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やらずの雨
白い寝台に臥した男の顔を見つめて、もうすぐ一時間が経とうとしている。
傍らの椅子から離れられずにいるのは、何も寝顔に見惚れているからではない。文句なく整った容貌は、確かにそれに耐え得るだけの美しさを備えてはいた。けれど、今でこそ静かに眠っている彼がこの医務室に運ばれてきたときの惨状といったら、思わず目を背けたくなるほどひどいものだったのだ。顔には傷と青痣、切り刻まれた全身からは血を流し、絶え絶えの呼吸をしながらふらつく身体を不本意そうに支えられて、中島敦は帰還した。――喪失。侵蝕者の放つ穢れた言霊に、心を深く侵された状態で。
二人きりの室内にはまだ、微かに洋墨の匂いが漂っている。近頃は潜書での重傷者が出ることもめっきり少なくなっていたから、久方ぶりの大手術だった。といっても、手を動かしている間は無我夢中だったので、なまえにはあまりその実感がない。補修を終えたのと同時に彼の顔から苦痛の色は消えていたけれど、傷が塞がってもすぐに疲労が取れるわけではないし、負の感情に支配された精神が平常の状態に戻るのにも個人差はあれ時間を要する。まだしばらくは目を覚まさないかもしれないが、せめてその眠りが穏やかであるように祈った。
――今日の中島くん、どこか様子がおかしかったんだ。共に有碍書へ赴いていた三人の文豪たちが、こぞって口にした言葉。彼は何かに苛立っていたようで、いつもの洗練された剣捌きは精彩を欠き、鬱憤でも晴らそうとするかのように力任せに剣を振り回していたらしい。獲物を独占せんとする捕食者のごとく、我先に敵の群れへと切り掛かっていくものだから、討ち倒した侵蝕者の数は会派の中で群を抜いたが、消耗の度合いもまた同じ。そんな中島を見かねた仲間が撤退を進言しても、会派筆頭の彼がそれを聞き入れることはなく、結局最後の最後になって、敵の親玉と相討ちになる形で彼は喪失状態にまで追い込まれた。本の浄化はなされたが、あと少しでも攻撃を受けていればその身は本当に危うかったかもしれない。
潜書先における進退の判断は、会派筆頭に任せている。研究員のアカとアオ、どちらかの同行があれば現実世界とのやり取りはできるようだが、非戦闘員の警護という余計な負担まで掛けたくはなかったので、なまえはその方策を採っていない。普段の中島の戦いぶりは残忍で容赦がないとも聞くが、決して戦闘狂というわけではなく、むしろ彼は戦局を冷静に見ることのできる人物であるはずだ。だからこそなまえも筆頭を任せているのだし、今回のような話を聞かされたのも初めてだった。様子がおかしかったと言われても、なまえにはその予兆があったかどうかすら分からない。気を付けて行ってきてください、お帰りお待ちしています。そう言って送り出した中島に変わったところなどなかったはずだが、そのときの彼は剣を振るっていた彼とは違うのだ。
補修は成功している。中島は眠っているだけで、規則正しく呼吸もしている。それでも落ち着かないのは、あの惨状が瞼に焼き付いてしまっているからだ。彼が目を開けてくれるまでは、どうにもそばを離れがたかった。間近で様子を窺われていたと知れば、きっと不愉快に思うだろう。あるいは申し訳なさそうに恐縮するだろう。目を覚ますのがどちらの彼であるのか、今は知りようもないけれど。
そのうちに、なまえも首を垂れ下げ眠りに落ちていたらしい。布の擦れるような音にはっとして意識を取り戻し、自分が夢の中にいたことを認識する。何度か瞬きをしてぼやけた焦点を合わせれば、俯けた視界にも男が上体を起こしているのが分かった。
「……よかった、気が付いたんですね……」
自然とこぼれた言葉とともに顔を上げる。そうして、首だけをこちらに向けていた男と目が合ったとき、なまえの心臓はびくりと跳ねた。そこにいたのはまだ剣を振るっていた方の中島で、射抜くような視線が真っ直ぐになまえを捕捉している。敵意こそ感じないものの、感情の見えないその双眸が妙に心をざわつかせた。
「中島、先生」
「……」
