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琥珀の罅
「……どこにも行かないでください」
浄化を終えた第一会派が、有碍書から帰った後のことだった。
送り出した四人の先生方の実力から考えて、潜書先の侵蝕者が手強い相手だったとは思わない。事実彼らは無傷の帰還というわけにはいかなかったけれど、受けた侵蝕の程度は軽いと呼べるくらいのものだった。だから、書の中からこちらの世界に戻ってきた時には既に、中島先生はいつもの中島先生だった。
侵蝕の度合いがどうであろうと、潜書の後にはすぐに補修を受けてもらっている。今回は一人一人にそう時間を要することもなく、先生たちは治ったそばから順々に部屋を出ていって、最後に中島先生の番が来た。そうして、少しだけ煤けてしまった彼の本を元通り綺麗にして、改めて労いの言葉をかけたその直後。二人きりの医務室で、わたしは先生の腕の中に閉じ込められていた。
「私が私でいられるのは、あなたが側にいてくださる時だけなんです」
消え入りそうな声で告げられる言葉にも、前触れはなかった。何が引き金となったのだろう。侵蝕者の攻撃を受けたからかもしれない。潜ってもらった本が、悲劇的な別れを描いた作品だったからかもしれない。あるいはもしかすると、戦いを共にした先生方が別れ際に置いていった台詞のせいかもしれない。今日も目覚ましい活躍だった、と。
「あなたがこうして私に触れて、その目に私を映してくれる……その時、だけなんです」
書の世界で剣を振るうもう一人の自分でなくとも、骨が軋むほどの力を加えることはできるのだ。わたしをきつく抱きしめる腕は、まるでそう言っているかのようだった。
*
「……時々、考えてしまうんです。私達が生きる意味とは何なのか、と……」
忘れもしない。
中島先生とわたしとの関係が、単なる文豪と司書のそれではなくなった日。あの日も今と同じように、彼はひどく不安に囚われていた。
「……わたしは、文学を守るために先生方を……」
「分かっています。でも、そのために戦っているのは彼です。……私では、ありません」
だから、どうして生かされているのか分からない。口に出すことこそなかったけれど、力なく自嘲するように笑った先生は本当はきっとそう言いたかったんだろう。
生命の理をねじ曲げ、魂の安寧を奪い取ったわたしへの糾弾だったならまだ受け止めようもあった。先生を救う言葉を、わたしは知らなかった。
「……だったら。だったら、わたしのために生きてください」
「……司書さん?」
「中島先生をお慕いしています。先生のいない世界なんて、わたしにはもう考えられません」
――それは、あなたがここにいてくれる理由にはなりませんか。
半ば自棄のようにそう言ってしがみついたわたしを、中島先生は抱きしめ返してくれた。
けれど、このときのわたしはまだ、何一つ理解なんてできていなかったのだ。
彼の抱える苦しみの、途方もない重さを。
真面目で慎ましやかでどこか気弱げで、けれどふとした瞬間のはにかむような笑顔が好きで、それが翳るのを見たくなくて、側にいたくて。こんな形で、というのはもちろん想定なんてしていなかったけれど、抱いていたその想いを爆発させるように明け渡して以来、不思議ともう一人の彼と顔を合わせることも増えた。
彼は相変わらず辛辣だった。仕事に手落ちがあれば容赦なくわたしを詰ったし、つい彼の前で泣き言をこぼしたりすれば、くだらないとわたしを一蹴した。けれどもある時、彼はわたしにこう言ったのだ。
――奴の側から離れてやるなよ。あの男には、お前が必要だ。
言われるまでもなく、それはわたし自身のそうありたいという願いに他ならない。そして、穏やかな中島先生を誰よりも理解しているこの彼が、わたしを認めて同じ望みを抱いてくれたということ。それが、わたしは本当に嬉しかった。
そんな風にして彼と接するうちに、口では厳しいことを言ってばかりの彼がどれほどもう一人の自分に心を砕いているのかを、わたしは思い知らされた。奴と俺とが分かり合うことなどない。精神を擦り減らして潜書から帰った彼が初めてわたしの前で弱音を吐いたとき、言葉の裏に隠れた彼の願いに気付かずにはいられなかった。――分かり合いたいのだ、本当は。それを知ったとき、わたしは二人の彼を、ふたりでひとりの中島敦というひとを支えたい、と思った。一方では恋人として、もう一方ではどんな名前を付けたらいいのか分からなかったけれど、二人が等しく大切な存在になったことだけは間違いなかった。
