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Dear his brother-to-be
すっかり静かになってしまった城内の空気には、まだ慣れない。
テラスから見下ろす中庭それ自体は以前と何も変わってはいないけれど、そこで誰かしらが休んでいたり談笑していたりする光景は、今ではあまり見られなくなってしまっていた。
多くの兵たちをイザークへの遠征に送り出して、城に残っているのはごく僅かな者たちだけだ。
このシアルフィだけでなく、帝国中の諸侯が主力の騎士団を連れて出撃していたから、グランベルの守りは正直なところ少し心許ないものだと思う。それでも現在のところは大きな問題もなく、これまでと変わらない平穏が保たれていた。
昼下がりの空には雲ひとつ浮かんでいない。鳥のさえずる呑気な声に、知らず知らず溜め息が落ちた。
東では今も戦争、それも自分たちの国が一方の当事者であるそれが起こっているというのに。ともすれば人々がそのことを忘れてしまいそうなくらいに、この場所は穏やかだった。
別に刺激が欲しいだなんて言っているわけじゃない。平和であるならそれ以上のことなんてないと思っているし、騎士として叙勲を受けた身ではあってもわたしは元々戦いなんて好きではないのだ。ただ、こうしてあまりにも安穏とした日々を過ごしていると、余計に戦地のことが思われてしまうのだった。
「綺麗なお嬢さん。溜め息ばっかり吐いてると、幸せがどっかに行っちまうぜ」
後ろから聞こえてきた足音に振り返る前に、そう声を掛けられる。
お約束の戯れ言にわたしは振り向くのをやめた。こんな口を利く人間なんて、今やこの城には一人しか残っていない。
「まあ、美人の憂い顔は画になるけどな」
すぐ隣にまでやって来るなり、この男――アレクはわたしの顔を覗き込むようにしながらそんなことを続けた。相変わらず不躾な男だ。褒め言葉の大安売りをするのは結構だけれど、どうせなら喜んで買ってくれるような人を相手にすればいいと思うのに。
「……またそんなことばっかり言って」
大体、綺麗なお嬢さんだなんて、仮にも騎士の端くれである人間に言うことなんだろうか。
この男にとっては挨拶のようなものなのかもしれないけれど、言われ慣れないうちはわたしも顔を赤くしながら、からかってくれるなといちいち噛みついていたこともあった。そういう反応を面白がられていた、ということは今ではなんとなく理解しているけれど、適当に聞き流すようになってからもお構いなしで、結局この男はいつもこんな調子なのだった。一度くらい、真面目すぎる相方の爪の垢でも煎じて飲んでみたらどうなんだろう。
「将軍のことでも考えてたのか?」
……そのくせ、妙に鋭いのがこの男の厄介なところだった。
彼の言ったのはまさに図星で、将軍というのはわたしの兄のことだ。今はバイロン様と共に遠征軍に加わっている。
「心配しなくても大丈夫さ。将軍の武勇はお前が一番知ってるはずだ」
「……それはそうだけど」
イザークでの詳しい戦況は、まだ伝わってきてはいなかった。
各公国から兵を集めた帝国軍はかなりの大所帯なのだし、王子殿下の信任厚いバイロン様はさぞお忙しいことだろうから、頻繁に連絡を寄越せるわけでもないんだろう。でも、頭ではそう分かっていても、やっぱり心配なものは心配なのだ。
「あんな勇敢な騎士はなかなかいないぜ。蛮族なんかに遅れをとるわけがないだろ」
「分かってるわよ。でも……」
確かに身内の贔屓目を抜きにしても、兄はグリューンリッターの中でもかなりの使い手だし、バイロン様からも頼りにして頂いている。一人の騎士として、目標にすべき存在だと思う。
けれどもいくら力量に優れているからといって、いつでも無事でいられる保証なんてどこにもありはしないのだ。
「……わたしも行けたらよかったのに」
まだ幼い頃に両親を亡くしたわたしたちには、お互いがたったひとり残された血の繋がった家族だった。
だからもし――本当はこんなことなんて考えたくはないのに、もし兄を失うようなことになってしまったら、という恐怖は時々こうして頭をもたげてくる。兵として戦場に立つ以上はいつ何があってもおかしくないのだし、その覚悟が全くできていないというわけではないけれど。何より恐ろしいのは、わたしの手の届かないところで――わたしが側にいられない場所でそうなってしまうこと、だったから。
「ナマエ、気持ちは分かるけどな」
彼のおどけた調子は、いつの間にか引っ込んでいた。
「将軍がお前を連れて行かなかったのは、妹を危ない目に遭わせたくなかったからじゃない。お前になら、安心して城の留守を任せられると思ったからだ」
自分たちは実力を買われてこのシアルフィに残された。だからこそ、騎士団の帰還までは何があっても城や民をしっかり守り通す責任がある。アレクはそうも言う。
それは確かにその通りで、仇討ちの出兵の間に本国が脅かされるようなことにでもなれば本末転倒だ。城に残ったのは本当に僅かな数だけれど、裏を返せばわたしたち一人一人がそれだけの信頼を受けているということに他ならない。わたしたちなら大丈夫だと、国に残ってシグルド様をお助けするのに不足はないと思ってもらえたからこそ、わたしたちは今こうしてここにいる。