「あの、お加減はいかがですか」
「……傷は癒えている」
それは答えになっているようでなっていない。そんなことは補修を施した自分にだって分かっている。聞きたかったのは、もっと見えないところの話だ。いっそ最悪の気分だとでも言われた方が、まだ腑に落ちたかもしれない。
「どれだけ寝ていた」
「ええと……だいたい二時間くらいです」
「……この俺が、あんな奴らにやられるとはな」
顔を正面に戻し、自嘲めいた溜め息を吐いた中島は軽く目を伏せた。少しだけ露わにされた心の内。視線の圧からは解放されたが、力無い声に今度は居た堪れない気持ちになる。今日の彼は様子がおかしかった――その言葉が再び頭を過った。もう一人の自分を案じ、侵蝕の影響が及ぶのを危惧している彼が、我が身を顧みない戦い方を選んだ、あるいは選ばざるを得なかったのは何故だろう。
「……本の中で、何かあったんですか?」
「何もない。ただ無様に敗北しただけだ」
「敗北なんかじゃないです、先生のおかげで浄化はうまくいったんですから。……でも、すごく無茶してたって」
「あいつらが役に立たないからな」
「……」
中島はどうでもよさそうにそう言ったが、無茶をしていたこと自体は否定しなかった。「あいつらが役に立たない」のはもちろん真の理由ではないだろうが、今の彼は多くを語ろうとはしないものの、なまえの言葉の一つ一つに珍しく答えを返してくれていた。馬鹿と話す気はない、そう言われたきり沈黙を貫かれたことだって、過去には一度ならずあったのだ。病み上がりの精神状態が平生の辛辣さを削いでいるのなら、そこに乗じるなんて不誠実かもしれない。それでもなまえは、彼の口から本当のことを聞いてみたくなった。特務司書としての危機管理上必要な情報だから、というよりは、ただの個人的な動機に近かった。だが、いつになく対話に応じてくれている彼だ。なかなか会うことのできない、接することのできないこの男のことを、もっと知りたいと思った。
「もしかして、潜書の前になにか――」
そしてすぐに、それが過ちだったと気付かされた。
好奇心は猫をも殺す。気を許されたわけでもないのに、調子に乗って深入りしすぎてしまったのだ。一度逃れたはずの視線に、なまえはまた捕まっている。彼の双眸は、先程よりも明確に何かを訴えているように思えたが、それが何なのかはまるで分からなかった。強い眼差しにひどく胸騒ぎがする。今度はもう、受け止め切ることはできそうにない。
「……い、いえ、なんでもないです。とりあえず、今はゆっくり休んでください。あったかいお茶でも用意してきますね」
なまえは椅子から立ち上がろうとした。しかし、一度浮きかけた腰はすぐさま再び座面に沈んだ。――伸びてきた男の手が、手首を掴んでいる。そこを優に一周して余りある彼の長い指が、痛いわけではない、けれど決して逃れ得ぬ強さでなまえを拘束している。じわりと伝わる温もり。こちら側の中島に抱く印象からは想像もつかない、意外なほどの体温の高さは元々のものなのだろうか。直接触れられているのが、なまえにはとても恥ずかしいことのように思えた。
「何故逃げようとする」
「別に逃げようとしたわけじゃ……!」
ない、はずがないのに思わず否定を口にしようとしてしまう。はっ、と嘲るように中島は声を漏らした。言い訳すら考えつかずにいることを、きっと彼には見抜かれている。
「逃げるくらいなら、初めからこんな所で待たなければいい」
「な……んですか、それ。わたしはただ、先生のことが心配で」
「どうだかな」
一時的にとはいえ、男の前から離れようとしたのは事実だ。それも、みだりに詮索しようとした結果気まずくなってしまったから、という身勝手な理由で。だから、不興を買ったのならば嫌味を言われるのも納得できないではないし、後ろめたさもあった。だが、さすがに身を案じていたことまで疑われたのは心外だ。いくら動揺していても、脳の怒りを司る部分はまだ辛うじて機能しているらしい。だから、なまえはこの動揺を無理矢理怒りにすり替えようとした。――頭を沸騰させて、手首の熱さを忘れたかった。そうでもしなければ、これ以上は本当に身が保たないと思った。