自分を確かめること。
もう一人の自分と分かり合うこと。
二人の願いが行き着く先は、きっと同じ場所にある。
わたしはそれを叶えたかった。
きっと叶えられるはずなんだって、あの時のわたしは本当にそう思っていた。
*
「中島先生……」
二人きりの部屋の中。何を言えばいいのかも分からなくて、閉じ込められたままのわたしは名前を呼ぶことしかできない。そのやり方すら、わたしは間違えてしまったみたいだった。
「……今は、その呼び方はしないでください」
「……、敦さん」
そこでようやく、腕の力がほんの少し弛緩した。
人前では決してしない呼び方。わたしたちが恋仲にあるということは、彼とわたし、それからもう一人の彼だけの秘密だった。
「……すみません。自分でも、情けないとは思うんです」
気の利いた言葉なんてやっぱり思い浮かばなくて、腕の中でわたしはただ不格好に首を振る。
どうしたら、彼の心に安息が訪れるのだろう。この人を支えたいと思って側にいることを望んだのに、本当に彼を苦しめているのは他でもないわたしなのかもしれない。ひとつの身体にふたつの魂、そういう形でしか呼び出すことのできなかったわたし。今ではそんなことすら考えてしまう。
「彼はきっと、こんな私を疎んでいるでしょうね」
「っ、そんなことありません……! だって彼は、」
言葉の途中で再び強く抱きしめられてはっとする。手遅れだった。数秒前の自分を殴りたくなる。どうして今日のわたしはこうなんだろう。
「……私は、彼のことをよく知らないんです。知らないんですよ……」
泣きたいのは彼の方だろうに、どうしようもなく涙が出そうになった。だってわたしは、もう一人の彼がどれほどあなたを守ろうとしているのか知っているのだ。本の中でも夢の中でもいい、二人が邂逅することができたのなら。彼のように、あなたがもう一人の自分を窓の外から見つめることができたのなら。いつだってあなたを案じる彼の想いを感じることができたのなら、あなたはこんなに苦しまなくてもよかったはずだったのに。
「……ああ。でも、一つだけ……」
「……え?」
何かを言いかけて、けれども何でもありませんと言葉を濁した後。彼は、予想もしなかったことを聞いてきた。
「……彼も、こんな風にあなたに触れたりするんですか」
「……!? まさか、そんな」
「そう、ですか……」
信じられない思いのわたしに対して、返されたのはどこか納得のいっていないような声音だった。どうして彼はそう思ったのか。そう思わせる何かがあったというのなら、わたしはもう慙愧でどうにかなってしまうかもしれない。それはわたしが一番望まないことなのに。本当は優しいもう一人の彼を、彼が何より慈しむその分身を脅かす存在になんて絶対にさせたくない。確かにわたしにとってもう一人の彼は大切な人で、けれどもその意味するところは違っていて、そもそもあの人だって、間違ってもわたしをそんな風には。
「……でしたら、私は彼に悪い事をしているのかもしれません」
「あの、それはどういう、」
「それでも、あなただけは譲れないんです」
俄然力強くなった声。つながらない言葉。彼は答えをくれない。理由をくれない。――もう一人の彼の想いを、掬ってくれない。
「だから、どうか私だけのあなたでいてください」
拘束のような抱擁が緩んで、身体が少し離されて、それでもわたしの肩に添えられた彼の両手は食いこむほどに強くそこを掴んでいる。見つめてくる琥珀の双眸はわたしを責めるように悲痛な色を湛えていて、今にも壊れそうで訳が分からなくてどうしようもなくて、追い立てられるようにわたしは口を開いた。
「……敦、さん? わたしは最初から、ずっとあなただけの――」
そのとき、彼の瞳の奥が翳るのを見た。
それが決して彼のものではないことが、わたしには分かってしまった。
“まさか、そんな”。
今更になってわたしは自らの過ちに、愚かすぎる思い違いに気付かされることになったのだ。