の良い館長の男が若い娘に面倒を押し付けるようなことをするはずもなく、日程の打診があった際に都合が悪いから別の日にと伝えていたはずだったのに、相手側が視察を強行してきたのだ。
「……馬鹿の相手は疲れるから大っ嫌い」
 誰が言っていたのかは思い出せないが、なんとなくどこかで聞いたような台詞だった。そうして、彼女の口から二度目の溜め息が落ちる。
「……お察しします。今、お茶を淹れますね」
 貴重な休暇を潰された挙句に散々な目に遭って帰ってきたのだ、そろそろご褒美の時間にしてもいいだろう。それは彼女にとっても、自分にとってでもある。湯を沸かすべく、中島は部屋の奥にある小さな流し台へと足を向ける。大方落ち着いたのか、どこか済まなそうな声が背中に掛けられた。
「……悪いわね。そういうことをさせたくて、助手を頼んでるわけじゃないんだけど……」
「気にしないでください。私が好きでやっていることですから」
 振り向いて、本心のままにそう答える。ここらでもう一つ餌をぶら下げることにした。朝からずっと来客の準備で忙しそうにしていたのだ、今日はまだ彼女の笑顔を十分に見られていない。
「それより、少し休んだら散歩でもどうでしょう? 駅前広場の花時計、この間植え替えが終わったようで――」
「行く!」
 全て言い終わらないうちから飛んできた返事と、子供のように輝いたかんばせ。待ち望んだ笑みに、思わずこちらまでつられてしまう。後はそうだ、ちょうど八つ時だし、露店で甘いものでも食べさせればきっとすっかりご機嫌になってくれることだろう。

 初めて会った時からずっと、彼女は自信に溢れたひとだった。
 頭の回転は速くて弁も立つ、一言で評するならば才気煥発とでもいったところだろうか。多少短気で直情的で、多分に負けず嫌いなところはあるけれど、何事にも物怖じしない真っ直ぐな姿と垣間見える性根の優しさは、この目にひどく眩しく映った。
 ――帝國図書館へようこそ。歓迎するわ、中島敦さん。
 曖昧な記憶を抱えて二度目の命らしいものを与えられた日、にっこりと差し出された手を取ったその時からきっと彼女に惹かれていたのだ。高嶺の花だということにはすぐに気が付いた。彼女の周りにはいつも多くの者たちが集っていたし、共に文学を守る同胞以上の感情を抱いているのが自分一人だとはとても思えなかった。だとすれば、名だたる文士たちを差し置いて自分が彼女の隣に並び立てる道理はない。たとえばなまえが特務司書に就任したまさにその日からの付き合いであるらしい関西弁の青年だとか、あるいは小説の神様と称されるさっぱりした兄貴肌の青年だとか、そういう快活な男の方が、覇気のない自分などより余程釣り合いが取れるだろう。実際になまえが彼らと笑い合っている場面を中島は何度も見てきたし、その度に心の内で悋気を燃やしてきたのだ。どうせ手は届かないのだと諦める気持ちの一方で、似合いだと思い知らされるのがどうしようもなく口惜しい。打ち解けたように遠慮なく背を叩いてもらえる彼らが、妬ましくて仕方なかった。
 だが、ある時から彼女は中島を助手として傍らに置くようになった。それまで何度か交替のあったその役職に就いて以来、中島は一度として解任を言い渡されていない。嬉しくないと言えば当然嘘になるが、初めのうちはそれよりも疑問の方が大きかった。仕事ぶりを買われたというのでは今一つ説明がつかない。というのも、前任者である森鴎外はかつて上級官吏を務めていたこともある男だ。官の仕事なら、彼の方がずっと覚えがあるだろう。
 助手を任されてからひと月が経ちふた月が過ぎたある日のこと、とうとう理由を尋ねた中島になまえは珍しく言葉を詰まらせた。どこか決まりが悪そうにこちらから目を逸らし、たっぷりと間を置いてから、仄かに頬を赤らめて彼女は言ったのだ。中島さんといると落ち着くから。その時の表情と声音は、絶対に忘れることなどできない。