「みんなの帰る場所は、言わば俺たちに託されているんだぜ」
「……うん」
だからこれはただの気楽な留守番じゃない。注がれた信頼には、応えなければならない。
そうだ、今でこそ平和だけれど、いつどこで誰が良からぬ心を起こすとも限らないんだから。気を抜いていてはいけなかったのだ。
他人の身を案じている暇があったら、自らの務めを果たせ。あの兄ならばきっと、そんなことを思っているに違いない。
「あんまり思い詰めるなよ。将軍にとってもお前は唯一の家族なんだ。お前が待っていると思うからこそ、あの人だって向こうで頑張れるってもんさ」
その言葉に頷いた時には、もうすっかり心が晴れていた。
普段は軽口を叩いてばかりで、一見おちゃらけ者のように思わせるくせに、こういうところばかりは本当にこの男にはかなわない。
「……ありがと」
なんとなく気恥ずかしくて視線を逸らしつつそう言ってみたら、隣からは小さく吹き出すような笑い声を返されてしまった。
「……けど、そうは言っても内心じゃあ将軍も気がかりで仕方ないだろうな」
何やら含みのある声に目を戻せば、そこには悪戯っ子のような笑みが浮かんでいた。
「なんたってこんな可愛い妹を一人にしてるんだ、知らない間に悪い虫がついちまうかもしれないだろ?」
言うが早いか肩を抱かれる。
せっかく感心したところだったのに、この男ときたらまたすぐこんな調子なんだから。
「……もう、ふざけるのも大概に……」
「ふざけてなんかいないさ」
そのままぐいと引かれて、後ろから抱きすくめられるような形になってしまった。
「ちょっと……!」
慌てて身を捩ってみるけれども、胸の前でしっかりと腕を組まれてしまって簡単には抜け出せそうにない。誰かに見られでもしたらどうしてくれるのだ……と非難がましい気持ちが一瞬頭を過ぎって、でもそうなったところで、どうせ「またか」と笑われてしまうだけだということに思い至る。
……そんな状況になるまで放っておいて、今なおそれに甘んじているわたしの方にも、責任がないとは言えないのかもしれない。
「安心しろよ、将軍のいない間は俺がお前を守ってやるから」
抗議の声なんて気にも留めず、アレクは微妙に話がつながっているような、いないようなことを言い出す。そもそも守るって、いったい何から。敵から? 危険から? それとも彼の言うところの悪い虫から、だろうか。でもこの場合、それに当たるのは他でもなくこの男のような気がするんだけど。
「違うでしょ、あなたもわたしもシグルド様をお守りするの!」
「シグルド様も守ってお前も守る。それで文句ないだろ」
自信満々といった風で、そう言い切られてしまう。
それでも素直じゃないわたしは、もしシグルド様とわたしが同時に襲われたらどうするのよ、なんて可愛げのないことを心の中で言い返してしまうのだ。
「……ああ、でもやっぱり将軍には早く帰って来ていただかないと駄目だな」
「……?」
閉じ込められたまま、その言葉の真意を質そうと首を後ろに捻ってみる。視線がぶつかると、男は心底楽しそうな顔で片目を瞬かせてみせた。
「そうじゃなきゃいつまでも、『妹さんを俺にください』って言えないだろ?」
自分が何を告げられたのかを理解した瞬間、一気に飽和した恥ずかしさが音を立てて爆発した。
「いい加減にしてよ!!」
力に任せ、暴れるようにしてなんとか男の腕を脱する。勢いよく振り向いてその顔を睨みつけてみても、アレクは笑みを崩さないどころかますます愉快そうだ。
文句の一つや二つでは足りないくらいだったけれど、頭が沸騰しているせいかうまく言葉が出てくる気配もなかった。だからといってただ黙ってもいられなくて、やり場のない羞恥に突き動かされるままにわたしはつい手を上げた――のだったが、さすがは素早さを生かした戦いを得意とするこの男で、それはひょいと軽々躱されてしまった。
「修行が足りないんじゃないか?」
「うるさい!」
「まあそう怒るなって。それが必要なのは俺も同じさ」
――何しろ未来の義兄上様に認めてもらわなきゃならないんでね。
また懲りずにそんなことを言うせいで、わたしの頭は再び回転を止めてしまった。そしてそんなわたしを尻目に、アレクは「そろそろ訓練といくか」と屋内の方へくるりと向きを変える。
「……あの人のことだ、『私よりも弱い男にナマエはやらん』なんてことも言い出しかねないからな」
こいつはかなりの難敵だ、だとか何とか呟きつつ、軽く上げた片手をひらひらと泳がせながら彼は回廊の奥へと消えていったのだった。
「……まったく」
ようやく落ちついた熱の残滓を逃がすように、小さく息を吐く。
といっても今度のそれは、"幸せがどっかに行っちまう"ようなものとは少し種類が違った。
アレクが最後に言ったことは、冗談にしては現実味がありすぎて笑ってしまう。確かに兄ならあんな台詞を口にしても――それはそれで恥ずかしいけれど――何もおかしくはないような気がする。
認めてもらえるくらいに強くなれるかどうかは、これからの彼次第、というところだけれど。
「……ねえ兄さん、あの人はどう?」
遠い異国で戦う人へ送るにしてはあまりにも能天気な言葉を、風に乗せてみる。
――わたしはね、そんなに悪くはないんじゃないか、って思うんだけど。