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彼の戯れ

 司書室を訪ねて来る者に限って言えば、入室時にノックをしない人間は二種類に分けられる。一方は、例えば火急の用件を抱えているとか、あるいは何か愉快な出来事にでも遭遇し、興奮状態のままそれを報告しに来たとかで、急ぎ慌てるあまり扉を叩くことを忘れた者、つまりは過失犯だ。対するもう一方は、敢えてそれをしない故意犯。部屋の主の都合など端から意に介していない、要するに司書に対してはノック程度の礼すら不要と考えている者である。
 なまえの知る中で、後者に該当するような不届き者はこの図書館に約一名しかいない。そして、今しがた司書室の扉は予兆となる騒がしい足音を伴うこともなく至って普通に開かれ、まさにその人物が姿を現した。――帝國図書館に籍を置く転生文豪のひとり、中島敦。もちろん、礼儀正しく控え目な丸眼鏡の青年ではなく、それとは対照的な気質を有するもう一人の彼の方だ。
 後ろ手にドアを閉めると、闖入者は何を言うでもなく、こちらに目を向けることすらなく、勝手知ったる風で部屋の隅に置かれた新聞ストッカーから今日の朝刊を取り出し、それから応接用のソファに深々と腰を沈めた。悠然と組んだ脚の上で広げた新聞に目を落とす男の様子を、なまえはなまえで、執務机から動かず黙ったまま眺めていた。自身の仕事部屋を無断で休憩所代わりに使われるのは、何もこれが初めてのことではない。初めてでないどころか最早慣れっこにすらなっているので、こういう時は邪魔をせず、彼の好きなようにさせておくのが最善であるとなまえは心得ていた。今日の彼はなんとなく機嫌が良さそうに見えたが、油断して下手に声を掛ければあっさり不興を買うおそれだってある。それは本意ではない、というか面倒くさい。眉間に思い切り皺を刻んだ彼がやはり扉を叩かず入室してきたいつかのある日、どうしたのかと尋ねた瞬間に煩い黙れと理不尽に怒られたことを、なまえは今でもこっそりと根に持っている。
「おい」
 しばらくは閲読に集中するだろうと、手元の仕事を再開しようとした矢先。存外早くに声が掛かったなと思いながら、なまえは再び中島の方へと顔を向ける。目が合うことはなかった。人のことを呼んでおきながら、彼はこちらを見ようともしない。
「ここの司書は客に茶も出さんのか」
 様子見から入ろうとしたことが、今日に限って裏目に出てしまったようだった。しかし、飲み物の要求一つにわざわざ嫌味を混ぜる必要はあったのだろうか。これならば、亭主関白よろしくただ一言「茶」とでも告げてくれていた方が余程可愛げがある。
「……それはそれは、気が利かなくてどうもすみませんね!」
 席を立ち、ささやかな抗議の意を示すためにわざと威勢のいい足音を立てながら、なまえは室内の給茶スペースに向かった。そこでも敢えて粗っぽく茶器を鳴らしながら、視線はちらちらと男の横顔を窺う。騒々しさを嫌う中島だ、少しくらいは眉を顰めてくれるだろう――と思ったのに、気にする素振りもないどころかかえって愉快そうにすら見えるのはどういうことなのか。全くもって面白くない。
「粗茶ですがどうぞ!」
「……ふん、茶柱か」
 もちろん狙って立てる特殊技能など持ち合わせていないし、仮にその技があったとしても今この場面では絶対に使わない、要するに単なる偶然なのだが、妙な敗北感に襲われたのでなまえはさっさと踵を返そうとした。そこへ再び「おい」と声が掛けられる。やはり視線はこちらを向かない。先程と少し違うのは、微かに滲んだ不満の色だ。
「今度はなに?」
「足りないだろうが」
「……何が?」
 茶請けの菓子なら合わせて出した。それ以外に何かあっただろうかとなまえは首を捻る。外部からの来客でもない限りわざわざ用意するようなものでもないのだが、思い当たるとすればおしぼりか、あるいは茶托を使わなかったことを言っているのか。
「お前は錬金術とやらより先に接遇でも学んだらどうだ。客を放置する気か?」
 どちらでもなかった。不足していたのはなまえの飲み物、つまりは相手をしろということらしい。
 それならそうと初めから言ってくれればいいものを。放置も何も自分だってまだ新聞を広げたままなのだし、先程から自らを客だ客だと宣ってくれるが、ノックもしない人間に礼儀作法について説かれたくはない。不平不満は次から次へと思い浮かぶも、結局どれも言葉になることはなかった。ようやくこちらを向いてくれた彼の、有無を言わせぬ視線が許してくれなかったからだ。
