Aa ↔ Aa
冷たい熱
額に滲んだ汗が、こめかみを伝って滴り落ちていく。
肌の上を滑るその感触がむず痒くて、なまえは手のひらで乱雑に顔を拭った。照りつける太陽と、灼かれたアスファルトから立ち上る熱気、けたたましい蝉の声が否応無しに気力と体力を削いでいく。ハンカチを取り出す動作すら今は億劫で、汗にまみれた手をスカートの裾に擦り付けた。
駅から図書館までの道のりはこんなにも長かっただろうか。通り慣れた帰路にいることは間違いないのに、どの辺りを歩いているのかという認識がどうにも薄い。どちらかといえば、数歩先を行く男にただ追従しているような感覚だった。
彼の黒いシャツの背中は、染み込んだ汗で斑らに色が変わっている。かんかん照りの真っ昼間に黒い服で外を出歩くなどとは自殺行為にも思えたが、己の身も顧みずにそうすることを選んだ張本人は、今はこの場から姿を消していた。なまえの目の前を歩く男は、単にその状態を引き継いだに過ぎないのだ。
彼――転生文豪の一人である中島敦は、他の文豪にはない稀有な特質を持ち合わせている。それは、一つの身体を二つの人格が共有しているというものだ。上司の遣いで炎天下の中を出掛けなければならなくなったとき、同行を申し出てくれたのはもちろん穏やかで控え目な方の彼だった。けれども今は違う。暑さに抗うように強い足取りで先を行くのは、唯我独尊を体現したように権高く、常に堂々たる風格を漂わせるもう一人の中島敦。潜書で深傷を負ったときでもなければ、自分の前にはなかなか姿を現してくれないはずの彼だが、いったい何がきっかけで表に出る気になったというのか、なまえにはまるで見当もつかない。ただ、気付いたときには既にそうなっていたし、敢えてその訳を聞こうとは思わなかった。――問えば、彼は帰ってしまうかもしれない。そしてそれは自身の望むところではないような気がした。なぜそう思ってしまうのかはよく分からない。暑さのせいかもしれない。
男に続いて何度目かの角を曲がったそのとき、引っ切りなしに鳴いていた蝉が、示し合わせたかのように一斉に声を止めた。突如訪れた静寂の中、視界に飛び込んできたものになまえは思わず足を止める。「氷」と書かれた吊下げ旗が、駄菓子屋の軒先でぬるい風に揺られていた。
「……先生、休憩したい」
何を考えるより先に、反射のように口にしていた。呼びかけた体でありながら、発した声は独り言のように情けなかった。
「……勝手にしろ」
それでも、男の耳には届いていたようだ。中島もまた足を止め、店先の方へと顔を向けた。寄り道など愚行と切り捨てられていてもおかしくはなかったのに、「勝手にしろ」というのはどうやら一人で先に帰るという意味ではないらしい。地獄のような酷暑の中にあっては、さすがの彼も氷菓子に惹かれたりしたのだろうか。何にせよ、付き合ってくれるのならば願ったり叶ったりだった。元より考えなしの、半ば無意識に口から出た申し出ではあったけれど、置き去りにされるくらいならきっと諦める方を選んでいただろうから。
軒先テントの下に置かれたベンチに座ると、身体中からどっと汗が噴き出してくる。腰を落ち着けたこともあってようやくハンカチを取り出す気になったなまえの隣で、中島もまた手の甲で額を拭っていた。日陰であろうと暑いことに変わりはないが、降り注ぐ強烈な陽射しが遮られた分だけ少しはましになった気がする。ほうと一息つきながら、なまえは店内の壁に貼られた品書きを見た。
「何味にしますか?」
「……何だろうと変わらん。お前が決めろ」
種類を確かめようともしない男の言葉に、様々あるシロップは苺だろうがメロンだろうが実はどれも同じ味をしていて、異なっているのは色と香料だけである、というどこかで聞いた話をなんとなく思い出した。にも関わらずそれらしい味に感じてしまうのは、脳が錯覚を起こしているからなのだという。もちろん中島の発言が、そのような現代の無駄知識を踏まえてのものだとは思わない。単に考えることが面倒なだけだろう。なまえは立ち上がり、店奥のカウンターへと向かった。
「ブルーハワイふたつお願いします」
「はいよ、座って待ってな」
気のいい老婦に二人分の代金を支払い、言葉通りにベンチへ戻って着座する。そうしたところで、隣から注がれる物言いたげな眼差しに気が付いた。不服の内容は察したが、責められる謂れはない。自分は彼の言葉に従ったまでだ。
「決めろって言ったの先生でしょ」
「……だからと言って何故わざわざ珍妙なものを選ぶ」
「先生は知らないかもしれないけど、むしろ定番なんですよ。さわやかでおいしいし、見た目も涼しげだし」
