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誤算
穢れた文学書の中に魂を潜り込ませ、そこに巣食う異形の者たちと刃を交えて戦う――などというのが押し付けられた使命でもなければ、そんなものは突飛な空想小説か何かの話であるとしか思えなかっただろう。それが日常となってしまった今では特に意識することもないが、改めて考えてみると、一度は死んだはずの人間の魂を転生だとかいう訳の分からない形で喚び出して、あまつさえ戦いに送り込もうなどとはとんでもない所業である。現状ではそれが危機に瀕する文学を守る唯一の方法であるらしいとはいえ、仮にも国家機関たる組織がそのように外法じみたやり方に手を染めるとは世も末だ、というのが率直な感想だった。
転生文豪に対する政府や帝國図書館の姿勢は、あくまで協力を求めるにとどまるという体ではあったものの、いくら聞こえのいい台詞を浴びせられようと結局のところは「戦え、さもなくばお前の作品は失われる」と言われているのと変わらない。甚だ業腹ではあったが、その一方で、自らの手で怨敵を斬り伏せていくという経験は、中島敦にとって思いのほか爽快なものだった。生前に剣道を究めたこともなければ、化生魔性の類と遭遇したことだってあるはずもない。それがどうして、いざ書の中で剣を握り侵蝕者なる化け物と相対してみれば、この身体は自然と動くべきように動くのだった。生来あったはずの病弱さも、仮初めの肉体を得てからは嘘のように影を潜めている。思いのままに相手の胴を切り裂く手応えには、愉悦を覚えることすらあった。
そうして敵を斬り続けた結果、中島はこの図書館に集った文豪たちの中でも上位に数えられるほどの技量を持つに至った。臆病で甘ったれたあちら側の自分には武器を預ける気にもならなかったから、中島は一人で腕を磨き続けた。被使役者という立場に関しては大いに不服もあれど、己の作品を亡きものにせんとする悪逆の徒など到底赦すことはできない。だから、少なくともあの忌々しい異形どもを根絶やしにするまでは、中島はここで剣を振るい続けるつもりだった。すらりと美しい片刃の得物を、今では右手の一部のようにも思っていたくらいだ。
だというのに。
「……何なんだこのふざけた指環は。一体どうなっている」
寝台から上体を起こし、傍らに立ち尽くす女の顔を睨みつける。
補修は今しがた終わったばかり。戦いで負った傷は塞がっても、疲労と苛立ちまでは消えてはくれない。普段通りの潜書であれば、中島はそうそう被害を受けることもなく、帰還と同時にもう一人の自分へ身体の支配権を譲っていただろう。多少の痛手を喰らったときでも、治療が終わればあの男の意識を引っ張り出して、自分はさっさと休んでいたはずだった。しかし、今回ばかりはそうするわけにいかなかったのだ。
医務室に並べられた寝台は三床。埋まっているのは、自身が居座っている一つきり。認めたくはないが、此度の潜書で不覚をとったのは会派の中で中島だけだった。辛うじて心神耗弱にまでは陥らなかったものの、無様にも敵の猛攻の的となり、全身から大いに血を流させられた。これが己の力量不足のせいならば、屈辱も甘んじて受け入れよう。けれどもそうではない。そうではなかった。何度も潜り、戦い慣れていたはずの有碍書で、こんなにも情けない失態を演じた原因など分かりきっている。
「あ、あの、指環がなにか」
「……剣になるはずの書が弓に変わった。どう考えてもこいつが元凶だ」
「え」
呆気に取られたような声を出し、手套のない中島の手の一点を見つめながら女は固まった。予想通りの反応ではあったが、腹立たしさは尚更募った。
帝國図書館の司書を務めるこの女は、中島を現世に喚び起こした張本人で、アルケミストだとかいう特殊能力者だ。その珍奇な能力以外には特に目立ったところもなく、中身は極めて凡庸な女だと中島は思っている。もっとも、もう一人の自分の評価はそれとは異なっていた。あの男は、人知れずこの女に熱を上げていたのだった。
政府から預かった特別な指環で、先生方の新たな力を引き出してくれるらしいんです。なまえがそんなことを言いながら、この指に納まっている諸悪の根源をもう一人の自分に手渡していたのは少し前のこと。ぜひ中島先生に、とも添えられて、あの男は大層舞い上がっていた。新たな力といっても、それはたとえば作家として筆力が増すとかそういうことでは全くなく、単に有碍書の浄化に関する話だ。戦いに参加しないもう一人の自分にはそもそも関係のないものだったのに、そのくせなまえへの想いばかりを膨れ上がらせるあの男は、何かを期待しながらそれに指をくぐらせ、有碍書の中に身を投じた――結果がこうだ。