(わがまま美人……)
 それこそ口に出せば蹴られそうなので黙っておくが。本当は、なまえとて満更でもないのだ。何しろこれは、滅多にない恋人からの誘いであるのだから。
 中島となまえはこれでも恋仲にある。あるはずだ。もう一人の彼とは間違いなくそうだと言えるが、こちらの中島との関係で自信が一割減になるのは確かな言葉をもらった記憶がないからだろう。それでも、こうして気紛れに自分の元を訪ねて来てくれることが、きっと彼なりの答えであるのだ。居心地が気に入らないのなら、我が物顔で寛いだりはするまい。

 用意した自分の湯呑みを男と対面の席に置こうとしたところで、物言いたげな視線の圧を感じた。さすがに三度目の「おい」を言わせる前に、彼の意を汲み取らなければならないだろう。なまえは中島の真横に腰を下ろした。新聞は、既に畳まれていた。
「中島さん、何かいいことでもあったの?」
「さあな」
 今のは肯定に他ならない。中身はもちろん気になるが、聞いたところで語ってもらえないのはよく分かっている。
「あーあー羨ましい。わたしなんて会議資料のリテイク食らって打ちのめされてるのに」
「……会議資料? 何だそれは」
 潜書や補修はともかく、特務司書の事務仕事になど微塵の興味もなさそうだった中島が意外にも反応を示したので、なまえは目下自分を悩ませている課題について話すことにした。男がこの部屋を訪れるまでの間、パソコンの画面をひたすら睨み続けながらも一向に進む気配のなかったレポートは、政府官僚による対策会議で配布されることになっているものだ。日毎に作成している定型の報告書とは全く違う、これまでの活動経過や侵蝕現象の情勢などをまとめた二十数頁に渡る資料。それでも一度はなんとか仕上げたのだが、館長からはやり直しを命じられてしまった。――必要な事項は網羅されているし、内容自体に誤りはない。ただなあ……何しろお偉方が目を通すものだろう? もう少しこう、なんとかならないものかね。というのが再提出の理由らしい。
「『もう少しなんとかならないものか』って、そんなふわっとしたこと言われても困ると思わない? せめてどこが駄目だからどう直せとか、そういう具体的な指摘を」
「煩い」
 お前の愚痴に付き合う気はない、と一蹴。自分から聞いてきたくせにこの言い草か、仮にも恋人が苦しんでいるというのに、と恨み言の一つでも言ってやりたくなるが、これがこちらの中島の平常運転なのだ。
「……まあ、その言い分は理解できなくもないがな」
 それでも何だかんだで話は聞いてくれているし、時にはこんな風に少しだけ寄り添ってくれたりもする、だからこの男はずるいと思う。
 もっとも、その後に続いた要求は、なまえには些か承服しかねるものだったのだが。
「どうせ暇潰しだ。原稿を見せてみろ」
「えっ!? それは嫌。だってボロクソに言うじゃない」
「当然だ。早くしろ」
 僅かばかりの飴をくれたかと思えばすぐにこの調子だ。だが、残念ながら自分にはこの暴君に抵抗する術はない。諦めたなまえはソファを立ち、執務机から問題の原稿を持ってきて男へと手渡した。もう一度隣に座りはしたが、読み始めた彼の表情は恐ろしくて見られたものではない。何が悲しくて、不出来と分かっている代物を我が国が誇る文豪の目に触れさせなければならないのか。楽しい休憩時間のはずが、これではまるで罰ゲームだ。
 叱られる前の子供のような心境で、なまえは中島の読了を待った。紙をめくる音の間隔から、ある程度丁寧に目を通していることが推察されて尚更居た堪れなくなる。そうして暫しの後、彼は呆れたように溜息をついたのだった。
「十五点」
「……一応聞くけど、何点満点?」
「百に決まっている」
 覚悟していたとはいえ、あまりにも辛辣な評価に目眩がしそうだった。こんな点数は学生時代に苦手だった数学の試験でも取ったことがない。しかしこれが紛うことなき文章のスペシャリストによる採点なのだ。続く“中島先生”の遠慮会釈もない講評が、打ちひしがれるなまえに更なる追い討ちをかける。
「全体として冗長に過ぎる。盛り込むべき内容の取捨選択が出来ていない」
「うっ……」
「構成も難だらけだ。まず章立てが不必要に細かい。三章と四章を分ける意味がどこにある? それからこの文学分野別の侵蝕傾向、何故各論から始まっているんだ。先に大要を述べねば話が分からんだろうが」
「で、でもそれは」
「大体、これは役所の椅子に踏ん反り返っている連中に読ませるものなんだろう。だというのに何だ、この唐突な専門用語の羅列は」
「……」
