Aa ↔ Aa
煙草
終業後の一本はいつでも美味であるが、数時間の超過労働をこなした後ともなればそれは格別だった。
今日も一日お疲れ様。この場にいればそう声を掛けてくれたであろう助手は定時にさっさと帰してしまったから、自分で自分を労ってみる。瞼を閉じ、深く吸い込んだ息を少し止め、メンソールの清涼感が肺を満たしていくのを味わってから吐き出した。助手がいないので、こうして執務室で紫煙をくゆらせている司書を咎める者は誰もない。
帝國図書館は、喫煙室を除いて全館禁煙である。建前上はそうなっている。ただ、各人の私室に関してはいちいち検査をするわけでもないので、事実上は黙認していた。そうでなければ、ルールの遵守を説かねばならぬ立場にある司書が、自室でこっそり煙を喫むことなどできはしない。司書自身、執務室で禁を犯したのは今回が初めてであって、基本的には私室以外で煙草に火を点けることはなかった。仕事の前後と就寝前、その一日三本で必要十分だったので、喫煙室にも縁はなく、司書が喫煙者であることを知る者はほとんどいないのかもしれない。
指に挟んだものを再び口に咥え、ゆっくりと吸う。じりじりと燃える紙筒の先端から、立ち上る紫煙が窓の外へと逃げていく。それをぼんやりと目で追いながら、また煙草を離して大きく息を吐き出した。ノックもなしに部屋の扉が開かれたのは、そのときだった。
「……やだ、中島先生!?」
現れたのは眼鏡のない、もう一人の中島敦の方だった。訪ねてきたのが愛煙家でなくてよかった、そうであれば示しがつかなくなってしまうところだった――と思ったのも一瞬で、司書は慌てて吸いかけの煙草を灰皿に押し付ける。不躾な入室を咎めることも忘れて立ち上がり、部屋中の窓という窓を全て開け放した。かつての彼を死に追いやった病のことを意識してしまったからだ。
転生に伴って新たに形作られた肉体には、たとえば前世の身体的特徴が反映されることはあっても、内因性の疾患などは基本的に引き継がれない。持病を持ち越していると思い込んでいる者たちもいるが、実際にはそのようなことはない。ただ、そうであってもやはり、この男に煙を浴びせることはどうしても憚られたのだった。
「……いつからここは喫煙部屋になったんだ」
第一声が出てくるまでにはしばらくの空白があった。扉が開いて視線が合った瞬間の彼は軽く瞠目していたし、中島は中島で、この状況には些か驚いたらしい。
「ええと、その、つい出来心で……」
「……ふん。煙臭い連中に碌な奴はいないと思っていたが、お前も同類か」
それでもすぐに調子を取り戻して、いつものように辛辣な言葉を飛ばしてくる。煙臭い連中に数えられたばかりだ、そばに寄れば嫌がられるだろうとは思いながらも、彼の手にしていた書類に気が付いて、それを受け取るために司書は恐る恐る近付いた。遭遇した侵蝕者や戦闘状況などが記録された、本日分の潜書結果報告書。定型の書面に起こすのは自分の仕事だが、出来上がったものの中身は会派筆頭にも目を通してもらい、確認を受けることになっている。特に急がないとは伝えていたのだが、部屋の電気が点いているのに気付いて届けに来てくれたのだろうか。そんな彼をこのような形で出迎えることになってしまい、司書は尚更申し訳なく思った。
「報告書、持って来てくださってありがとうございます。時間外に、わざわざすみません」
「……」
無言で差し出された書類を受け取る。臭いから寄るな、だとか言われることは幸いにしてなかったものの、中島は眉間に軽く皺を寄せ、不愉快そうな目でこちらを見ていた。しかし、司書にはもう一つだけ、彼に頼まなければならないことがある。
「……それで。ここで吸うのはこれっきりにしますから、どうかこのことはご内密に……」
この男に限って誰かに吹聴するとは思っていないが、万が一にでも喫煙者の耳に入れば面倒なことになる。自分でも何となく情けない気持ちになりながら懇願する司書に、中島は大きく溜め息を吐いた。
「……そんなものの何が良い」
「何が良い、って言われると……そうですね……うーん……」
「それすら分からないものを吸っているのか。……小児喘息を患っていたんだろうが」
どうしてそれを。思わず口にしそうになった言葉は寸前で飲み込む。いつだったか、もう一人の彼との雑談の中で、そのような話をしたのをぼんやりと思い出したからだ。けれど、その指摘には内心かなり驚かされた。自分自身でも朧げでしかない会話の中身を、直接話したのでもないこちらの彼が覚えていたなどとは。
「今は完治してるからいいんです。もう習慣みたいなものなので、ないと逆に落ち着かないっていうか……」
「どこで覚えた」
「え」
今度こそ司書は固まった。それは本当に予想外の質問だった。そして、内容を理解した瞬間から司書の頭はなぜか答えを誤魔化す方向へ回り始めた。別に後ろめたいことがあるわけではない。ただ、自分でも理由が分からないのだが、この男には真実を語りたくないと思ってしまったのだった。――もっとも、鋭敏な虎の目がそれを許してくれるはずなどなかったのだったが。
「どこで覚えたのかと聞いている」
「ええと、それ、は……」
――男か。
言い淀む司書に、中島は一言で止めを刺した。
始めたきっかけを思い返してみれば、確かにその通りではある。けれどもそれはとっくに終わった過去の話で、今となってはもう関係もないし、言われなければ思い出しもしなかったし、ところでなぜ自分はこんな風に言い訳ばかりを並べ連ねているのか。暴かれて恥ずかしいと思うほどの中身ではないはずなのに、なぜこんなにも追い詰められた気持ちになるのだろう。
責めるような視線に堪え兼ねて目を逸らそうとしたとき、ふと中島の足が動いた。立ち尽くす司書の脇を通り抜け、彼は執務机の方へ向かって真っ直ぐに歩を進める。そして、机上からまだ半分以上も中身の入った紙箱を手に取り、品定めでもするかのように睨め付けると、足元のくず籠へ忌々しげにそれを投げ捨てたのだった。彼の一連の挙動を呆然と見ていることしかできなかった司書も、捨てられたものが底に当たったらしい鈍い音でようやく我に返る。
「せ、先生、何してるんですか……!?」
「二度と吸うな」
「な――」
他人の嗜好品を勝手に葬り去った中島は、悪びれもせずに司書の目の前に戻って来た。だが、今度はもう話をするような距離ではなかった。文字通りの目の前。琥珀の双眸に映る、自身の間抜けな表情まで認識できるほどの近さ。眼前いっぱいに広がる彼の端整な顔は相変わらず機嫌が悪そうで、混乱する司書の頭はああ煙草の臭いのせいかと結論を出し、固まる足を一歩後ろへ退こうとする。退こうとはしたけれど、伸びてきた手に顎を掴まれ途端に身体は動かなくなった。そうして。
「……煙草臭い女は好かん」
唇を押し付けてきた男が、心底不愉快そうに眉を顰める。
自分から触れておきながらそんな顔をするなんて、あんまりだと思った。
翌日から、司書は煙草を止めた。