 別に変な意味じゃないんだから、と添えられた言い訳も含めて、己の願望が作り出した妄想なのではないかとすら思った。まさか彼女が、自分のような男を。俄かには信じがたい、しかし改めて「そう」だと思って見てみると、合点のいくことがあまりに多すぎた。勘違いで片付けるには都合のいいことばかりが起きる。そうしてひとたび確信してしまえば、禍々しいほどの嫉妬心は嘘のように消えていった。この勝気な娘が自分の前でふにゃりとやわらかく相好を崩す瞬間、中島は形容しがたい喜悦を覚える。朝一番に顔を合わせて挨拶を交わす時の笑顔さえ、己以外の誰にも見せないことを今ではもう知ってしまったのだ。一歩先へと進んでみたい気持ちは当然ある。けれどもうしばらくの間は、幸福な優越感に満たされたこのままの関係を愉しんでいたかった。

 そんなことを思い返しながらカップに紅茶を注ぎ始めたとき、不意に鳴り響いた電話のベル。
 なまえはあからさまに嫌そうな顔をした。せっかく機嫌が上向いたところだったのに、なんともタイミングの悪い。面白くなさそうに立ち上がると、彼女は渋々といった様子で卓上の受話器を取る。
「はい帝國図書館司書室……ああ館長? お疲れさまです。ええ、あの馬鹿役人たちならさっき帰ったところで――」
 電話の主は彼女の上司だったようだ。最初のうちは相槌を打ちながら手元のメモ用紙に何事かを書きつけていたなまえだったが、次第にその顔は曇り始めた。別件、意見書、三日後までに本部……と電話の向こうの声を繰り返しているのであろうがどうにも不穏な言葉が並ぶ。やがて溜め息とともに、ペンを動かす手が止まった。
「……分かりました。詳細は今はいいですから、資料を送っておいてください。どうせ今日は何もしないので。……え? 大丈夫に決まってるでしょう、わたしを誰だと思ってるんですか。……とにかく! わたしこれから休暇なんです、書類は期日までに出します、今日はもう一切働きません! お疲れさまでした!」
 一方的に通話を終わらせる強引さについ笑い出しそうになる。もちろん彼女の上司は、そんなことでいちいち苦言を呈するような男ではない。
「司書さん。急なお仕事なら、出掛けるのはまた今度でも……」
 再びソファに座り直した彼女にカップを差し出して、添えた言葉はただのポーズだ。なぜなら、答えなどもう分かりきっている。
「あら。あなたまで、まだ働けって言うの?」
 悪戯っぽく笑う彼女は有言実行のひとなのだ。やると言えばやるし、無責任なことは決して口にしない。だったらお疲れの今日は休息を共にして、また明日からの仕事を支えればいい。そうすることができる場所に、中島は立っている。
「わたしが行きたいの! 付き合ってくれるんでしょう?」
 何せ自分は、彼女に選ばれた助手なのだから。


 ***


 帰路につく頃には、もう夕暮れが迫ってきていた。
 澄んだ青色の空が、西の方から次第に茜へと染まり始め、流れる雲も淡く色づきだしている。
 新たな装いとなった花時計を目で楽しんで、遅いおやつだと屋台のアイスクリームを買い、何でもない話をしながら過ごした二人きりの時間。散歩と言って連れ出したが、恋人同士ならこれをデートと呼ぶのだろう。並んで歩く自分たちも、周りからならそう見えるのだろうか。終点が近付くほどに、この道がいつまでも終わらなければいいのにと願ってしまう。そんな気持ちが、自然と歩調を緩めさせていた。
 中島さん。呼ばれて顔を向ける。なまえは正面を向いたままだった。
「いつも、その……ありがとう、ね」
 横顔が照れくさそうに謝辞を述べる。潜書にしろ助手業務にしろ、働きはきちんと労ってくれる彼女だから、それが耳慣れないわけではない。違って聞こえるのは、どこか落ち着かない視線と声音のせいだ。
「今日だって、昼からは好きなように過ごしててって言ったのに、結局ずっと待っててくれたでしょ?」
「好きにしていいと言っていただいたので、そうしただけですよ」
