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宴のあと

 一寸前までの賑やかな喧騒が嘘のように静まり返った食堂で、司書は一人祝賀会の後片付けをしていた。時刻は夜の十一時を半分も過ぎた頃。飲み足りない者たちは、いつものように私室やら談話室やらで続きをやっているのだろうが、その声もここまでは届いてこない。それでも決して物寂しさはなく、司書は未だ宴の余韻の中にいた。
 程良く回ったアルコールのせいもあって、一人になっても気分はずっと上向いたまま。業務用の食洗機に食器を突っ込み、空になった瓶や缶をすすいで仕分け、鼻歌を歌いながらテーブルを拭き終える。最後に台拭きを洗ってしまえば全て完了だと、シンクでその作業に取りかかろうとしたときだった。ドアの開く音と共に、思わぬ客が食堂を訪れたのは。
「……中島さん?」
 カウンターの前までやってきた男の顔に眼鏡はなかった。鼻にかかるほど長い前髪も、今は上げられている。いつもの柔和な目つきに代わって、鋭利さを感じさせる視線。――あまり姿を現すことのない、もう一人の中島敦だ。見慣れた黒いシャツではなく、浴衣に羽織という格好で、おまけに手にはワインボトルのような瓶が握られている。
「……主賓が宴の後始末とはな」
 開口一番呆れたように男は言った。
 彼の言葉通り、この日の自分は確かにそういう立場にあった。何しろ今日は司書の誕生日であり、それを祝して文豪たちが催してくれたのが先ほどまでの会だったのだ。自分からそんな話をした記憶はないのにいつの間に知られていたのやら、思えば宮沢賢治や新美南吉は朝から妙にそわそわした様子を見せていた。どうせまた悪戯でも仕掛けられるのだろう、とその時には別段気にも留めていなかったのだが、夕食の時間になって食堂へと向かえば、扉を開けるなり紙吹雪とおめでとうの大合唱に見舞われた。これまで何度も文豪たちの誕生祝いを計画してきた司書だったが、自分が祝われる側に回るとは考えもしなかったということもあり、彼らの厚意にはさすがに心を揺さぶられたと言うしかない。だから、テーブルを拭きながら上機嫌に鼻歌なんか歌ってしまったのだ。
「そう言うなら、もっと早く来て手伝ってくれてもよかったんじゃない?」
 思ってもいない軽口で返す。
 解散の段になったとき、もう一人の穏やかな中島は「主役にそんなことはさせられない」と数名の文豪と共に後片付けを申し出てくれたし、それを固辞したのは司書の方だった。勝手を知っている自分が引き受けた方が手っ取り早いだろうというのもあったが、部屋に戻ればこの少しだけ特別な一日が終わってしまうような気がしたから。
 ふん、と司書の言葉をあしらうと、男はボトルをテーブルに置いて席に座った。
「肴はまだあるのか」
 どうやらここで一杯やるつもりらしい。物珍しくは思うものの、会の間はずっともう一人の彼だったのだ、こちらの中島だって酒を飲みたくなることくらいあっても不思議ではない。わざわざ部屋を出てきたのは、きっと隣室がうるさいとかそういう理由だろう。
 カウンターから目を凝らしてテーブルに置かれた瓶を見てみると、中島が持ってきたのはどうやら赤ワインのようだった。合わせるものを選ぶにも、もう一人の方はともかく今の彼の好みを司書は知らない。とりあえずは無難なところを挙げてみることにした。
「そうね……チーズとクラッカー、ドライフルーツくらいなら」
「それでいい。付き合え」
 命じる声に、思わず目を瞠る。
 ――酒の誘いだ。しかも、こちら側の中島から。
 珍しいどころか、こんなことは初めてだった。もちろん断る理由などはないし、むしろ普段は会えることの少ない彼と話ができる貴重な機会だ。願ってもない。
 グラスを二客とコルク抜き、つまみを並べた皿をトレーに乗せて、男の待つテーブルへ運ぶ。中島は椅子を立たなかったので、開けるねと一言断ってから司書は栓を抜いたのだったが、きゅぽんと小気味良い音が鳴ると彼は瓶に手を伸ばし、顎をしゃくって司書に座れと促してきた。それに従って向かい側の席に着き、杯が満たされていくのを眺める。中島が手ずから酒を注いでくれたことに、何だか不思議な感動を覚えた。
「……乾杯?」
 この稀有な状況にまだ完全には順応できていないせいか、どうにも間抜けた調子になってしまったが、持ち上げたグラスを男のそれに軽く合わせてみても迷惑がられることはなかった。そのまま彼に倣って、杯を口に運ぶ。