「実務レベルの知識を前提としている時点でそもそもが破綻している。……よくもこれが外部の人間に通じるなどと思ったものだな」
「すみませんわたしが悪うございましたでももうそれ以上は勘弁して……」
 ショックやら情けなさやらでいよいよ泣きたくなってきた。それでも彼の言説は、上司からは与えてもらえなかった具体的な指摘そのものでもある。こてんぱんにされた直後なので素直に感謝を述べようという心持ちにはなれないが、おかげで一筋の光明が見えたような気がした。
 まだまだ言い足りなさそうな様子はあれど、中島もひとまずはなまえの泣き言を聞き入れることにしてくれたらしい。駄目出しを受けた箇所は忘れないうちに書き留めておきたかったので、十五点のレポートを返してもらうためになまえは手を差し出した。だが、受け取る寸前で指先は敢えなく空を切る。なまえの手を躱すようにして、男は掴んでいた紙束をひょいと上に持ち上げていた。
「対価を支払うなら、最後まで面倒を見てやらんこともない」
「本当に!?」
 思わず前のめりで食いつきそうになる。あまりの出来の悪さにさすがの中島も一片の憐れみを覚えたのか、それはそれで不名誉極まりないがまあいい。彼の助力があれば品質はもう保証されたようなものだし、ただの会議資料も「監修・中島敦」と付くだけで文学的価値すら生まれてしまいそうだ。――っていうかそれ、中島さんとわたしの合作ってことになっちゃうんじゃない? 名だたる先生方を差し置いて、わたしがそんなことさせてもらって大丈夫? と思考が明後日の方向に転がり始めたところで我に返る。対価、対価だ。すなわち、中島敦につまらない会議資料を監修させることに対する相応の報酬である。
「いやそれ絶対価格設定とんでもないでしょ……」
 果たして自分の安月給、雀の涙ほどの貯蓄で賄いきれるのだろうか。日夜借金の返済に追われている某歌人のようにはなりたくない。その某歌人の債権者たちとは違って、中島は取り立てに一切の妥協もなさそうだ。ただの偏見だけれど。
「馬鹿か。金など要らん。体で払え」
「はあ!?」
 素っ頓狂な声が出た。まさかこの男がそんな冗談を口にするとは――いや違う、言うはずがない。ということは本気なのだ。本当に体で払わせようとしているのだ。きっといつぞやのように、わたしにあんなひどいことやこんなひどいことを要求するつもりなのだ――と忘れるにも忘れられない夜のあれこれが思い出されてなまえはつい赤面していたのだったが、まずは、と男が切り出した内容は自身の予想とはだいぶん違うものだった。曰く、荷物持ちとしての古書店への同行、扉が閉まらなくなっている私室の書棚の修繕、部屋の外窓の拭き掃除、取れかかったシャツのボタン付け、などなど。内容は多岐に渡るが、要は単なる労務作業である。
「ああ、なんだ普通の雑用的な……」
 ほっと胸を撫で下ろしながらそうこぼすと、当然だろうが、と冷ややかな目を向けられる。
「……お前、一体何を想像していた?」
「べっ、別に何も?」
「この変態が」
 違う、と声を上げようとはしたものの、心底愉快そうにした男の悪辣な笑みを見て諦めた。
「……もういいです何とでも言えばいいんだわ……」
 口に出せないようなことを考えてしまったのも事実ではある。なまえが白旗を掲げたことに満足したのか、中島は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「……それで? 払う気はあるのか」
 考えるまでもない。
 それは、対価の内容が穏当なものだったからではない。独力でどうにかなりそうな仕事ではないから、というのはその通りだが、それもまた本質ではない。
「……謹んでお願いします」
 もう一人の彼ならば、きっと無償で快く引き受けてくれたのだろう。けれど、素直に「助けてやる」とは絶対に言ってくれないこの中島が、それでもこうして差し伸べてくれた手を、取らずにいられるはずがないのだから。
「いいだろう。……ならば、まずは着手料を寄越せ」
 手にしていた原稿を、男はテーブルに置いた。
 彼の言葉の意図が読めないうちに、空になったその手が首の後ろに回り、引き寄せられるままに身体が傾いで視界が塞がる。
(……何が変態よ、やっぱりそういう意味だったんじゃない)
 男のいいように唇から着手料を徴収されながら、なまえは内心で毒づいた。

お題「裏敦がやたら構ってたじたじになる司書」より
19.08.11

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