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共犯

 空が白み始める前に、ふと目を覚ましてしまう夜がある。
 そんな夜には決まって彼が隣にいた。情事の後、まだ気怠さの残る身体に休息は不十分であるはずが、不思議と眠気は感じない。朝はあまり寝起きがいい方ではないのに、深夜にばかりすっきり覚醒してしまう理由は分からないが、いつからかそれが当然のようになっていた。そうして再び眠りに落ちるまでの時間は、いつも恥ずかしがってなかなか見つめさせてくれない隣の男を好きなだけ眺めるために与えられた、ささやかな幸福のひとときだとなまえは思っている。
 雲が月を隠しているのか、窓辺から差し込む仄かな光もない部屋では何も見えない。なまえは手を伸ばして枕元のランプを灯した。彼を起こしてしまうかもしれないとも思ったけれど、顔が見たかった。男の伏せられた瞼は、明かりに反応してか少しだけ動いたものの、寝息は変わらない調子を保ったまま。
 時を経てこの世に転生した文豪たちは何故か見目の麗しい者ばかりだが、隣で眠る恋人――中島敦も多分に漏れない。それは決して惚れた欲目だけではないし、レンズのない素顔を見ていると尚のことそう感じるのだ。品良く整った顔立ちに長めの睫。綺麗だと形容したくなる相貌を、素直に羨ましく思う。
 そうして気が済むまで寝顔を眺めた後、なまえは男にぴたりと身を寄せた。互いに何も纏わない素肌、伝わる体温が心地好い。稜線を辿るように、そっと胸板に手を触れてみる。無意識にこぼれ落ちた溜め息は、思いのほか熱を孕んでいた。
 体つきは華奢ではあっても、男のそれに他ならない。ふたりきりの世界で汗ばむ肌と肌とを重ねるとき、しがみついた体躯の確かさにも、抱き返してくれる腕の力にもそうと思い知らされる。それでも、なまえを誘ってくれる彼の手はいつだって優しすぎるくらいに優しかった。
 労わるような慈しむような、まるで自分が高貴な何かだと錯覚してしまうような触れ方に不満などない。彼は献身的になまえを悦ばせようとしてくれるし、そうしていつも抗えない高みにまで導かれる。ただ、それがどこまでも紳士的であることを、ほんの少しだけもどかしく思うのだ。本当はもっと欲を見せつけて欲しい。偶には互いを貪るようにひたすら求め合って、陽が傾くまで目を覚ませなくなるくらいに深く溺れてみたい――そんなこと、もちろん口にはできないけれど。
 猫がするように額を擦り付けながらべたべたと触っていたら、さすがに無遠慮が過ぎたらしい。傍らの男が身じろいだ。

「ごめんなさい、起こし――」
 顔を上げて、なまえは言葉を失った。
 目が合ったのだ。そしてなまえを捕らえたふたつの瞳に眠気は欠片もなく、それどころか注がれる視線は鋭い光を宿してこの身を突き刺すかのようだった。
 そこにいたのは、いつもの彼ではなかった。
 なまえは咄嗟に男の胸を押した。今の今まで身を擦り寄せていたのと同じ身体なのに、素肌が触れているのが死ぬほど恥ずかしい。激しい動悸が全身を打ち、全ての血液が一気に集まったかのように顔が熱く火照りだした。
 ――なぜ、どうして今この時に彼が。
 なまえのよく知る穏やかな中島は、自らもう一人の彼に身体の支配権を譲り渡すこともできなければ、彼からそれを取り上げることもできない。与奪の権は専ら、いまなまえの目の前にいる男が握っているのだ。だから彼がここに現れたのは、彼自身の意思に他ならない。
 こんなことは初めてだった。意味こそ違うが、なまえにとって二人の中島敦は共に大切な存在だ。こちらの中島との関係で言えば、確かに奇妙なそれではある。だが、少なくとも彼はもう一人の自分となまえが恋仲にあることに異を唱える気はないようだったし、そうなる前と後とで彼の態度が変わったようにも思わない。奴でなくて残念だったな。いつかの休憩時間、中庭かどこかで偶々出くわした彼に、そんな風にからかわれたことだってあったのだ。歓迎されていると言えるほどの自信はないが、きっと認めてくれているのだと。もう一人の自分となまえとのことを、彼は見守ってくれているとばかり思っていた。それなのに、この状況は。