最初の会敵から状況は最悪だった。携えた書がいつもの剣に姿を変えることはなく、中島にもたらされたのは弓だった。これまで、我が手のようにして振り回してきたはずのものが、突如として構造も使い方も全く違う飛び道具に変容し、順応する間も与えられず中島は苦戦を強いられた。ただ狙い撃つだけならば大したことはない、けれども相手からの攻撃を弾き返す手段がないのは痛かった。近接戦なら無茶が通ったはずの局面も、間合いを詰められては避けようがない。そうして中島は満身創痍に追い込まれた。最後はほとんど矜持だけで立っていたようなものだ。
「……おかげでこの様だ。あんな武器で戦えるか」
なまえは一気に青ざめた。
この女に悪気がなかったことは理解している。なまえは愚かだが馬鹿正直な善人で、他者に害を為そうとするなどまずあり得ない。それゆえ、劇薬に等しいとも知らずにこんなものを渡してきたのだろうが、善良であることを愚かしさへの免罪符にしてやるつもりは当然なかった。好いた女からの贈り物だというだけで、手放しで喜んでいたあの男に対しても同じことは言えるけれども。
「っ、すみませんでした……! 新たな力を引き出すと聞いていたので、わたし、お役に立つと思って……」
「言い訳など要らん。とにかくこんな物、俺には害でしかない」
「……分かりました。本当に申し訳ありません。指環はお預かりします」
おずおずと差し出された手。剣を奪われたことよりも、手酷い怪我を負ったことよりも、この日いちばんに腹が立ったのは今の言動だった。
――この愚鈍が。苛立ちのまま、わざと聞こえるように舌打ちを返す。なまえは肩を跳ねさせた。
「……お前はこれを奴に押し付けたんだろうが。ならば奴から取り上げろ!」
「あ……」
たかが指環ひとつで、呆れるくらいに大喜びしていたあの男だ。自分の手の届かぬところでそれが失われたと知れば、どんなに面倒なことになるか。
「くそっ……これだから馬鹿共の相手は……」
気分は不愉快極まりないが、とにかく言いたいことは言ってやった。最早ここにいる理由はなく、後はあの男が忌々しい指環を手放して、それで終わりだ。
何もかもに嫌気が差して、中島はもう一人の自分の側へと意識を追いやった。
「あれ……ここは……」
倦怠感とともに、寝台の上で目を覚ました。
眼鏡のない視界は輪郭がぼやけているが、この部屋が医務室であることは分かる。傍らにはなまえが立っていた。きっと補修の後なのだろう。上半身を起こした状態でいることから、彼――もう一人の自分は今まで眠っていたわけではないらしい。なまえと話をしていたのかもしれない。ただ、そうだとしても穏やかな歓談などでないことは明らかだった。かすかな感情の残滓が、彼の機嫌が悪かったことを告げている。怪我こそ残っていなくとも、身体は重く節々は軋むようだった。
「……珍しいですね。彼がこんな風になるなんて」
寝台脇の小机に手を伸ばして、眼鏡を取り上げる。もう一人の自分にはなぜか発現していないという重度の近視では、そこにいるのがなまえであることは認識できても、その表情まで捉えられてはいなかった。中島は分厚いレンズを通して初めて、彼女が今にも泣き出しそうな顔をしていたことに気が付いた。
「わたしのせいなんです」
どうしたのかと問う前に、俯きながらなまえは言う。その言葉の意味が、中島にはすぐには繋がらなかった。
「……司書さん?」
「先ほどお渡しした指環のせいで、もう一人の先生の武器が別のものに変わってしまって。先生は思うように戦えなかったみたいで、ひどい怪我をして戻られました」
だから、彼女は自分のせいだと言ったのか。指元に落とした視線の先で、それはただ静かに光っている。――ぜひ中島先生に。指環を差し出しながら、なまえは確かにそう伝えてくれたのだ。力を引き出すらしいという説明が、有碍書の中でのことを指しているのは理解していた。それでも、受け取ったのは彼ではなく自分だったから。なまえは彼に手渡したのではなく、自分に向けて微笑んでくれたから。たとえ彼女に特別な意図などなくとも構わない、何があっても大切にすると、中島はそう決めていた。それを今、彼女は辛そうに見つめている。
「……まさか武器が変わるだなんて、思ってもいなかったんです。でも、そんなの言い訳にしかなりませんよね。ちゃんと初めにどんなものか確認すればよかったんですから」
