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宛て所、尋ねあたらず

 図書館に届けられた郵便物の仕分けと配布は、特務司書助手に課されたルーティン業務の一つである。館長や司書に宛てられた政府からの書簡、出版社が送ってくる新刊案内や書籍の注文書、あるいは個々の職員への私的な挨拶状の類など、郵便受けから回収してきたそれらを宛先ごとに整理して、図書館内部でやり取りされている手紙と併せて配り歩くのだ。この日もいつものように、午前の配達が来る頃合いを見計らい、中島敦は裏玄関へと足を運んだ。不定期に交替となるこの任に就いてからしばらくが経つが、中島は司書から暇を出されることもなく、歴代最長の在任期間を日々更新している。そう在り続けるため、中島はこれまでずっと、彼女にとって誰より理想的な助手であるよう努めてきたのだ。
 郵便受けの中には、見慣れたシンボルマークの入った政府からの封書に交じってひときわ目を引くものが一通あった。慶事用の切手が貼られた、光沢のある上質な洋封筒。宛先は司書個人。裏返してみると、姓の異なる男女の名前が連名で印字されている。結婚式の招待状であろうことは中島にもすぐに分かった。差出人は司書の友人だろうか。ならば、彼女もそう遠くないいつかには――。迂闊にそんなことを考えてしまったせいで、たちまち中島は胸を掻きむしりたくなるような行き場のない感情に苛まれた。純白のドレスに身を包み、自分ではない男の腕をとって微笑む彼女の姿。見たことなんてあるはずもないのに、それはあたかも確定された未来であるかのように瞼の裏へと浮かんでくる。司書室に戻るまでの短い間に、中島は暗い悋気に歪んだ己の顔を元に戻さなければならなかった。

「手紙が届いていましたよ」
 いつもより少しだけ長い時間をかけて戻った仕事部屋。平静を装って差し出した白い封筒を、司書は目を輝かせて受け取った。ありがとうございます先生。でも誰だろう、珍しい。期待を帯びた声音で言いながら、彼女は手元のそれを裏返す。――瞬間、その表情は色を失くして凍りついた。
 それから司書は再び手紙を表に戻すと、開封することもないまま机の端へ追いやって、そんなものは初めから見なかったかのようにして政府からの書簡を開き始めた。
「……あ、そうだ。先週館長決裁に上げてた報告書って、もう戻ってきてましたっけ?」
 思い出したように切り出されたその言葉がどうしたって不自然なのは、本人とて分かっているだろう。これは、手紙のことには触れてくれるなという意思表示だ。
 封筒の裏に記された名に心当たりはなかった。だが、司書の反応を見て、それが誰なのかが分かってしまった。差出人は司書の友人などではなかったのだ。
 何度か図書館を訪ねて来ていた、歳は三十半ば過ぎ頃の男。司書が錬金術を師事していた相手。名を聞いたことこそなかったが、中島はその男が彼女の特別であることを知っていた。彼女を見つめ続けてきた中島は、嫌でもそれに気付かざるを得なかった。男に注がれる彼女の眼差しが。「先生」と呼ぶ声が。他の誰に向けるそれとも、違っていたから。
 翌日になっても、手紙は執務机の端に置かれたままだった。同じ室内で仕事をしている間、司書はそれを完全に無いものとして扱っていて、中島ばかりが何度もその白い封筒に視線を持っていかれそうになった。普段通りに明るい彼女の振舞いが、却って違和感を増幅させている。それでも中島には踏み込むことができなかった。拒絶を恐れたから、というのも当然あるが、そもそも何を言ったらいいのか分からなかったからだ。
 好いた相手が別の誰かに恋をしていた。中島にとっては初めからそうだったが、司書も同じだったとは思わなかった。根拠などありもしなかったのに、彼女のそれはやがて叶うものだと中島は勝手に信じ込んでいた。いつか行き場を失うのは自分の想いなのであって、彼女がそうなるだなんて考えもしなかった。
 手紙を見つけた昨日、中島の想像の中で、祝福の鐘を背に彼女と腕を組んでいたのは他ならぬその男だった。けれども彼が現実でそこに立つとき、隣で微笑むはずの女は司書ではないのだ。
 哀れみはある。同情もある。後ろ暗い歓喜も確かにあるし、男への怒りも当然ある。だが、何より心を占めるのは虚しさだ。彼女があの男のものになることはなくなったかもしれないが、そこにそれ以上の意味はない。ただただ彼女が傷付けられてしまっただけなのだ。司書と中島の間にあるものは何一つ変わらない。仮に傷心に付け入るだけの狡猾さを持ち合わせていたとしても、中島が彼女を手に入れられることは永劫ない。なぜか。
 この身が人間ではないからだ。