ただ、具体的にどんな味なのかについてうまく説明できる自信はない。仮に問われれば「食べれば分かる」とでも答えて逃げるつもりでいたが、結局中島はそれ以上何も言ってはこなかった。
いつの間にか再び鳴き出していた蝉の声と、電動氷削機の音とが混じり合う。歩いている時ほどの鬱陶しさは、今は感じない。何とは無しに目を向けた男の横顔に、ひとすじの汗がゆっくりと伝い落ちていった。
白皙の、とでも形容されそうな肌に日を浴びせたことに、なまえはどこか後ろめたさを覚える。焼けてしまうのだろうなと思ったからだ。人間の身体に生じる現象は、転生文豪にも等しく発現する。原理など分かるはずもない。ただ、彼らはそういう風にできているのだ。
――どうして、彼は出てこようと思ったのだろう。
尋ねるつもりはない。それでもやはり気になっていた。もともと顔を合わせられることも少なく、偶に会えても素気無い態度を取られ、会話を試みようとしても必要最低限の返答しかもらえないことが大半。そんな男と二人で道草を食っている。暑いと言い合える相手がいるなら灼熱の道中にも耐えられよう、ともう一人の彼の厚意には甘えてしまったが、こちらの中島が姿を見せるだなんて思いもしなかった。
己の半身に害が及ぶことを厭う彼だから、もしかするとその限界を察して仕方なく体を代わっただけなのかもしれない。だとすれば悪いことをした。けれどもその一方で、仮にそうでなかったのなら、などと詮無いことを考えてしまう。なまえに付き合う必要なんて初めからなかったのに、彼は文句の一つも口にしないから。
「ほれ、お待ちどおさま」
掛けられた声が、終わりの見えない思考を切った。気付けばすぐ側に店主が立っていて、こんもりと氷が盛られた二つのカップをこちらに差し出している。軽く礼を述べてなまえはそれを受け取り、片方を隣の男へ手渡した。
「ごゆっくり」
店奥へ戻っていく老婦の声音が、何故だか妙に楽しげに聞こえた。
鮮やかな青に彩られた山の頂を、そっと崩して口に運ぶ。広がる甘さと冷たさが、茹だった身体の渇きを癒してくれる。思った通りのなんとも説明し難い、それでいて懐かしい味だった。いかにも身体に悪そうな合成着色料のシロップ、ストローと一体になったプラスチックのスプーン、味気ない発泡スチロールのカップ。図書館の食堂が誇る立派な宇治金時とは比ぶべくもない、けれどもこの安っぽさをひどく好ましいと思う。
しゃく、と氷を掬う音は隣からも聞こえてきていた。珍妙だ何だと言っていた割には手を付けるのを躊躇う様子もなかったし、気に召したかどうかはともかくとしても、不満が出てこない辺り少なくとも許容範囲ではあるらしい。
「ね、先生、見て見て」
ふと思い付いて、なまえは男に見せびらかすように舌を出してみた。幼い頃、かき氷を食べれば決まってこんな風に、青や緑に染められた舌を友達同士で見せ合いながらふざけていたものだ。
「……、……くだらん」
反応までにしばらく時間はかかったが、黙殺されなかっただけ御の字だと言うべきだろう。笑ってくれるなどとは初めから思っていない。それよりも、この滑稽な有様がなまえだけのものではないと知らしめることの方に意味があった。いかな中島敦であろうと、食青を舐めれば舌は青くなってしまうのだ。
「いま先生だって同じようになってるのに」
「それが何だと言う」
「別に何ってわけじゃないですけど」
――お揃いだな、って。
浮かんだ台詞を口にするにはあまりに気恥ずかしくて、氷と一緒に飲み込んだ。それこそ本当に、だから何だ、だ。
ぬるい風が肌をなぶる。変わらず蝉は鳴いていて、背中には汗が流れている。喉を通る氷は確かに身体を冷ましてくれたが、それでもやはり暑かった。暑かったけれど、今は嫌な暑さではなかった。
「っ……」
男が不意に手を止めて、小さな呻き声を上げた。かと思えばカップを横に置き、顔を顰めながら額に手を当てている。
彼の身に何が起こったのかは明白だった。冷菓とは切り離せない、誰もが一度は苛まれるあの現象。痛みに悶える姿がどうにも隙だらけで、人間くさくて、何故だか胸の辺りがきゅっとなる。
「……先生」
ただ、その理由に明確なかたちはいらない。
先を歩きながらも、なまえに歩調を合わせてくれていた。本当はさっさと冷房の効いた図書館へ帰りたかっただろうに、なまえの申し出を蹴ることをしなかった。そうして今も汗をかきながら、氷をつつくひと時を彼は共有してくれている。
そのことだけで、なまえには十分だった。あるいはそれすらも、あっという間に溶けてしまう夏の気まぐれなのかもしれない。
「あつい、ですね」
「……ああ」
まるで伝染したように、頭にきんと冷たさが沁みた。