「な、中島、先生……?」
 男は何も言わず、無表情のままこちらを見据えている。視線に縫い止められたように、なまえは目を逸らすことができなかった。せめて何か一言でも口にして欲しい。まるで意図の見えない男の所作に堪えかねて、そう懇願しかけたときだった――不意に男の腕がなまえを引き寄せたのは。
 申し訳程度に離した距離が一瞬で元通り、それ以上に詰められる。抗う間もなかった。頬を掴まれ、視界いっぱいに彼の琥珀色が広がって、声を上げることも許されないうちに口を塞がれてしまう。横暴な熱に無理やり唇を割り開かれた後は、舌を捕らわれ噛みつかれるのも全て男の為すままだった。――こんな口付けなど知らない。こんな風に荒々しい、頭の芯が痺れてどろどろに煮溶かされるような口付けなど知らない。知っているのは、いつもの中島がくれる慈しむように優しいそれだけだったのに。
 口腔をさんざん舐り尽くされて、ようやく解放された頃には息も絶え絶えの有様だった。それでもなまえは、なお男から目を逸らせずにいた。涙で歪んだ視界でも分かるくらいにはっきりと、彼は口許を吊り上げた。
「物足りないんだろう」
 ――目を瞠ってしまった。
 言葉を返すことができなかったのは、確かに息切れのせいではなかったのだ。そして、それが何よりの答えになってしまっていることを、男は見逃してはくれなかった。
 今度は真上から圧し掛かられる形で全ての逃げ場を封じられ、知らされたばかりの熱を再び味わわされる。背中を粟立たせるのが恐怖感でないことは、既に暴かれてしまった。受けているのは蹂躙めいた行為であるはずなのに、下腹部がじくじくと疼き出したのに気付かぬふりはもうできない。同じ身体が、こうも違って触れるのだ。目の前の男は彼であって彼ではない。愛しい人と同じ名に同じ姿形、けれどもそこにあるのは別の自我。だからこんなことは許容してはいけなくて、撥ねつけなければならなくて、頭ではそうと分かっているのに応えるように舌を動かしてしまう。そうしてやがて離れたそれを、名残惜しいとさえ思ってしまう。
 唇の次は耳朶を食まれた。湿った熱が淫靡な音を立てて耳孔を犯し、思わずあっと上擦った声が漏れる。うねる波濤が背を震わせる。いつもの中島にだってそんなところを弄ばれたことなどなかったはずが、どうしてだろう。当然のようにそこを嘖む男は、なまえが反応してしまうことを初めから知っていたかのようだ。
「抑えるな」
 唇を噛んで声を殺そうとした、その矢先のことだった。耳元で囁かれる、悪事を唆す低音。
「隠す必要はない。俺はお前がどうしようもない淫乱だと知っている」
「……! 違います、わたしそんな……!」
 一瞬で顔が熱くなったのは、羞恥ではなく怒りのせいだと思いたかった。顔を上げ、上体を起こした男はなまえの抗議の視線も意に介さず、嘲るように鼻を鳴らす。
「どの口がそれを言う」
 男の片手が脚の付け根へ伸ばされた。胎に突き入れられた指に、一切の躊躇いはなかった。腰が大きく跳ねる。もっとひどいのは、なまえの身体がそれを容易く受け入れたこと。けれど、潤んでいることは確かに自覚していたのだ。口付けと耳への愛撫だけで、自分でもどうかしていると思うほどに。柔壁を数度擦って引き抜かれた長い指、蜜に塗れててらてらと光る様を男はなまえの眼前に突き出して見せつけてくる。自らの言葉を証明しようとするかのように。
「お前は淫乱で被虐趣味だ。奴には荷が重い」
 さすがにひどい侮辱ではないか。覚束ない意識の端でなんとかそんなことを思うけれど、再び合わせ目をくじられて最早何も考えられなくなる。まともな言葉を紡げる気もしないのに、なまえは必死で言い訳を探していた。痛めつけられたいと思ったことなどない。ただ情熱的に求められてみたかっただけだ。いつもの彼に、もう少し強引になって欲しかっただけだ。彼の本当の欲望をぶつけられたかっただけなのだ、こんな風に――……こんな風に?
