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摂氏三十八度
今日はこの夏一番の暑さになるでしょう。
各局の天気予報が揃ってそれを報じた日に限って、冷房設備が故障するなどとは一体何の罰なのか。空調の中央装置が稼動を停止した帝國図書館は、朝から全館が灼熱地獄と化していた。修理業者は早々に駆けつけたが、復旧の目処は未だ立たず。ここで暮らす人間の日頃の行いが原因だとかいうのなら、責めを負うべき者の心当たりは多過ぎるくらいだった。
かつての自分――生前の中島敦が暑がりだったのか寒がりだったのか、今となってはもう朧げだ。ただ、昨年の晩秋の頃に不可思議な形で与えられたこの身体は、間もなく迎えた冬の寒さに凍えるあまり南国に飛びたいとまで口にした程である。しかしいざ夏が来てみたら来てみたで、どうやら暑さへの耐性にもあまり期待はできないらしいことに気付いてしまったし、もしかするとこちらの方が問題なのかもしれなかった。酷暑は厳寒よりも、ひとから正常な思考を奪っていくからだ。
玄関に臨時休館の貼り紙を出した司書は、本日の予定を全て取りやめにして、各々自由に涼を取るよう文豪たちに言い渡した。くれぐれも熱中症で倒れることのないように、と添えるのも忘れずに。そうして多くの者たちは、近くの喫茶店やら朝から飲める店やらへ散り散りに避難していったようだった。普段は利用時間が夜から早朝までの間に限られている大浴場も一日中開放されることになったから、水風呂に浸かっている者もいるだろう。
そんな中で唯一、灼熱の室内にこもって執務に当たらねばならないのが一斉休業の号令をかけた司書自身だった。本人曰く「クーラーの効いた部屋で普通にやれば普通に終わる予定だった」報告書の提出期日が明日に迫っていたからだ。さっさと片付けておかなかったわたしの自業自得ですから、中島先生は気にしないで涼んできてくださいね。そんな司書の申し出を固辞した理由のうちに、助手としての責任感が全くなかったとは言わない。たとえそれが単なる輪番制の務めであってもだ。だが、ほとんどを占めるのはもっと単純で利己的な欲求だった。――恋しい人の側にいたいという、ただそれだけの。
*
畳の床に卓袱台の置かれた彼女の執務室は、蒸し風呂状態も同然だった。
初めは開け放していたガラス窓も、けたたましい蝉の鳴き声に堪えかねて今では閉め切っている。どうせ風などほとんど通らないのだ。強烈な直射日光が畳を焦がすから、内障子も全て閉ざしてしまった。せめてもの気休めにと司書が倉庫から引っ張り出してきた年季の入った扇風機も、ガタガタと不穏な音を立てるばかりで結局は何の役にも立たなかった。
昼も過ぎれば暑さはさらに過酷さを増した。昼食も互いに気が進まず、申し訳程度に氷菓子を口にしたのみ。始業からしばらくの間はそれなりにあった雑談も減り、司書がキーボードを叩く音もすっかり疎らになっている。中島も集中力を失いかけていた。印刷された書類の校閲が中島の仕事だが、紙面に並んだ文字は今やほとんど頭に入っていなかった。当然暑さのせいなのだが、理由はそれだけではない。
自分とちょうど直角の位置に座る司書の方へ、中島はちらと視線をやった。
いわゆる女の子座りの格好で、畳の上に投げ出されているのは剥き出しの下肢だ。初めはストッキングが着用されていたのだが、何も中島が自らその変化に気付いたわけではない。少し前、束の間離席して戻ってきた彼女が「女子高生でもあるまいし、生脚っていうのもどうかとは思うんですけど、でも暑いんだからしょうがないですよね」と何故か中島に言い訳をしてきたせいなのだ。黙っていれば気付かなかったかもしれないのに、わざわざ口に出されては嫌でも意識してしまう。一旦“そういう風”に見てしまうと、問題は脚だけではなかった。汗で張り付いたブラウスの背中にはうっすらと下着の線が浮き出ているし、首元のボタンも一つ余計に外されている。いつも下ろしている髪はゆるく結い上げられて、白いうなじが晒されていた。