本当にごめんなさい。それは、どちらに対する謝罪だったのか。項垂れるなまえに、中島は何も言えなかった。もう一人の自分は、恐らく彼女を手酷く責めたのだろう。だとしても、今の自分には謝り返すこともできない。彼がなまえに何を告げたのか、中島は知る術を持たないのだから。
「それで……こちらからお渡ししておきながら、失礼なのは分かっています。でも、その指環は一度返していただけませんでしょうか? もう一人の先生にも、これ以上ご迷惑をお掛けするわけにはいかないので……」
「……どうしてもお返ししなければなりませんか?」
「……先生?」
抗う言葉がこぼれ落ちたのは、きっと彼女が彼のためでもあると言ったから。彼女は気付いていないだろうが、それは彼だけのためだと言ったことに他ならなかった。なぜなら今の中島は何も迷惑を被っていない。身体に残った痛みなどどうだっていい。彼のために、自分が手放す。それは中島にとって受け入れがたいことだった。首肯できるものではなかった。けれどもそんな風に情けなくて恥ずかしくてみっともないことはとても口に出せない。だから必死で、繋ぎ止める術を探す。
「ひとつ教えてください。武器が変わったというのは、具体的にどんなことが起こったのでしょう?」
「……はい。先生は、いつも刀のような武器を使っていたそうなんです。それが突然、弓になってしまったって」
――弓。その名を聞いた途端に、天啓を得たような心地がした。
もともとの彼の得物が剣に分類されるものだというのは知っていた。自分と彼との違いを単に気分の高低差だと認識している吉川英治が、彼の戦いぶりについて何度も自分に賞賛を浴びせてきたからだ。やれ鋭い一閃だの鮮やかな受け流しだのといった言葉を、中島はどこか遠い世界のことのように聞いていた。剣を振り回し、敵と鍔迫り合いを演じるなど、自分にはおよそ無理な芸当だと思っていたし、それは今でも変わらない。
だが、弓ならば。
「司書さん。それが本当なら――私にも戦えるかもしれません」
「な……先生、何を言っているんですか……!?」
大きな瞳をいっぱいに瞠って声を上げたなまえは、中島がこんなことを言い出すなどとは思ってもいなかったのだろう。そして、動揺は彼女だけのものではなかったようだった。心の奥、ずっとずっと深いところのその裏で、仄かに生起したさざなみが止めろと言っている。中島はそれを、聞こえなかったことにした。
「……ずっと考えていたのです。私はここで、何の役にも立てていないと」
「そんなことありません! 戦いだけが全てじゃないです、先生は助手だって有魂書だって、あんなに協力してくださっているじゃないですか!」
「でも、私たちがここに喚ばれた目的は、有碍書の浄化のためでしょう?」
「それはそうですけど……でも、わたしは今の中島先生が戦う必要はないと思うんです。もう一人の先生だって、きっとあなたに戦わせたくなくて……」
「できることなら、私は戦いたいのです。……あなたの言う通り、戦わせてくれないのは彼の方なんですよ」
「……先生……」
なまえは言葉を詰まらせた。二人の中島の板挟みになって苦悩している彼女に後ろめたさを覚える一方で、ある種の高揚感が確かに頭をもたげてくる。これを不都合だと思うなら、止めさせたいのなら、身体を取り上げられるものなら取り上げてみるがいい。いつだって彼の思うまま意識を奪われたり押し付けられたりしている自分が、何故かこのときばかりは、抗えるだろうという確信があった。
「……ひどい侵蝕を受けて帰ってきた先生方の中には、死にたいとか殺してくれとか言うような方もいるんですよ。もし中島先生がそうなってしまったら……」
「そのときは、あなたが治してくださるのですよね。それなら私は大丈夫です」
そんなものは無用の心配だ。彼女がここにいてくれる限り、中島が死を希うことなどあり得ないのだから。
「だから……もう少しだけ、この指環は私に預からせてください」
か細い声で、分かりましたとなまえは言った。それ以外の言葉を、彼女は見つけられないようだった。中島は満足だった。新たな武器に弓が選ばれたのは、生前に著した掌編との縁かもしれない。もはや理由は何であろうと構わなかった。
寝台を下りてブーツに足を通し、なまえに補修の礼を告げて部屋を出る。静かに扉を閉めた後、誰もいない廊下の隅で、ただ一人の相手に向けて中島は呟いた。
「……僕の想いは、彼女に告げた通りです。それでもなお、あなたが僕に戦わせまいとするのなら――」
それは僕のためではなく、あなた自身のためなのではありませんか。
返ってくるはずのない答えを、中島はもう知っていた。