「……お人好しなんだから。でも、もう助手になってもらってだいぶ経つし……辞めたくなったら、ちゃんと遠慮しないで言ってよね」
 仮に暇をくれとでも告げてみたら、彼女はどんな顔をするだろう。傷ついてくれるだろうか、なんて汚い感情が僅かに頭を擡げた。もしかするとほんのひと時だけは満たされるのかもしれないが、その先に己の望むものはない。彼女に一番近いこの場所を、誰にも渡したくはないから。
「いえ。あなたが良ければ、いつまでも任せていただきたいくらいなんです」
「……本当に? じゃあ、これからもお願いしていい?」
 もちろんと頷けば、安堵の表情が向けられる。よかった、頼りにしてるから。そう言う彼女がどれだけ嬉しそうな顔をしているのか、鏡でも見せて教えてやりたくなる。ついでにちょっとした悪戯心が芽生えて、中島はその囁く声に従うことにした。
「ご期待に添えるよう、頑張りますね。……でも、どうして私なのですか?」
 あの時と同じことを聞きながら、心境は全く違う。変わらなかったのは、困った様子で彼女が言葉を詰まらせたこと。
「……前にも言ったでしょ? ほら、わたしこういう性格じゃない。これでも怒りっぽいのは自覚してるつもりなの。だけどあなたといる時は、なんだか不思議と穏やかな気持ちに……って、何を言わせるのよ! もう、変なこと聞かないでよね……!」
 逃げるように速足で、彼女が隣を抜けていく。それに追従せず、中島は歩みを止めた。
「司書さん――いえ、なまえさん」
 今のままの関係を、もう少し愉しもうと思っていた。けれど気が変わった。数歩先で振り向いた彼女が目を瞠る。当人に向かってはっきりと名を呼んだのは、これが初めてかもしれない。意外なくらい口に馴染むのは、夢の中で何度も呼んでいたからか。
「お慕いしています。心から」
 本当は、彼女に言わせてみたかった。どうやって実現させようかと思案を巡らせたこともある。だが、それはこの先でいい。心の内を直接伝えるなど、自分には不得手であると思っていたが、それは驚くほどにするりと言葉になった。
 いっぱいに見開かれた瞳が数度瞬いて、ようやくなまえは何を言われたのかを理解したらしい。既に淡く染まっていた両の頬が、みるみるうちに鮮烈に色づいていく。
「なっ、何、えっ、ちょっと待って、え、うそ……」
 あまりの狼狽ぶりに、今度こそ笑いを抑えられなかった。からかわれるのが嫌いであるのは知っている。それでももっと揺さぶりたくなる。もっと乱してやりたくなる。自分以外の誰にも見せない姿を、もっと。
「お顔が真っ赤ですよ。可愛らしいですね」
 やりすぎたとは思わない。
 ただ、反撃を全く予測していなかったのは、自分の手落ちなのかもしれない。確かに彼女は負けず嫌いだった。けれどもまさか、距離を詰められるなり胸倉を掴まれるとは思わなかったのだ。不意をつかれてよろめいた視線の落ちた先、背伸びをする爪先が一瞬だけ見えた。それからすぐに、視界は何も映さなくなる。
 押しつけられた唇に、彼女の温度を知った。
「……わたしを動揺させた罰よ」
 強気な台詞を吐きながら、それとは真反対の泣き出しそうな顔で睨みつけてくるなまえを、沸き上がるいとおしさのままに抱き寄せる。腕の中でついに彼女は固まった。
「こんなに幸せな罰なら、何度でも……」
 見上げてくる瞳に、最早きりりとした特務司書の面影はどこにもない。伝わる鼓動の速さはまるで初恋を知った少女のよう。
 火傷しそうな頬に手を添えれば、長い睫がふるりと揺れた。何も言えなくなった彼女に中島はためらうことなく口づける。ここが往来だと、頭の片隅では分かっているはずなのに。焦らずともこれからは、どこでだって何度だって触れられるのに。離せば途端に名残惜しくなって、やわらかな熱を繰り返し求めてしまう。
 このままだと、なんだかとても。
「……馬鹿になりそう……」
 ――私もです。
 とろけそうな声にそれだけ答えて、甘い唇をもう一度食んだ。