つう、とそこに汗が一滴伝うのを見て、中島はつい生唾を飲み込んだ。この週この日、たまたま自分に助手の番が割り当たっていたからいいものの、別の誰かがこの密室で彼女と二人きりになっていたかと思うとそれだけで苛立ちにも似た焦燥を覚える。もしもその男が彼女に劣情でも催して、その痩躯を畳の上に組み敷いて、汗ばんだ首筋へ一思いに歯を立てたりしたら――。
(……私は一体何を考えているのでしょうか)
我に返り、慌てて彼女から目を逸らした。別の汗がじわりと顔中に滲む。煩悩を鎮めるのに、自分も頭から水でも浴びてきた方がいいだろうか。中島はハンカチで額を拭った。
そのとき、入れ替わるようにして今度は自分の方へ視線が向けられたのを感じたのだった。
「……司書さん?」
不躾に眺めていたのを咎められるのかと思ったが、彼女はどこかとろんとした目でこちらを見ている。思えば打鍵の音は、先ほどから全く聞こえなくなっていた。
「どうかなさいましたか? もしかして、体調を崩されたのでは……」
「……あ、いえ、なんでもないんです」
確かに声音は病人のそれではなかった。司書は卓上から麦茶のグラスを手に取って口へと運ぶ。その一連の所作は、まるで彼女の周りだけ時の流れが変わったかのように緩慢に見えた。伏せられた睫。上向きに少し反った首。嚥下の音と、それに合わせて上下する喉。
司書がグラスを置いた音で、中島は再びその姿に見入っていたことに気付いたのだったが、今度は目を逸らすことができなかった。彼女の視線に捕まったからだ。
やにわに司書は畳の上へ両手をついた。前のめりで四つん這いになった格好で、ずいと距離を詰められる。間近の瞳に灯るのは、身を焦がすような熱っぽさだった。瑞々しく潤んだ唇が、吐息を交えてゆっくりと開かれる。
「……先生、ごめんなさい。わたし……やっぱりなんだか、変、みたいです」
それが近付いてきた時、中島は自分が幻覚を見ているのだと思った。
ちゅ、と音がした。
水分を含んだばかりの唇はまだ少し冷たかった。
生々しいやわらかさと微かな麦茶の香りは、妄想の産物にしてはよく出来すぎていたが、まだ手放しではこの状況が現実であるとは信じられない。恋い焦がれてやまなかったその相手から口付けられているなど。
これが本当に現実であるならば、尋常でない暑さが司書の頭を害したのだとしか思えない。それでも、彼女の唇が中島のそれを食み、吸い上げ、その度に猥りがわしい音がして、ひんやりとしていたそこが次第にぬるくなり、熱いとまで感じるようになる頃には中島は考えることを放棄していた。遠慮もなく口内に突き入ってきた舌を本能に任せて迎え討ってやれば、司書は鼻にかかった声を漏らした。そうして何度も何度もキスをして、貪り合うように舌を絡ませ合って、酸素の供給が追いつかなくなってようやく二人は一度離れた。半開きの口から唾液を垂れ流したまま、浅い呼吸を繰り返す互いを見つめ合う。司書の真意など知りようもなかった。――ただ、彼女がそのつもりだというのなら、己も馬鹿になってみるしかないだろう。
中島は眼鏡を外して卓袱台に放った。
すかさず司書が膝の上に跨ってきて、両腕を首に回され再びキスが始まる。身体はその先を欲して早く早くと疼いているのに、自分も彼女もそれをやめられなかった。口付けが与えてくる快感は、己の分身よりも脳髄を直接蕩かせる。
