Aa ↔ Aa
Don't cry sweetheart.
小鳥のさえずる声に、男は目を覚ました。
辺りはぼんやりと薄明るい。いつもなら、目覚めた時には軍の大半の人間が起きていて、食事の支度をする音やら装備を整えたりする音やらで騒々しいはずだった。それが聞こえないまま小さな鳥の声が自分を起こしたあたり、今はまだひどく早い時間なのだろう。
何となく、身体に気だるさを覚える。
寝返りを打ちかけた瞬間、脇腹の辺りに鋭い痛みを感じて思わず目を強く閉じた。身体を横向かせたところで動作を一旦止め、静かに呼吸を整えてから、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
薄く開かれた瞳は、そこでようやく傍らに眠る彼女の存在に気がついた。
「……ナマエ?」
何故彼女がここにいるのだろう。
どう見ても、今横になっているのは自分がいつも使っている天幕の中だった。……まさか昨晩、自分と彼女との間に何かがあったのだろうか。浮かんだ考えを、ホメロスは即座に否定した。仮にそうだとしたら、自分の身体にだけ夜着が掛けられているというこの状況はおかしいし、そもそも彼女とはそういう関係どころか甘い雰囲気にさえになったことがない。そうならないようにしていたのは、他でもない自分自身なのだから。確かに女遊びの止められない自分ではあるけれど、だからこそナマエのことだけは、不特定多数の一人にはしたくなかったのだ。
「なんであんたがここに……、……ッ!」
口を開きかけた途端、再び脇腹に痛みが走った。反射的に目をやれば、そこには包帯が巻かれてある。そっと手で触れてみると、不自然に隆起したような感触があった。
……いつこんな怪我をしたのだったか。
ぼやけた頭でなんとか記憶を手繰り寄せるようにして暫し、ようやく抜けていたその部分が次第に戻ってきた。
ターラの街で軟派した美少女に頬をぶたれた揚句に泣かれて、成り行きでリーフ軍に加わることになった自分。
けれどその割には、当の自分でさえも意外なほどにしっかり働いているように思う。少なくとも給料泥棒などと言われるようなことは断じてないだろう。身体は強い方ではないと言っておいたはずなのに、何故だか前線に出ることも少なくなかった。
そんな自分と共に、剣士として前線で戦っていたのがこのナマエだった。
女の身と言えども、兵の多いとは言えないリーフ軍では彼女も貴重な戦力として数えられていた。だが、それでもやはり男と比べて体力が劣るのは致し方ないことである。何かと無茶をしてばかりなその性格からいっても、おそらく常から疲労を溜めがちなのではないかと思われた。
そんな彼女を狙って、敵の矢が飛んできたのが先の戦いだった。
その時は彼女も含め、皆それぞれが目の前の敵との戦いに集中していて、放たれた矢に気付いた者は自分以外に誰一人いなかった。
――間に合わない。そう思った時には、既に身体が動いていた。
「……なーにやってんだか、」
誰だって命は惜しい。
そう言って、世話になった町を見捨てて去ろうとしたシャナムを引き止めなかったのは自分だというのに。
傷に響かないよう、片腕を支えにしながらゆっくりと身体を起こす。
小さくなって眠るナマエの向こうには、包帯と傷薬の袋が転がっていた。傷の手当ては彼女が施してくれたのだろう。
寝息に合わせて静かに上下する身体に、夜着を掛けてやろうと近付く。間近で見た顔に、黙っていれば件の美少女ともいい勝負が出来るのではないかと思ったのも束の間だった。
気付いてしまったのだ。彼女の頬に残る、一筋の跡。
「……泣いてたってのかよ」
思えばあの戦いの時、太陽はちょうど真上にあったような気がする。そこで気を失ったとなれば、ほぼ丸一日を意識のないまま過ごしていたことになる。それほど長い間目を覚まさずにいる自分を彼女が心配するのも無理はなかった。それが庇われた相手ならば尚更そうだろう。
「俺も罪な男だねえ、まったく」
……女に泣かれるのは苦手なんだけどな。
今まで何人もの女の涙を見てきた自分ではあるが、痴情が原因のそれには心を動かされることもなかった。けれど、ナンナの時もそうだったが、純粋に流されたそれに関しては本当に弱いのだ。
床に投げ出された手をそっと拾う。
手の甲にはもちろん、指先にまで細かな傷がたくさん付いていた。
剣を握って戦っている彼女にしてみれば、それくらいは当然なのかもしれない。けれども行きずりの関係を持った酒場の女や踊り子たちの誰もが、一様に白く綺麗な手をしていたことを思い出すと、何だかやりきれないような気分になった。
「……嫌んなっちまうぜ、戦争なんてよ」
独り言ちた声色があまりにも鬱屈としていて、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
彼女が戦わずともよくなる日は、一体いつになれば来るのだろうか。
こんな戦争などさっさと終わらせてしまって、彼女が女らしく着飾って笑えるような日が早く来ればいい。大義もなしに参加したこの戦いだったけれど、その為に力を使うのも悪くはないかもしれない。そう思った。
疲れのせいか色を失った頬に、優しく口づけを落とす。
ナマエは微かに身じろいだが、目を覚ますことはなかった。
「守ってやる、……なーんて言えねえよなぁ」
その台詞は、いつか彼女よりも頑丈になるその時まで取っておかねばならない。
今はただ、ぐっすりと眠るその髪を静かに撫で続けるのみだった。