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落花流水
ひどく幸せな夢を見ていたような、そんな気がした。
それがどんなものだったのか、自分が何をしていたのか、内容らしい内容はほとんど思い出すことが出来ないのだけれども。それでも確かに――確証はないが、確信はあった――夢の中で何度か、自分の名が呼ばれるのを聞いたのだ。
「……」
どれくらいの間眠っていたのだろうか。
執務の途中で意識を失ったらしく、今こうして気が付くまでは机に伏せっていたというこんな有様では、自分とほぼ時期を同じくして爵位を継いだオスティアの盟友に笑われてしまうかもしれない。
ゆるゆると半身を起こすと、知らぬ間に掛けられていたブランケットが肩から滑り落ちた。
――ふわり、花のように甘い香りを感じたのはその時だった。
よく知った、自分の好きな香り。馬を並べて歩く草原に風が吹けば、仄かに運ばれてきていた甘さ。それが彼女のものだと知ったのはいつだったろう。香気に呼び覚まされたように目の裏へと鮮烈に浮かび上がった、焦がれて止まない相手の姿に青年は溜め息を吐いた。
爵位継承を機に、彼女と自分との距離は遠くなっていた。
あるいは行軍の間に傍に居すぎたのかもしれない。戦いが終わってからは、とにかく顔を合わせる機会が減った。戦乱がないのは喜ばしいことだが、そうなると自身は時間の大半を領主館の中で政を執っていることになる。そんな自分を常に傍らで護衛する必要がない以上、騎士である彼女は領地の巡回や訓練、そしてエルバートの失踪と共に精鋭を失ってしまったフェレ騎士団の再建に腐心しているのだった。
ただ、問題なのは物理的な距離だけではなかった。
時間を見つけては彼女の姿を探しに行くものの、ナマエは立場がどうと言っていつだって自分から一歩引こうとするのだ。一年前はあれほど近くで支えてくれたではないかと言えば、戦時ゆえに無礼を働いてしまったことをお許しくださいなどと謝り始める始末だった。
父を失い、一度は竜の娘を失ったかとも思った行軍、誰より自分を支えてくれたのは他でもなくナマエだったというのに。
あれから想いは変わらないどころか募るばかりだというのに、聡明なはずの彼女は少しも気付いてはくれなかった。
「……参ったな」
残り香は未だに消えていかない。
鼻腔を擽られるほどに、会いたい気持ちが掻き立てられる。中途半端に残った仕事を後回しにすると決めるのに、時間はかからなかった。
眠っていたことが悔やまれるが、彼女がここを訪ねてきたのなら何か用があったのだろう。それに、たとえそうでなくても構わない。
ただ自分が、彼女に会いたくて仕方がないだけなのだから。
***
「ナマエ」
探していた影は、屋上の展望台に佇んでいた。
訓練場に行けば彼女は非番だと言われ、騎士舎へ向かってみてもそこに姿は認められず、もしかするとと思って足を運んだ先。声をかけると、ナマエは弾かれたようにこちらを振り向いた。その所作に合わせて彼女の髪が揺れる。後ろに広がる空は、茜色に染まりつつあった。
「エリウッド様!?」
自分の姿を認識した途端に、彼女は両目を見開いた。そのあまりの驚き様に、つい苦笑がこぼれてしまう。
「僕がここに来るのは、そんなに驚くようなことかい?」
「い、いえ、そういう訳では……。ですが、いかがなさいましたか……?」
「ただの休憩だよ」
言いながら、彼女の隣まで歩みを進める。
「……けど君には、休憩してばかりじゃないか、って言われてしまうかもしれないな」
「え?」
「さっき、部屋まで来てくれていたんだろう?」
頷いたナマエは、どこか決まりの悪そうな表情を浮かべた。
生真面目な彼女のことだから、自分の許可を得ないままに部屋へ立ち入ってしまったことを恥じているのかもしれない。そうして残していった微かな痕跡が、ここまで自分を焚きつけたのだとは知らずに。
「……何故お分かりになったのですか?」
「さあ、どうしてだろう」
「もしかして、起きていらっしゃったのでは……!」
どうにも大げさに慌ててみせるナマエに、首を横に振って答える。狸寝入りなど、こちらは目が覚めなかったことが口惜しいほどなのだ。
「まさか。起きていたなら君を引き止めているよ。……君の方こそ、起こしてくれたら良かったのに」
「エリウッド様はお疲れのようでしたから」
困ったように笑って、彼女はそれきり黙ってしまった。
自分を気遣ってくれるところは、今も以前も変わってはいない。
彼女の優しさに触れることは純粋に嬉しいと思う、けれど。
足りないのだ。
不満というのとは、きっと少し違うのだけれど。それがあるとするならば、ただひたすらにこの現状がもどかしい――……
(……今日に限って、どうかしてるな)
まるで香気に中てられたかのようだ。
彼女を困らせるようなことはしたくないと思いながらも、膨れ上がる感情を持て余している。今すぐ手を伸ばして捕まえてしまいたいなんて、そんなことばかりが頭を過ぎる。
「……あの、エリウッド様」
静かに告げられた声で、我に返った。
「爵位を継がれて、今まで以上に大変なご困難もお有りだと思います。でも、微力ながらわたしは、ずっとあなたにお仕えするつもりですから」
真っ直ぐな瞳を向けられた瞬間、空気が揺れて木々の葉がざわめきだした。それが何かの合図であるかのように。
彼女の言葉は、忠臣としてのあるべき姿そのものだ。
――けれども、自分が望んでいるのは。
「……それは臣下として、かい?」
「……、もちろんです、」
ナマエは明らかに動揺してみせた。
何故そんな事を訊いたのかは自分でも分からない、ただ勝手に口を衝いて出た言葉だったが、意識の端ではもう止まることの出来ないような気がしていた。
「……それじゃあ困るな」
一際、強い風が吹く。
戦場とは違う、隙だらけの肩を引き寄せて閉じ込めることは容易かった。
「え、エリウッド様っ!?」
「ナマエ、僕は」
足りないと思った。どうしようもなく。
届く場所にいるはずなのに掴めない、その感覚が疎ましい。
「臣下としてじゃなくて」
肩口に顔を埋めれば、いっぱいに広がる甘い香。
いつしか霧散してしまうことのないように、この腕に閉じ込めてしまえるならば。
「そうじゃなくて、僕の大切な人として」
顔を上げた。
間近で、視線が交錯する。
今までに見たことのないような頼りない表情をして、それでもナマエは目を逸らすことはしなかった。
潤んだ瞳の中に微かな期待を見て、そして思い出す。
自室で目を覚ますその前、花のような香りに包まれた夢の中で、彼女に触れることが叶ったのではなかったか。
「……エリウッド様、わたし」
鼓動が聞こえる。
重く刻まれる音に、自分のそれも確かに同調していた。
「君がずっと傍にいてくれたら、僕はそれだけで、」
互いに、それ以上の言葉は無かった。
ナマエは静かに目を閉じる。それが他ならぬ答えなのだと思いながら、震える唇をそっと塞いだ。