Aa ↔ Aa
彼の休日
長い林道を抜けると、涼やかな潮風が車内へと吹き込んだ。
半分ほど開いた窓の下縁に肘をついて、助手席に座る男はその向こう側の景色を視界に映す。広がるのは一面の青。海だよ、と弾む運転席の声には見れば分かるとすげなく返しながらも、その鮮やかな色彩には確かに目を引かれていた。遠い水平線の上、雲ひとつない空を、ウミネコが時折鳴き声を上げながらゆったりと旋回している。
かつては港町にも、南洋の異国にも暮らしていたことのあった男にとっては物珍しくも何ともない、むしろ見慣れたものであるはずの風景。それでも不思議と新鮮味を覚えてしまうのは、隣で子供のようにはしゃいでいる存在のせいかもしれなかった。
*
「……折り入ってお願いがあるのですが」
事の始まりは、数日前に遡る。
らしくもなく大真面目な顔をした司書が、部屋を訪ねて来るなり突然そんなことを言い出すのだから何事かと思った。
「今度の土曜日、わたしとデートしてください」
「…………はあ?」
「だから、デート! したいの!」
聞き違いではなかったらしい。改まった様子で話を切り出してくるくらいだから余程の困り事なのか、と多少なりとも心配してやって損をした。むしろ、面倒事に巻き込まれかかっているのはどうやら自分の方であるようだ。
「……馬鹿か。くだらん」
思わず溜め息が出た。この女が突拍子もないことを言い出すなんていうのはままあることだが、それに付き合ってやるのは己の役目ではない。
「あなたの行きたいところでいいから! 一日中じゃなくていいから、一時間でも三十分でもいいから!」
「うるさい。奴に言え」
「『たまには彼のことも連れて行ってあげてくださいね』って、あっちの敦さんが言ってくれたんだもん。約束したの、あなただって分かってるくせに」
確かにもう一人の自分が余計なことを言い、司書が嬉々としてそれに同意した一連のやり取りを聞いてはいた。けれども己にそのつもりはないし、そもそも“奴”に身体を預けている間の出来事の全てを、中島は間接的に体験しているのだ。物見遊山のためにわざわざ自らが表に出る必要もない。
「……俺の知ったことか。凡俗の群れに交わる気など更々ない」
なおも食い下がろうとする司書を読書の邪魔だと部屋から追い出して、中島はその場を強引に切り上げた。――はずだったのだが。
「……何のつもりだ」
どんな手を使ったのかは皆目見当もつかないが、自分の与り知らぬところで二人が示し合わせていたとしか思えない。とは言え、今日が「今度の土曜日」だったということに気を回していなかったのは、完全に己の失態だ。
昼食の後。腹が満たされて眠気を催したらしいもう一人の自分がベッドで昼寝を始めたので、そのまま意識だけを眠らせておくことにして、中島は“奴”から身体を取り上げた。そうして新しい本でも探しに行くかと部屋を出たところ、見計らったかのようにやって来た司書に捕まり、半ば引きずられる形で屋外の駐車場まで連れて来られたのだ。そこには図書館のものではない、見慣れぬ車が一台駐められていた。
「うん? 何って、デート」
「……誰が付き合ってやると言った」
「要は人混みが嫌だってことなんでしょ? だからドライブにしたんじゃない。大丈夫、わたし運転には自信あるから!」
まるで話が通じない。これでは埒が明かない、と中島はさっさと踵を返そうとしたのだったが、そのときちょうど運悪く、外出から戻ったのであろう自然主義派の面々がわらわらと寄ってきた。中島と司書が恋仲にあることは既に周知の事実となっていたが、連れ立って出かけるのは専らもう一人の自分であったので、この状況に彼らが食いつかないはずもなかった。もしも司書がここまで計算尽くであったというのなら見直さざるを得ないが、これは単なる不幸な偶然だろう。
結局、取材だのスクープだのとやかましく騒ぎ立てられるのに辟易した中島は、盛大に舌打ちをしながら渋々助手席へと乗り込むことになったのだった。
***
穏やかな波が、さざめきながら寄せては返していく。
午後の日差しを浴びた眩い水面のすぐ側を、車を降りた中島と司書は歩いていた。白砂の渚などではない、ごろごろとした小石の転がる浜。その足場の悪さもどこ吹く風で、上機嫌に進んでいく背中の少し後ろを中島は追従する。調子っ外れの鼻歌を歌いながら、大袈裟に手足を振って前を行く司書は呆れるほど楽しそうだった。
不可思議なものだ。アルケミストだとかいう特殊能力者であること以外、彼女は至って普通のどこにでもいるような娘でしかない。けれども、どこにでもいるようなその娘こそが、再び現し世に呼び出された二人の”中島敦”にとっての唯一無二の存在であるのだ。互いを認め合える日など来るはずのなかった“奴”と“俺”とを繋ぐ懸け橋。奇蹟だなどと言ってしまえば陳腐に聞こえるだろうが、そうとしか言い表せないと中島は思う。
もう一人の自分が好いた女。初めは本当にただそれだけだった。
幸運にもあの男は彼女と想いを通わせることに成功した。中島は静観しているつもりだったが、誤算だったのは、あの男の憂いを知った司書がそれを取り除くのに心を砕き始めたことだ。