唇を重ねたまま、司書は腕を解いて中島のシャツの襟元を掴んだ。釦を外そうとしているのは分かったが、キスのせいかなかなか器用に進まない指がもどかしい。中島は自ら残りを全て外してシャツを脱ぎ捨てると、今度は彼女のブラウスに手をかけた。薄いキャミソールもその下も全て剥ぎ取ってしまい、露わになった裸体を眺める間もなく汗水漬くの肌と肌とをぴたりと重ね合わせる。押しつぶされて形を変える乳房はやわく滑らかで、けれどその中央はかたく芯を持っているのが分かった。くじってやりたいとも思うのだが、中島にしがみつく彼女は薄紙一枚分の隙間さえ厭うように強く身体を寄せてくるのだった。
「や、あ、せんせ」
透ける血管を辿るように、首筋に舌を這わせる。広がる濃い塩の味すら刺激となって、中島は何度もそこを舐り上げた。噛みつけばひときわ高い嬌声が上がり、痕跡を刻めばその背はぶるりと打ち震える。
この熱に浮かされた行為の始まるほんの少し前、誰かがここに歯を立てることを想像した。あのときは、自らそれを叶えることになるなどとは本当に思いもしなかった。けれど、司書の首にくっきりと浮かんだ歯型も赤いしるしも、全て中島が残してやったのだ。決して彼女自身を手に入れたわけではない、だからこそ中島は己の痕跡を強く刻んだ。それを見るたびに、彼女がこの日を思い出すように。
下腹部の熱は、既にはち切れんばかりに怒張していた。無意識なのかそうでないのか、彼女はそこへ擦り付けるように細い腰を動かしてくる。“みんなの司書さん”であったはずの女が見せつけてくる痴態に中島はどうしようもなく興奮した。
「なかじませんせ、」
それが合図であったかのように、二人は畳の上に倒れ込む。飽きもせず唇を貪り合いながら、中島は彼女の脚の付け根を探った。スカートを雑にたくし上げてそこに触れれば、既に下着が意味を為さないほどに溢れ返っている。濡れそぼった花芯の辺りを軽く押し込んだだけで、司書は大きく身体をしならせた。
「っ、も、わたし、だめ、お願い」
「っ!」
今度は彼女が、下から手を伸ばして中島の猛りを撫で上げる。
真っ赤に上気した顔、苦しげな声が中島を呼んだ。焦れているのは彼女の方なのに、見上げてくる濡れた瞳に追い詰められた気持ちになる。
「……いいんですか?」
「いい、です……だから、」
――だから、もう、いれて。
身も蓋もない懇願に中島も最早限界だった。もしも余裕があったならば、彼女の足の指先から耳の縁まで身体中を余すことなく舐り尽くしていたかもしれない。胎の中に指を突っ込んで、煮溶けた中をめちゃくちゃに暴いていたかもしれない。けれども今は、繋がることだけを性急に求めていた。
夏袴を下着ごと乱雑に脱ぎ捨て、司書の脚からも薄布を引き抜く。彼女の言葉通りそこは今更慣らす必要もないほどだったし、たとえあったとしてもこれ以上待っていられた自信はない。
折り曲げた彼女の膝を左右に開かせ、中島はそこに自身の昂ぶりを一気に穿った。しどけなく開いた唇が感極まった悲鳴を漏らす。彼女が縋りつくように両手を伸ばしてくるから、もう一度低く覆いかぶさって身体を密着させた。容赦なく締め上げてくる柔襞の感触にいきなり飛びそうになる意識を手繰り寄せ、中島は絡みつく熱と蜜と嬌声の中にひたすら己を刻み込んだ。
――好きです、司書さん、狂おしいほどあなたをお慕いしています。
その想いにだけは偽りなどなかったのに、ああ、これではもう信じてもらえないかもしれない。
***
差し込む光が、障子紙を橙に染めている。
仕事を投げ出す前までは確かに高い位置にあったはずの太陽も、今ではすっかり傾いていた。室内に落ちた影はその姿を色濃く浮き立たせて、西日との強烈なコントラストを描き出している。
