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猫と午後
一度は言ってみたかっただとか、そんな風に思っていたわけでは決してない。
確かに物語の世界ではよくありがちな、所謂お決まりの台詞に類するものではあった。けれど、そもそもその言葉を使わなければならないような状況に陥ることの方が問題だし、仮にそんな状況に直面したとしても、実際にその言葉を選ぶかどうかと聞かれれば、まず間違いなく首を横に振る、と思う。
ただ、今この時ばかりは、それ以上に相応しい言葉をわたしは見つけることができなかった。というか、目の前の光景を認識した途端に自然とそのフレーズが頭に浮かんできて、後はもう勝手に口が動いていたのだ。もっとも、一般的によく聞くところのそれに比べれば、思いっきり迫力に欠けるけれども。
「この泥棒猫……」
目一杯の恨みを込めて見つめた先。ベンチに腰掛ける恋人の膝の上では、一匹の白猫がくつろいでいる。
帝國図書館には、一般の来館者に開放された庭園の他に、関係者だけが出入りのできる区画に裏庭がある。そこが野良猫たちの溜まり場になっていることは、図書館の猫好きなら誰もが知っていて、室生先生なんかはここで一日中猫とじゃれ合って過ごすこともあるらしいし、犬派だという夏目先生だってなんだかんだで時々様子を見に来ているらしいし、実は谷崎先生もここの常連であるらしい。そしてこのことを教えてくれた中島先生は言わずもがな、だ。昼休みに食堂で顔を合わせた時も、今日は予定もないし、天気がいいから裏庭で猫と遊んでくる、というようなことを言っていた。なまえさんも、お仕事が一段落したらぜひ来てくださいね。笑顔でそんなお誘いを受けてしまっては、普段から書類仕事にはあまりやる気のしないわたしだって、本気を出すより他はない。そういうわけで、中島先生と二人で穏やかな時間を過ごしたい――もっと欲望に忠実に言うならば、子猫よろしく中島先生に甘やかされたい一心で、わたしは助手もびっくりの勢いで大嫌いな報告書を片付けて、そうして小走りで裏庭へと向かったのだった。
そんなわたしを出迎えたのが、この光景だ。
お疲れ様です、といつものように労いの言葉をかけてくれた先生も、わたしの開幕泥棒猫発言にはさすがに少し面食らったようだった。それにも構わず女の子ですかと尋ねれば、そのようですと返される。雌雄を気にしているあたりが我ながらどうしようもないと思わないでもないけれど、そこはまあ気分の問題、というか。
裏庭は野良猫の溜まり場であるはずが、中島先生の膝の上に我が物顔で陣取っている白猫は明らかに野良ではなかった。首輪こそしていないものの、身体はきれいだし毛艶もいいし、きっとそれなりのお家で大切に飼われているんだろう。近付けば警戒して離れてくれるだろうか、と思って、わざと音を立てて先生の隣に座ってみても泥棒猫はどこ吹く風だ。それどころかわざわざこちらを向いて、わたしを小馬鹿にするかのように大欠伸をしてみせるし、そうかと思えばごろごろと喉を鳴らしながら先生の膝に鼻先を擦りつけている。無邪気に甘えているというよりは、どうにも下心めいたものを勘繰ってしまうような仕草だ。これが猫でなければ小憎たらしいだけなのに、敵ながらかわいいと思わされてしまうのが余計に腹立たしい。
「初めて見る顔だと思って構っていたら、すっかりこんな調子なんです」
「え、一見さんなんですかこの子。そのくせにわたしの中島先生の膝を奪うだなんて、ずいぶんいい度胸じゃない……」
せめて片膝くらいはわたしに譲ってくれてもいいんじゃないだろうか。そう思って口にも出してみたけれど、お断りだと言わんばかりに長い手足を伸ばしてみせるこの子はまるで人間の言葉を分かっているみたいだった。
猫を相手に敵意を剥き出しにしまくっているわたしは傍から見ればさぞ滑稽なことだろうが、それでもあまりの大人気なさが功を奏したのかもしれない。中島先生は困ったように笑いつつも、きっとわたしのわがままを聞いてくれるつもりなんだろう、侵奪者のモフモフした身体の下に両手を入れようとした。ところが敵はそれを察知したのか、がっしりと先生の膝にしがみついて離れない。徹底抗戦の構えだ。