そんなこと、土台無理な話であるはずだった。他のあらゆる人間には見えているのに、自分ひとりだけが絶対に知覚することのできない存在。その見えない影は、知らないうちに自分の身体を乗っ取って自由に動き回っているのだ。それを「もう一人の自分」として受け容れるなど、たとえあの男が強靭な精神を持ち合わせていたとしても不可能だろう。あの男にできるのは、何らの責も負わぬ他人から好き勝手に聞かされた“俺”の姿を想像の中で組み立てることだけなのだ。
端から中島は解決など求めていなかった。現状のままで構わなかった。あの男はあの男らしく甘ったれたまま生きていけばいいし、己は己の為すべきことを為すだけだ。自分ではない自分に飲み込まれてしまうことをあの男は恐れていたが、こちらにそのつもりはないのだ。だから中島は司書に告げた。奴に余計なことを言うなと。俺のことを語るなと。お前はただ、奴と呑気に過ごしてさえいればいいのだと。
それでも、司書は結局最後まで中島の話を聞き入れなかった。
――わたし、どっちの中島さんも好きなんだもん。だからすれ違ってほしくなんかない。分かり合えないなんて、そんなの絶対嘘だよ。だって、二人ともすっごく素敵なひとなんだから。二人とも、こんなに優しいんだから。
どれだけ撥ねつけられても絶対に諦めようとしない、しつこいくらいの執念にとうとう中島は根負けしたのだ。そうして負けたのは、あの男もまた同じだった。
――彼が私を守ろうとしてくれていること、何となくですが、感じたことは何度もありました。
――私は決して、彼を認めたくないわけでなくて。ただ、目に見えないものを受け容れるというのは、とても難しいことだったんです。
――それでも、あなたが背中を押してくれたから。あなたが信じる彼を、私も信じてみても、いいでしょうか。
本当は己よりもずっと頑ななあの男の心をも、司書は解いてしまったのだ。
ぽちゃん。
耳に届いた水音が、中島の意識を引き戻す。
音の正体はすぐに分かった。海に向かって、司書が小石を放り投げていたからだ。どうやら水切りに挑んでいるつもりらしいが、彼女の放った石はただの一度も水面を滑ることなく海中に沈んでいく。おかしいなあ、と首を傾げる司書だったが、何度繰り返しても一向に進歩は見られなかった。
「無様だな」
「……そんなこと言うなら、あなたもやってみせてよ」
「断る」
「あ、分かった、自信ないんでしょ」
「出直せ。挑発にもならん」
そう突っ撥ねてやれば、司書は不服そうに唇を尖らせる。
「……ちぇっ、つまんないの」
まるでふて腐れた子供のような口振りだった。結局それ以上投石を続けるつもりはなくしたらしく、海と平行に向き直った彼女は一歩二歩と大股で先を歩き始める。足を止めたままの中島と大きな三歩分の距離が開いたとき、司書は唐突にこちらを振り向いた。
「……うそ。楽しい。とっても!」
満面に浮かんだ笑みが、心からの言葉であることを真っ直ぐに伝えてくる。
甘やかしてやる気はない。彼女が喜ぶ言葉も滅多にくれてやらない。そんな己に対しても、“奴”に手渡す愛情と同じだけのそれを、この女はいつだって躊躇いもなくぶつけてくるのだ。
「あなたにとっては面倒なんだろうなって、もちろん分かってたんだよ。でも、わたしどうしてもあなたと――今の敦さんとも、一緒に出掛けてみたかったの」
二人の“中島敦”に向けられる笑顔が何一つ変わらないのだと知ったとき。本当に救われたのは、きっと。
「だからね、付き合ってくれてありがとう!」
中島は早足で距離を詰めた。目の前の細腕を掴んで強く引き、よろけて倒れ込んだ体躯を抱きとめる。
愛しい、と思う気持ちは、今更もう否定のしようもない。
視界を閉ざす直前に見たのは、色気も何もあったものではない、驚いて目を丸くした女の間抜けた面だった。
「ちょっ、な、なに……」
触れるだけの口づけを一度。それだけで、司書は面白いように動揺してみせた。
「気が向いた」
「……不意打ちとかずるくないかなあもう……」
赤らんだ顔を俯かせ、視線を右へ左へ泳がせながら、不満だか何だかよく分からないことをごにょごにょと呟いている。程なくしてそれが落ち着くと、今度は何かを期待するような目がこちらを見上げてきた。
「ね、もう一回」
「調子に乗るな」
もう少しそれらしい様子でねだられたのなら考えてやらないでもなかったが、けち、と舌を出しているような始末では期待もできまい――と悠長なことを考えていたせいで、中島は反撃の気配に気付くのが遅れた。
「……だったらいいもん。わたしがしちゃうから」
身構える間もなかった。
首の後ろへ腕が回された次の瞬間、やわらかい熱が唇に押し当てられる。いっぱいに背伸びをしたつま先を元に戻し、へらり、と締まらない顔で司書は微笑んだ。
「大好き、敦さん!」
それから勢いよく後ろを振り返り、逃げるようにして走り出す。
耳まで真っ赤にするほど照れるくらいなら言わずにおけばいいのに、おかげでこちらの方が妙にむず痒い思いをしなければならないではないか。
「……あんな馬鹿、さっさと転んでしまえ」
思ってもいない憎まれ口が、波音の中に飲み込まれていく。吐き出した息は微熱を帯びている。あの女の馬鹿は、どうにもこちらの方にまで伝染ってしまったようだった。それでも何故だか悪い気はしないのだから、最早自分に司書を笑うことはできないのだろう。
だから、もしも彼女が本当に蹴躓いて転んだりしたら、その時には。
――仕方がないから、きっと手を伸べてやるのだ。