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May god bless us.
「神様……」
発した声のどうしようもないか細さに情けなくなる。
一日中祭壇に張り付くようにして祈りを捧げ続けたのが初めてならば、泣きそうになりながら祈ったのもまた初めてだった。
仮にも自分はシスターという神に仕える身分であるのだし、自身の信仰心に疑問を持ったことなどはないけれど。日夜捧げている祈りにこうも必死になったことがかつてあったろうかと、そう感じずにはいられなかった。
あの男が自分の前に現れない日はなかったように思う。
確かにこの教会はシアルフィ城に程近い村に位置してはいた。けれどそれにしたって、国を守るべき騎士が油を売っていていいのかと思わせるくらい、男は毎日毎日飽きもせずここに顔を出していた。
男が祈りを捧げているところも、告解をしているところも見たことがない。ただ毎日ふらりとやって来ては、それが日課でもあるかのように、ナマエにひと言ふた言憎まれ口を叩いていくのだ。お世辞にも淑やかであるとは言えないし、強情なのは自他ともに認めるところで、おまけに気が短いという、一般的なシスターとはおよそ正反対である自分が、からかいがいのある種類の人間だということは何となく分かる。だが、そういう性格であるからこそ、黙って聞き流すことなど出来ない。からかわれて噛みついて、自分だけが神父に叱られる、毎日その繰り返しだった。“じゃじゃ馬シスター”だなんてとんでもない名前を付けてよこしたのも、他でもないその男だ。
けれど放っておけなかったのは、男が時折怪我をしてくるからだった。
癒しの杖は一通り扱える。だからと言って、傷を目にしても平然としていられるというわけではない。とりわけ血を見るのは大嫌いだった。誰であろうと、たとえそれが憎たらしい相手だとしても、誰かが傷ついているところを見るのは自分にとっても苦痛だったのだ。
だから。
胸に大きな傷を作った男が、数人の騎士に担がれてここに運ばれてきた時には本当に心臓が止まるかと思った。
「……アレク、様……」
神に仕える身となったばかりの頃から、いつも言われていたことがある。
シスターは傷を癒すだけでは駄目だ。笑顔で、気遣いで、救いを求める人の心を癒さなくてはいけない、と。
そのはずなのに、救われていたのは迎える自分の方だった。
いつものように、余裕めいた笑みを浮かべながら楽しそうに自分をからかってくる、その姿を目に映すことで無意識ながらも自分は安心できていたのだ。癇に障るような言葉に突っかかりながらも、そのことがいつもと変わらない日常を自分に与えていた。
――けれども、今日は違った。
目にしたのは、苦しさに歪んだ顔だった。耳にしたのは、痛みに耐えて呻く声だった。
男の傷を塞いだのは自分だ。男が運ばれてきたのを理解するや否や、神父がいち早く自分を呼んだのだ。傷は深く、思わず目を背けたくなるほどだったが、決して治せないものではなかった。そうと分かってはいても、杖を振りかざす腕は情けないくらいに震えた。
もう数時間は眠っているだろうか。
男の命に別状はない。少し安静にしていれば、数日のうちに普段通りの訓練ができるだろう。それは治療した自分が一番分かっているのに、なぜか不安は払拭されなかった。あのいつもの自信に満ちたような笑みを見なければ、楽しそうな声を聞かなければ。傍から見れば苦笑を浮かべるだけでしかないような、くだらないような言葉の応酬がなければ、どうにも落ち着かない。
「ああ神様、どうかあの方に大いなる慈悲を、恵みをお与えください。どうかあの方にご加護をお与えください。お願いです。お願いですから……っ! もうあの方が……アレク様があんなひどい怪我をするところは見たくないんです。あの方が受ける苦痛は全部わたしが代わっても構いません。代わります、から。だから……」
もうあんなところは見たくなかった。あんな目になど二度と遭って欲しくない。
あの男が苦しむのが、嫌で嫌で怖くて仕方なかった。
「――へぇ、案外素直なところもあるんじゃないか」