「なんて奴なの……!」
嘆くわたしの隣、ふふっとこぼれた笑い声の方を向けば、先生は黄金色の両目をやわらかく細めていた。わたしは思わず口元を押さえたくなった。この優しい微笑みはわたしの大好きな表情のひとつで、何度出会ってもその度に胸の辺りがじんわり温かくなる感覚がするのだ。これを見られたらもう何だってできそうな、そんな気持ちにさせられてしまう。ただ、今回のそれがこの泥棒猫のおかげだというのは、ほんの少しだけ面白くないけれど。
「……うれしそうですね」
思った以上に恨みがましい口調になったわたしに、先生は笑顔のままで、ええ、と言う。
「だって、あなたがそんな風に妬いてくださるんですから」
「な、」
そうして爆弾を投げたのだった。
「……なんだそれ……」
わたしは嘆息しながら顔を伏せた。というよりは、額を膝にくっつけるようにして二つ折りになった。
地面と平行になった背中にすかさず軽い衝撃が落ちたのは、きっと足元で遊んでいた子猫が飛び乗ってきたんだろう、そのままわたしの髪にじゃれ始めたみたいだけれど今はそんなことに構ってはいられない。いけませんよ、と先生の声が聞こえたが、いけないのはあなたの方だ。普段は控えめで恥ずかしがり屋なはずなのに、中島先生は時々こういうことをする。視界を閉ざしても、先生の笑顔と声とが繰り返されて離れない。だって、だって仕方がないじゃないか。猫にも本気で妬いてしまうくらい、わたしはいつだって先生のことばかりなんだから。
ようやく気を落ち着けて身体を起こすと、隣から先生の手が伸びてきて、わたしの頭ではなくその上に居座ることにしたらしい子猫を撫でる。なんだか今日は、あの子もこの子もずいぶんわたしの邪魔をしてくれるようだ。
「いつも付き合ってくださって、ありがとうございます。あなたを退屈させてしまってはいないでしょうか?」
「いいえ、わたしが好きでこうしてるんです。隣で先生を見ていられたら、それで幸せですから」
――でも、やっぱり見てるだけじゃ嫌です。
あっさり前言を撤回して、だから、とわたしは言葉を続ける。
「後で膝枕してくれますか?」
「私ので良ければ、お好きなだけ」
「ちゃんと頭も撫でてくれますか?」
「もちろんです」
「じゃあ……ちゅうしてくれますか?」
「は、はい」
「……やらしいことは?」
そう尋ねると、先生は慌てた様子で言い淀んだ。
「それは……! ……その、夜まで待っていただけるなら……」
けれども結局は、わたしの欲しい答えをくれるから。膝の上の恋敵については、当面の間は目を瞑ってやることにしよう。
「……だったら、今はその子に譲ってあげます」
先生のほんのり赤くなった顔に免じて、とは言わないでおく。
泥棒とはいえ、趣味の良さだけは認めるしかないだろう。先生のそばを離れたくない気持ちはよく分かる。わたしが猫でも、きっと同じようなことをしていたに違いない。
「……困りました」
「先生?」
そんな風に譲歩したばかりだったのに。中島先生はぽつりと呟くと、もう一度猫の身体の下に両手を差し入れた。すっかり落ち着いていたはずの相手も突然のことに驚いたのか、今度は抵抗する間もなかったようだ。抱き上げられて、そのまま地面へと下ろされる。そんな先生の所作に何かを感じ取ったのか、わたしの頭の上にいた子猫もそこから飛び下りてどこかへと駆けていった。どうして、とでも言いたげに、残された恋敵がにゃあんと寂しげな声で鳴く。
それでも中島先生は、既に猫の方を見てはいなかった。少し眉を下げて恥ずかしそうにしながら、けれど確かに熱っぽい目がわたしに向けられている。
「……何だか、私の方が今すぐ触れたくなってしまったんです。あなたが可愛らしいので」
――来てくださいますか?
先生が両手を軽く広げる。
わたしは勢いよく、そこへ飛び込んだ。
(……ざまあみろってのよ)
よく躾のされた育ちのいい子には、きっと思いもよらないことだろう。だけどわたしには――わたしにだけは、このひとの背中に引っかき傷を残すことだってできてしまうのだ。
ふわふわの毛皮に顔をうずめる直前、視界の端をかすめた綺麗な白猫の顔が悔しそうに見えたのは、ただの気のせいなのかもしれないけれど。