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祈りにも似た
目の前に広がった光景を、一体誰が信じられたというのだろうか。
魔の島に足を踏み入れた自分たちを待っていたのは、物言わぬ姿となったオスティア屈指の密偵だった。
空気は凍りつくように冷たい。
胸を引き裂くような痛みと憎しみとで、息が詰まりそうだ。握りしめた手を震わせながら、目にこみ上げて来そうになるものを唇を噛んで必死に堪える。今泣いてはいけない、一番泣きたいのは自分ではないのだ。そう、何度も言い聞かせた。
「レイラは、仕事でドジった。……それだけのことですよ」
いつもの調子を装ったつもりの笑みは、誰が見ても綻びだらけでいっそう心を痛ませた。
オスティアには長く仕えてきたけれど、彼のあんな顔は見たことがなかった。それは傍らにいる主君も同じだろう。いつだって、明るくおどけたような調子で自分たちを笑わせてくれるのが彼だったのだから。
……こいつ、弔ってやんねーと。
言いながら、マシューは恋人の亡骸をそっと抱き上げる。
そのまま歩き始めた、まるで背で泣いているかのような後姿をただ見ているしか出来ないでいると、未だ震えたままの手が急に強く引かれた。
「……ヘクトル様……?」
「……ナマエ。ちょっと来い」
答える間もなかった。手を引かれるがままに、男の後を追従する。
誰にも何も言わずにあの場から抜け出してきた自分たちではあったが、周りは周りでそれを気にしていられる状態でもなかったのだろう。少し離れたところまで来て、ようやく男の手が解かれる。掴まれていた手首が痛かった。
「ナマエ」
名を呼ばれるや否や、ナマエの身体は男によってぐらりと傾がされた。
抱き寄せられたというよりは、力任せに引っ張られたといった方が正しいかもしれない。さっきまで手を掴まれていた時とは比べ物にならないくらいの、ひどく強い力で以て身体が拘束される。まるで逃がさないとでもいうかのようだった。骨の軋む音まで聞こえてくるのではないかと思う。実際にそれくらいの痛みは感じていた。それを訴えようという気にはならなかったが。
「ナマエ、お前は、」
――お前は、死ぬな。
思わず息を呑む。その音で空気が震えた。
驚いて主君を見上げ、再び言葉を失ってしまう。なんて顔をしているのだろう。
「絶対に、何があっても死ぬんじゃねぇ」
「ヘク、トル……様、」
「俺が死なせねぇ。だから傍から離れんな」
命令のように、男は言い募る。身体越しに伝わる鼓動は決して速くはない。ただ、ずきりとした痛みにも似たそれはひどく重く響きを残していた。生きている証の心音。生きている証の温度。恋人を失くした同僚の背中が目に浮かんで、堪えていた涙がつい零れそうになった。
どうしようもなくて、ナマエは男の肩に恐る恐る手を添える。意識の外側で、細い指がその服に食い込んでいった。力を入れすぎて白くなった手が、小刻みに震える。男の身体も同じように震えているのかもしれなかった。
「俺の傍にいろ」
「いなくなったりしたら、許さねぇ」
「だから離れねぇって誓え」
耳元に聞こえる声がひどく苦しそうで、とうとう瓦解してしまった堰が視界を歪ませる。
――誓います。絶対にお傍を離れたりなどいたしません。
そう答えたかったけれど声が出なかった。もしも自分の身に何かがあったとき、男がどんな顔をするかと思うと本当に苦しかったのだ。今だってそうだ。命を奪われてしまったレイラと、置いていかれたマシューと、二人分の痛みを背負って、悪いわけでもないのに主君は自分を責めている。
「ナマエ、お前は……お前だけは、」
絶対に死ぬんじゃねぇ。
何度も何度も繰り返し、男は言う。今まで与えられたどんな任務よりも、それが自分にとって至上の命である気がした。
「……頼む。傍にいてくれ、」
ナマエ。
縋るように名を呼ばれる。
霧の立ちこめた薄暗い樹海の中で、互いの鼓動と息遣いだけが聞こえていた。揺れる蒼色の瞳に悲愴を見たあとは、もう自分は言葉すら持たない。ただ、今すぐに男の中からそれを拭い去ってしまいたいと、それだけを考えていた。
震えるつま先で、なんとか身体を持ち上げる。
――離れたりしない、死んだりしない、ずっと傍にいるから。だからお願い、もうそんな顔はしないで。
言葉にならない声の届くようにと、ナマエは静かに男の唇へと触れた。