「あぁっ……!」
 きっと、それが、男に屈した瞬間だった。
 かたく充血した花芯を弾かれて、もう目も開けていられない。蜜を塗りつけるようにそこを撫で擦る指と、熱くとろけた中をかき回す指。動かされる度に身体がしなる。腰が浮く。甘ったるい悲鳴が零れ落ちる。
「やだ、うそ、せんせ、あ」
 その時ふと、なまえを甚振る指が動きを止めた。違う、と。そう一言、男は言う。
「……え? ……あっ、ああ、待っ」
 だが、何だったのかと思う間もなく再び芽を摘まれ、擦られ、押しつぶされながら内壁をぐりぐりと抉られて、度を越した快感になまえは喘ぐしかない。
 今となってはもう、自分を好色と断じた男の言葉を否定できる気もしなかった。恋人ではないはずの男に犯されて、こんなにも悦んでいるのだ。せめて身体が陥落しても、心を保っていられたのなら何かが違ったかもしれない。けれどそうとはとても言えなかった。紛れもない自分の意思が、もっと先にあるものを浅ましく求めている。
「だめ、や、なかじませんせっ」
「だから違うと言っている」
 またしても唐突に刺激が止んだ。男の声にどこか苛立ちが混じったような気がして、閉じた瞼を上げてみる。視線を合わせても見つからない、二度聞かされた「違う」の真意。それでも途絶した快楽を繋ぎ止めたくて、やめてほしくない一心でなまえは答えを探す。なかじませんせい、そう言いかけて、男の眉が僅かにだが顰められた。そうして。
「……あつ、し、さん?」
 ただ一瞬、全ての時が止まった。
 まばたきの後にはすぐ目の前に男の顔があった。熱っぽく上気した、彼らしくもなく余裕を欠いたような表情。なぜだかそれをひどく嬉しいと思った。気付けばなまえは、男の首に腕を回していた。
 流し込まれる唾液が甘い。そんなことがあるはずもないのに、感覚がもう狂っている。けれどもまだ足りない。身体の一番奥がじんと疼いて、情欲を訴え続けている。早く、早くつながりたい。貫かれてめちゃくちゃにとろかされたい。腹部に押し当てられている硬く屹立したそれを、一番深いところへ穿たれて打ちつけられて掻き回されたい。何度も何度も、頭が真っ白になるまで。
「……望みを言え」
 唇が離れても、吐息の触れる距離だった。
 さもなければこのままだ。息を乱しながら男は言う。拒む理由は既に失くした。促されるままに、なまえは口を開いた。彼が待ちきれなかった。これ以上焦らされたら死んでしまうとさえ思った。
「……もっと、」
「もっと、何だ」
 ――あつしさんがほしい。
 男の顔が愉悦に歪む。琥珀の眼差し。浮かぶぎらついた欲望の焔。そしてその向こう側にある、よく見知ったはずの。
 望みを言えと命じた彼自身の望みは一体何なのか、彼がなまえをどうしたいのか、初めは何一つ分からなかった。そのまま気付かずにいられた方が、いっそ幸せだったのかもしれない。単に都合のいい捌け口にされただけだったなら。そこに何の想いもなかったなら。最後の最後で、そうでないことを思い知らされるなんて。
「ああ――くれてやる」
 待ち望んだものに最奥までを一気に貫かれ、稲妻のような奔流が全身を迸った。
 きっと、きっとこれは優しい恋人への裏切りになる。だが、もう後には戻れない。褥の上で邂逅したその時から、別の道などありはしなかったのだ。
 彼もまた、中島敦でしかないのなら。