「あ、美味しい! わたしこれ好き、すごく飲みやすい」
「陳腐な感想だな」
 思ったままを素直に口にしたのに、返される言葉はいつも通り辛辣だ。物語の綴り手と同等の表現レベルを素人に期待しないでもらいたい。とは言えこちらとて仮にも司書たる者、手厳しい評が面白くなかったのもまた事実だったので、ここはひとつ真に迫った感想でも述べてやろう。と、司書はそう意気込んだのだったが、「芳醇な香りとまろやかな口当たりが」とかなんとか言ったところで中島から鼻で笑われたため、潔く諦めて負けを認めることにした。
 片肘をついてグラスを傾ける男の姿は、どこか気怠げな雰囲気を漂わせていて様になる。この世に転生を受けた文豪たちは何故だか総じて麗しい見目をしているが、中でも彼はひとしおだと思っている司書はその容貌をついじっと見つめてしまう。見慣れない浴衣の胸元は特別はだけているわけでもないのに、いっそ羨ましいほどの艶めかしさを放っているのはどういうことなのか。
「……何だ」
「画になるなあと思って」
 色っぽいなあと思って、とはさすがに言うことができなかった。
「馬鹿か」
「照れてるの?」
 問えば、頭がおかしいのかとでも言いたげに思い切り眉を顰められた。本当に機嫌を損ねて帰られてしまうのは不本意だから、これ以上は黙っておくことにする。
 互いに酌を交わすことも、その手にグローブがないことも、全てが新鮮だった。けれど、どうしたの、と聞くのは無粋だろう。はっきりそうと言うことはないだろうが、これは彼なりの祝意だと思いたかった。こうしてわざわざ出てきてくれた、ということ自体が。
 もちろん潜書の間や深手を負ったときでなくとも、中島が今の彼として過ごす時間はあるし、その時に会話を交わすこともあった。ただ、それが決して多いと言えないのは、中島ができるだけもう一人の彼を侵さないようにしているからだ。その気遣いが本人に伝わらないことが、司書にはもどかしくもある。花の香りも空の色も酒の味も、もう一人の自分の感覚を通して触れるのがほとんどである彼は、戦いの痛みばかり一人きりで背負っているから。
 だからこそ、この時間が彼にとっても心地好いものになればいい。そう思った。
「そのチーズ美味しいでしょ。館長が持ってきてくれたんだけど、フランスの……ええと……なんとかっていう」
「……その頭に詰まっているのは食い気ばかりか」
「細かいことはいいじゃない、後で聞けば分かるんだし。……ところで、ワインは赤派?」
「別に拘りはない」
「じゃあ、好きな食べ物は?」
 他愛もないやり取りが楽しくて、つい続けて質問を投げかけてしまう。これでは何だか島崎藤村のようだ。それでも、たとえ些細なことでもいい、もっと彼を知りたい――。今まで以上に強い気持ちが、確かにそうと望んでいた。
「……そんなことを聞いてどうする」
「どうもしない。あなたのことが知りたいだけだもの」
 それを口に出すのは、多少気恥ずかしくもあったけれど。
 どこか遠くを見つめながら、物好きな奴だと男は言った。

 気付けば瓶は空になり、グラスは互いに最後の一杯となっていた。
 いつもより少しだけ饒舌な彼は、いつになく穏やかだ。心が平らかに凪いでいるような、そんな風に司書の目には映った。
「一つ教えておいてやる」
 最後の杯を干して、椅子を立ちながら中島は言う。
 ――嗜好自体は、奴と俺とでそうも変わらん。
 告げられた言葉は、司書を驚かせるには十分すぎるものだった。
 内容の話ではない。他でもない彼が、彼自身のことを語ってくれたからだ。
「……それはいいこと聞いたかも」
 もちろん中身も有益な情報ではあった。元は一人の人間であったのだから、考えてみればそれも当然なのかもしれない。とすれば食だけでなく、歴史も猫もきっと同じように好むのだろう。
「ねえ、何も用がなくても、気が向いたらまたいつでも出てきてね。今度はあなたの……あなたたちの好物でも用意するから」
 出入口へ向かう背に声を掛ける。中島は何も答えなかったが、扉に手をかける直前に名を呼ぶと、彼はこちらを振り向いてくれた。
「今日はありがとう」
「……何の話だ」
 つれない返事も嬉しく思ってしまうのは、その口元が確かに少し上がっていたから。
 最後の最後にとんでもない贈り物を受け取ってしまったような気がして、もう一度無人になった食堂で一人、司書は熱とアルコールの混じった溜め息を逃がした。