まるで時が止まったかのように感じられたのは、ほんの一瞬。
背後から聞こえた声に、ナマエは弾かれたように振り返る。間違えるはずのない声の主を視認した瞬間、安堵と苛立ちの混濁したような、奇妙な感覚が身体を駆け抜けていった。
薄暗い礼拝堂の中、男は壁に背を預けて立っていた。
いつものターバンは外されたまま、少し長めの髪をかき上げて悪戯っぽく笑う。普段と全く変わらない調子で笑んでみせる男を、言葉を忘れたまま数秒見つめた後、ナマエはやっとで思い出したように口を開いた。沸々とわき上がってくる気持ちが何なのかは自分でもよく分からない。
「っ、こ、こんなところで何してるんですか!」
「そりゃ決まってるだろ、あんたに会いに来たんだ」
「……!? ふざけてる場合じゃないでしょ! 怪我人は大人しく寝ててください!!」
「心配すんなって、もう何ともないよ。あんたのおかげですっかり良くなった」
言いながら、平然とすぐ側まで歩を進めてくる。
傷は塞がったとはいえ、ふらふら出歩いたりするべきではないというのに。そもそもこの男は、周りの人間にどれだけ心配をかけたか分かっているのだろうか。いったいどれだけ、自分に心配をかけたと思っているのだろうか。
「――ありがとな。助かったよ」
男は穏やかに笑んだ。つい先程までとは違う、含みのないやわらかな笑みと神妙に告がれる言葉。
……このひと、こんな風にも出来るんだ。
率直に思い浮かんだ言葉はそれだった。男を見知って以来、初めて見る表情に面食らってしまう。素直なところもあるんじゃないか、と、男の台詞をそのまま返したいくらいに。こんな態度をとられては、どうにも調子が狂うではないか。ただでさえ、怪我人相手だということを考慮して、熱くならないように気を遣うなどと慣れないことをしていたというのに。
「べ、別にそれは……仕事だっただけ、で、それより、だから安静に……」
「……やっぱり、神様だけのものにしておくには惜しすぎるな」
「え?」
呟かれた言葉の意味を把捉出来ないまま、身体が引かれた。
顔は男の肩の辺りに押し付けられる形になり、背には両腕が廻される。抱きしめられたと気付いた時にはもう、心臓は早鐘を打ち続けていた。
我に返って逃れようとするけれども、怪我のことを考えれば本気の抵抗など出来るわけもない。たとえ出来たところで、騎士を相手に力で敵うはずもなかった。
「やだ、なに、して……っ、神の御前で、こんな、」
「堅いこと言うなって、きっとお許し頂けるさ。それとも、あんたが信じてるのは愛し合う二人を引き裂くような神様なのか?」
「あ、愛……!?」
身体が僅かに離される。
深緑の瞳に、ひどく真剣な眼差しで見つめられた。もう今度は、彼らしくないなどと思う暇さえない。
「そうだろ、シスター・ナマエ。俺はあんたを愛してる。そして、あんたは俺を愛してるはずだ」
……違うか? だなんて。
どうしてこの男は自分をかき乱すようなことばかりするのだろう。いつもいつも自分のことを馬鹿にしてばかりで、そのためだけに毎日毎日こんな教会までにやけた面を晒しに来て。そのくせ、今日は死にそうになりながら運ばれてきて。そのせいであんな思いをさせられたではないか。
助けることはできると分かっていたのに、失ったらどうしようかと思って怖かった。男のいない日常など考えられなかった。あのいつもの、自分が一方的に劣勢に立たされるだけの言葉の応酬がなければ、一日は始まらないし終わらなかった。
本当に、どうしようもなかったのだ。顔を見なければ、声を聞かなければ。余裕たっぷりの笑みで、ナマエ、と名を呼んでくれなければ、おかしくなりそうなくらいに。
自分でも、訳が分からなかった。
まるでそうすることしか知らないかのように、目の前の温かな緑へとナマエは縋るようにして抱きついた。
「泣くなよナマエ、あんたを泣かせたら神様に嫌われちまう」
「なによ……! 全部アレク様が悪いんだから……!」
「……そうだな。こんなになるまで惚れさせちまった俺が悪……ばか、痛いって、本気で叩くなよ!」
――願わくば、我らに祝福の多からんことを。