「中島先生、すみません。仕事の話じゃないんですけど、ちょっとお願いしたいことがあるんです」
 手紙の配達から二日後。その日、中島が司書室に入ったときには既に、彼女の机の端には書類が何枚か重ね置かれていたので、中島はそれがそこにまだあるのかもないのかも分からなかった。相変わらず司書は平生と変わらない様子で振舞っていて、中島もそのように努めた。昨日や一昨日に比べればまだましだったが、それでもやはりどこか息苦しい一日を過ごし、終業時間を迎えたとき。徐ろに席を立った司書が、中島の机の真正面までやって来た。
「何でしょう? 私にできることなら、喜んでお手伝いさせていただきますが――」
 危うく最後まで言えずに終わるところだった。中島は思わず固まってしまう。件の手紙が、目の前に差し出されたからだ。
 視線を手元に向けている司書はこちらの動揺に気付いていないのか、これなんですけど、と封筒の中身を取り出し始める。中島の知らないところで開封は済んでいたようで、封緘のシールは既に破かれていた。
「一昨日から、わたしおかしかったですよね。ごめんなさい。なんだか気持ちの整理がつかなくて」
 そうして彼女が示したのは、結婚式の招待状と一枚の葉書だった。曰く、この葉書は出欠を回答するためのものであるらしい。今の時代の流儀なのだろう。御出席・御欠席と印字された「欠席」の部分が丸く囲まれ、その他の部分は二重線で抹消されている。「欠席」の前後には、「残念ながら」「させていただきます」と司書の字が添えられていた。
「それで、もしよかったら、代筆を頼まれてほしいんです。このメッセージってところなんですけど」
 司書の言う通り、葉書の下部にはメッセージなる欄が設けられている。ここに新郎新婦へ向けた祝辞でも書かねばならないのだろう。宴へ出席しないのならば、尚更空欄というわけにもいくまい。
「おめでとうございますとか、どうしても外せない用事があって行けないみたいな内容のことを適当に……まあ、本当は用事なんてないんですけどね」
「……私は構いませんが、その、筆跡が」
「ああ、いいんです、向こうは気にしないでしょうし。似せてくれなくて大丈夫なので、先生の綺麗な字で書いてください。もちろん今日じゃなくていいです、明日でも明後日でも」
 分かりましたと答えると、司書は申し訳なさそうに礼を述べた。心にもない祝辞を並べるくらい、中島にはどうということもない。ただ、最後までそれを遂げられなかった彼女のことを思えば、いっそ呪詛でも書き殴ってやりたい気持ちだった。彼女を選ばなかったお前は、世界一の愚か者だと。
「……相手がいるのはなんとなく分かってたけど、結婚するなら早く教えてくれればいいのに。ていうか、普通教え子なんて呼ばないでしょ。しかも異性の。なんだかなあ。何も考えてないからわたしにこんなもの送ってくるんだろうけどあの鈍感。ああ、そもそもそういう風に見られてないのか……」
 彼女の声を聴いていたくないと思ったのは初めてだった。自嘲のように語られる言葉は、「あの人のことが好きだったんです」と直截に言われるよりもずっと酷く心を抉った。
「……やだ、ごめんなさい一人でぶつぶつ言って。先生、今のは忘れてくださいね」
「……司書さん」
 たまらず立ち上がり、中島は司書の手首を取った。彼女は少し驚いたようだったが、応接のソファへ手を引いて先導する中島に何も言わずに追従する。二人は並んで座ったが、その後の言葉を中島は用意していなかった。先に口を開いたのは彼女の方だった。
「……わたし、どうしても喜べなくて。おめでとうの一言も書けないんです。たぶん、こんなだからうまくいかなかったんですよね」
 違う、そうじゃない、それはあの男がまるで見る目のない愚人だったからだ。掴んだままの手首につい力が入りそうになるのを寸前で思い留まる。一度ばかり衝動のままに動いてみたところで結局、ありふれた慰めを探す以外にできることなど何もなかった。
「そんなことはありません。あなたのお気持ちは当然のものです。私があなたの立場でも、きっと……」
「……先生も、ですか?」
「はい。慕う相手が他の誰かと結ばれて……祝福できる自信なんてありません」
 そして、それはあなたのことなのです。だから、いつかそんな日が来てしまったら、私はもっとひどいことになるでしょう、今のあなたなんて目じゃないくらいに――。醜悪な心の内など知る由もなく、司書は安堵したように小さく息を吐く。
「……そっか、それでいいんだ。ありがとうございます、中島先生。ちょっと元気出ました」
 向けられた弱々しい笑みのいじらしさに胸が軋んだ。彼女の傷を癒してやりたい、その想いに偽りはないというのに、未練がましい執心がそれを汚すのだ。
「……その日は、どこかへ出掛けましょうか」
「え?」
「そうすれば、あなたが嘘つきにならずに済みますから」
 差し伸べた手は後ろめたさに塗れていて、最早彼女のためだったのか、自分のためだったのかも分からない。でも、たとえ彼女がそれを取ったとしても、その先に続くものは何もない。
 あの男は愛する妻と共に時を歩み、もしかすると子をもうけ、少しずつ老いていきながら、立てた誓いの通りに最期まで添い遂げるのだろう。中島にはそれができない。それだけができない。愚かなあの男に劣るところなどないはずなのに、そのただ一つにおいて決定的に及ばない。
 元々が人理を外れた生である。文学を脅かす危難が去れば、この魂は物言わぬ書の中へ返されるだろう。仮にそうでなかったとしても、不老の身体は愛する女と同じ時を刻めない。子を成すことも許されない。
 転生者という存在の先の無さは、特務司書たる彼女が誰より分かっているはずだ。だから彼女は決して中島を選ばない。もしも――もしも何かの間違いで、いつか愛してくれたとしても。
「……中島先生は、本当に優しいですね」
 泣いてくれれば抱きしめられたのに、司書は笑っていた。

(……あなたなら、どうしていたのでしょうか)
 声なき問いに、どこかで見ている影が答えをくれるわけもなく。
 掴んだままだったはずの手首を、中島はいつの間にか離してしまっていた。