Aa ↔ Aa

ああ無情

「……中島、さん」
 歯切れの悪い声が、重い沈黙を破った。
「……ええと、その。……試して、みる……?」
 恐る恐る様子を窺うように見上げてくる、頼りない双眸と視線がぶつかる。選択を迫られた男は、思わず顔を歪めた。

 中島が司書とともに得体の知れない書の中へ閉じ込められたのは、今から小一時間ほど前のことだった。
 ――最近ね、アルケミストの魂が本の中に取り込まれるっていう怪奇現象が、全国の図書館で起こってるんだって。魂を抜かれちゃったら、もう何をしても絶対に目を覚まさなくなるみたい。元に戻る方法はひとつだけで、その本の中で降りかかってくる試練だか何だかっていうのをクリアするしかないらしいの。ほんっと物騒な話よね。まあ、わたしは大丈夫だと思うけど、中島さんも妙な本を見つけたりしたらすぐに教えてね。
 もう一人の自分が、司書とそんな会話をした直後にそれは起こった。見覚えのない本が一冊、手も触れていない書棚からひとりでに床へ落ち、そうして次の瞬間には、目の眩むほど強い光が辺り一帯を包み込んでいた。
 視界を取り戻したとき、そこはもう今まで過ごしていたはずの司書室ではなかった。見知らぬ部屋の中を、中島は司書とともに立っていた。
 十畳ほどの広さに、ありふれたフローリングの床。四方は全てがまっさらな白い壁で、扉もなければ窓もない。天井に埋め込まれた照明は暗く、部屋全体が夕暮れ時のように薄ぼんやりとしている。中央に置かれたやけに大きな寝台が唯一の調度で、それがこの部屋の異質さを一層際立たせていた。
 そのときには既に、中島はもう一人の自分と入れ替わっていた。いくらあの男とはいえ、まさか閃光を浴びただけで失神するとはとても思えないし、もちろん意図的に身体を取り上げたりもしていない。訳も分からず引っ張り出されたこの場所が書の中の世界であることは間違いなかったが、まさか聞かされたばかりの珍妙な話を身を以って味わわされることになろうとは。よくも俺を巻き込んでくれたものだ。この馬鹿、何が「わたしは大丈夫」だというのか。中島は内心で毒づいた。この頃にはまだ、己にも司書にもそれくらいの余裕はあったのだ。――噂をすれば、ってね。いいわよ、やってやろうじゃない。どっからでもかかってきなさい! と現状を把握したらしい司書は、怯えるどころか鼻息荒く腕まくりをするような状況だった。
 寝台の上に置かれた一枚の用箋に気付いたのは中島だ。おそらくそこに、司書の言うところの試練だか何だかとやらが書かれているのだろう。侵蝕者でも斬れというのなら話は早い、何であろうとさっさと終わらせるに限る。ここに来る前までは、司書室にいたのは週交代の助手を任されていた中島と司書の二人だけだったが、遅かれ早かれ誰かが部屋を訪れれば事態は皆の知るところとなる。司書が昏睡に陥ったとあっては、図書館は大騒ぎになることだろう。
 中島は用箋を手に取った。読み終えた瞬間、衝動的に丸めたそれを床に叩きつけることになるとも知らずに。
 ――汝ラ、道ヲ開カムト欲スルナラハ、互ヒニ情ヲ交ハスヘシ。
 皺だらけになった紙切れを拾い上げた司書も、顔を真っ赤にして絶句していた。その後しばらくは当たり散らすように壁を叩いたりしていたが、中島がいくら殴ろうが蹴ろうがびくともしないそれを、非力な娘一人がどうこうできるはずもない。やがて疲れ切った様子で、司書は寝台に腰掛けた。お得意の錬金術も、素材がないのでは何の役にも立たない。万事休すだ。このふざけた指示に従うことを除いては。
 焦りと苛立ちばかりが募る中、時間だけが徒に過ぎていく。そうして、長い長い沈黙の後、とうとう司書は口にした。試してみるか、と。
「……あなたが不本意なのは分かってる。分かってるわよそんなの、当たり前じゃない。……だけど、現状ほかに手がかりもない、でしょ……?」
 中島の反応を否と取ったのか、司書は言い訳がましく視線を泳がせた。尻すぼみになる口調に、嫌というほど申し訳なさが滲んでいる。
 ――この短慮が。それがただの八つ当たりだと分かっていたから、舌を打ちそうになるのを寸でのところで堪える。眉を顰めたのは、司書の申し出が是認し難いものだったからではないのだ。いよいよどうにもならないとなれば、この女を寝台に押し付けるという心積もりはある。けれど、できることならそれは避けたかった。最後の手段を採ることを決めるには、あと僅かばかりの時間が欲しかった。――何故ならば、もう一人の自分がこの女を好いているからだ。