暑さは少しも和らいではいない。空調は未だに復旧していないらしかった。半日がかりでも直せないとはどんな無能を連れてきたのかと、内心で悪態を吐く。
気を失ったもう一人の自分に代わって、畳に臥した鉛のような身体を中島は無理矢理引きずり起こした。途端に軽く目眩がして、額に手を当ててやり過ごす。
(馬鹿かあいつは……)
いくら司書に対して悶々と溜め込んでいるものがあったとはいえ、箍が外れた結果がここまでだとは思わなかった。
互いに何度果てたかはもう知れない。それを覚えたばかりの小童かというくらい、もう一人の中島と司書は取り憑かれたように互いを求め合っていた。前からも後ろからも上からも下からも、男は女の身体を嬲り尽くした。よくもまああれだけ励んだものだと感心するほどである。
中島は卓袱台から自分のグラスを取り、ぬるくなった麦茶を飲み干した。身体の渇きがほんの少しだけ癒えるのを感じながら、傍らでぐったりと横たわる女を見やる。
もう一人の中島が吐き出したもので、司書の腹も腰もべっとりと汚れていた。あの男が最後に放ったばかりのそれが、彼女の腿の間から伝い落ちていくのが見える。この紛い物の身体では、所詮子を成すことなどできない。だったら、本物のそれと何一つ変わらなく見える浅ましい白濁は、欲望が形を得た以外の何物でもないのだろう。
「……おい、起きろ淫売。死にたいのか」
このまま眠りに落ちては脱水症状を起こしかねない。司書は目を開けてぼんやりと中島の方を見たが、嘲弄に言い返す気力もないらしかった。それとも自覚があるのか、あるいは何を言われたのかすら認識できないほどに頭が茹だっているのか。
「さっさと飲め」
司書の目の前に、まだ半分以上中身の入ったもう一つのグラスを突きつける。だが、彼女は身を起こそうとはしなかった。何かを伝えようと口を開きはしたのだが、掠れた声では何を言っているのか聞き取れない。
舌打ちの後、中島は受け取られなかった麦茶を口に含んだ。グラスを置き、司書の顎を掴んで真上を向かせ、乾いた唇を己のそれで塞いで水分を直接流し込む。
こくりと喉が鳴る音を聞きながら考えてみても、結局どうしてあのような事態になったのかは分からなかった。この女の本性が誰とでも寝るような尻軽だったとでもいうのなら救いようもないが、少なくとも以前からそうであったとは思えない。彼女の肢体は傷ひとつなく綺麗だったし、もう一人の中島が痕跡をつけても嫌がる素振りはなかった。ただ、中島の記憶している限り、司書は一度もあの男へ愛の言葉を口にしなかったのだ。
だからもう、全てはこの馬鹿げた暑さのせいだということにした。
司書は熱気に中てられて気が触れた。就任以来図書館にこもりきりで男の影もなく、欲求不満だったところに夏の陽射しが悪く作用して、そんな時にたまたま隣にあの男がいた。そうしてあまりに暑いから、奴にも馬鹿が伝染ってしまった、ただそれだけのことなのだ。
口内の液体がなくなり、顔を離せばやたらと含みのある視線がこちらを見ている。潤いを取り戻した唇が何をねだるのか、中島には聞かずとも分かってしまった。
「……もっと……」
――見たことか。奴が相手でなかろうと、この女はこうなのだ。
誘いに乗って、もう一度口移しに水を与えてやる。ついでに舌を擽れば、中島の思惑通り彼女はそれに応えてきた。
「……はっ、この色狂いが」
女の口端から溢れた雫を指先ですくい取り、もう一度そこへ突っ込んだ。やわい唇に挟まれた中島の指を、生温い舌がねっとりと撫で上げる。もういい加減に尽き果てたと思っていたが、身体の中心は既に熱を集めて疼き出していた。
辺りはまだ、うだるような熱気に包まれている。
中島敦は、暑さで頭がおかしくなったのだ。