「あんなひどい怪我見せられて、平気でなんかいられません! 補修が終わったからって、弱ってる人のこと置き去りにできるほど薄情じゃないです。目が覚めたとき、誰もいてくれなかったら心細いじゃないですか……!」
「……馬鹿馬鹿しい。俺がそんなことを気にするとでも思ったのか」
「先生が気にするとかしないとかじゃなくて、わたしがそうしたかったんです。だって――」
「それほど奴に会いたかったか」
――その言葉の意味を、彼以外の誰に理解できただろう。
順調に怒りへ移行しつつあった頭が、一瞬で思考停止に陥った。彼は一体何を言っているのか。それはなまえにとってあまりにも唐突で、まるで脈絡がないもののように聞こえた。
「は……なんで、なんでそうなるんですか……!? わたしそんなことなんて一言も」
「もういい」
何もかも分からないまま、投げやりな声と同時に視界はぐらりと傾いた。椅子の脚が音を立てる。掴まれた手首を引かれるままに、なまえの上体は男に向かって倒れ込み、背中に回された腕の中に閉じ込められた。
男の髪が肌を擽る。中島はなまえの首に顔を埋めるように押し付けて、耳元で静かに深く息を吐き出した。鼓膜を揺らす湿った生温さよりも、そこに滲んだあらゆる想いの断片がなまえを追い詰めた。喜悦。悲哀。渇望。諦念。安堵。焦燥。無秩序に交錯した感情の波に粟立つ背の上で、男の手が緩慢に骨を辿っている。指先が上下する度に一つずつ彼の想いを抱えさせられて、積み重なったそれにやがて肺まで埋め尽くされて、なまえは呼吸もままならなくなる。
二本の腕はなまえのかたちを探るように、確かめるように、少しずつその力を増していく。真綿で首を絞められているような心地がした。触れ合っている互いの身体はこんなにも熱いのに、震えているのは一体どちらの方なのだろう。中島は何も言わない。聞こえてくるのは鼓動ばかりだ。ただ一つだけ分かるのは、どうしようもないほど求められているということだけだった。侵蝕とは、喪失とは、こうまで人を変えてしまうものだったろうか。この自尊心の塊のような男を、誰かに寄りかからせてしまうくらいに――……違う。そんな風に言うことができるほど、自分は彼を知ってもいなかったのだ。
「せん、せい」
「なまえ」
――嘘だろう。今度は本当に息を忘れた。信じがたい響きが、一瞬で身体の芯をめちゃくちゃに揺さぶった。心がそれを処理できないうちに、目の奥に熱いものが勝手に込み上げてくる。何故ならば、彼が口にしたのは。
「……何を驚く。お前の名だろう」
違うのか、なまえ。音を噛み締めるように中島は繰り返す。家族や友人から幾度となく呼ばれてきたはずのそれは、彼の声が乗るだけで全く違うもののように聞こえた。こんなに息苦しそうに、恨めしそうに、愛おしそうにこの名を呼んだ者など今まで誰もいなかった。
「……なん、で……? ね、先生、どうしちゃったんですか。……わかんない、だって、こんなのって、わたし」
「おかしなことを言う奴だな」
息を交えた低い囁き、耳から伝わる振動が否応なしに全身を震わせる。熱い。苦しい。気が変になりそうだ。もうそろそろ涙も堪えていられない。――もしも今、全てを投げ出してその胸に縋りついたとしたなら、一時だけでも楽になれるのだろうか。あり得ない選択肢が脳裏に浮かんだ途端に、背中の腕が解かれた。身体が離されても、男の匂いも温度も感触も染みついたままで、見透かされたのだとしたら尚更顔など見られない。けれども中島はそれを許してくれなかった。俯いた頬に添えられた手が、ゆっくりと視界を上向かせる。彼の口元は緩く弧を描いていたし、淡い黄昏を映した瞳は僅かに細められていた。儚さ、脆さ、不確かさ、もう一人の彼に通ずるところはあっても、この中島にそんなものは似合わないはずだ。それなのに、初めて向けられた彼の笑みは今にも壊れてしまいそうだった。
男が息を吸う。その先はきっと聞いてはいけない。警鐘はけたたましいほど鳴り響いているのに、耳を塞ぐことはできなかった。
「――俺をこうさせたのは、お前だろうが」
涙は、ついに頬を濡らした。