 もう一人の自分が目を覚ますのを、中島は待ちたかった。不本意だろうと司書は言ったが、“奴”にとっては必ずしもそうではない。確かに間接的に強いられる形ではあっても、惚れた女を抱けることに違いはないのだ。経緯はどうあれ、中島敦という男の存在をこの女に痛いほど刻み付けることはできよう。いつも遠巻きに見つめるばかりで手をこまねいているあの男が、他の連中から一歩抜きん出るにはむしろ絶好の機会でもあった。それなのに“奴”は応えない。中島は何度も呼んだ。俺の出番ではないと。これはお前の仕事だと。けれども、どれだけ呼びかけようと、もう一人の自分は決して目を覚まそうとはしなかった。
「……まあ、出られる保証もないといえばそうだけど。それでも、こんなところにあなたを閉じ込めたままになんかできないし、わたしだってこのまま植物状態になるなんてごめんだし……」
 好きでもない男に抱かれるくらいなら死んだ方がましだ、と言い切る女も世にはいるだろうが、知らぬ仲でもないなら貞節の方を諦めるのが普通だ。実のところ、あまり猶予もないのかもしれなかった。肉体のくびきを離れた魂が不安定な存在であることを、今の中島は知っている。たとえここから解放されたとしても、乖離状態が長く続いたあまり、魂と肉体との紐付けが失われてしまったとしたなら――どうなるかなど、考えたくもない。
 仮に――共に閉じ込められながら司書を救うことができなかったと知れば、“奴”の精神はきっと崩壊する。
「だからね、その、お詫びなら後でいくらでもするから――」
「もういい。少し黙れ」
 ともすれば延々と続きかねない説得もどきの声を遮った。
 司書は不安そうにこちらを見つめてくる。見殺しにするとでも思われているのなら心外だ。溜め息が出る。
「……案ずるな。こんな所でお前と心中するつもりなど毛頭ない」
 寝台へ近付き、中島は司書の隣へ腰を下ろした。やんわりと沈むマットレスは嫌味なほどに質がいい。そんな場違いな感想が頭に浮かんだ。
「いいか。ここは書の中だ。どれほど忌々しかろうが、所詮は作られた、架空の世界に過ぎん」
 落ち着かない表情のまま、司書は頷いた。
 先に諦めたのはこの女の方だ。なのにどうして己は、宥めるような言葉をこの女に言い聞かせているのか。
「ここで何が起ころうと、お前の何が損なわれるわけでもない。こんなものはただの夢だ。ただの悪夢だ」
 誰よりも己自身が、それを詭弁だと思った。滑稽で仕方がない。何故ならこれは、“奴”への言い訳でしかないからだ。
 なかじまさん。縋るような声音に、遣る瀬無さを通り越していっそ腹立たしい気持ちになる。肩を押してやれば、司書の背中は呆気なく寝台へ沈んだ。
 今になって思えば、この女に例の紙を読ませたのは失敗だった。己に対する罪悪感など持たせて一体何になる。初めから黙って犯してやればよかったのだ。二人の中島敦が――“奴”と“俺”とが違うことをよく理解しているこの女なら、己を恨んでもあの男のことまで拒絶したりはしないだろうから。
 倒れた女の両脇に中島は手をついた。覚悟を決め切れない二つの瞳が揺れている。
「……ふん。自分から口にしておいて、今更怖気づいたか」
「……そうじゃない、けど……」
 逃げるように顔を横に背けて、司書は言葉を濁す。続きは言いたいけれども言えない、そんな様子は伝わったが、中島にはもうどうでもよかった。
「奴なら優しくしてやっただろうに、残念だったな。こんな面倒事、本来ならすぐにでも押し付けているところだが……このふざけた本のせいだろう、あの馬鹿、一向に目を覚まさん」
「べ、別にわたしは……!」
 もう一度こちらを向き直った司書が泣き出しそうな表情をしている。――お前はついに知ることはないだろう。いつも勝ち気で口煩いこの女に、こうも悲愴な顔ができるとは。こんな機会でもなければ、お前がこの女に触れることなど永劫叶うこともなかったというのに。お前が目を覚まさないせいで、お前の恋しい女は別の男に犯される破目になるのだ。
「……好いた男がいるなら、せいぜいそいつのことでも考えておけ」
「だからッ――」
 物言いたげな口を強引に塞いで黙らせる。
 抱いてしまえばそれで終わるのだから、口付けをする必要などどこにもないことに気付いたが、それをかき消すように中島は不幸な女の唇を蹂躙してやった。
 何が損なわれるわけでもないなどとは、我ながらよくも馬鹿げたことを言ったものだ。身体を穢されるよりも、魂を穢される方が余程ひどいのに決まっている。そんなことは分かっていた。誰もが望まぬ結末にしかならないことなど初めから分かっていた。分かっていたけれど、もうどうしようもなかった。
 名を呼ぶ声に覚えた痛みなど、己が知るべきものではなかったというのに。

企画参加品
17.05.22

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