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ベルスーズ

 ぱちぱちと、篝火の爆ぜる音がする。
 野営地にはいくつもの火が焚かれているが、自分が佇んでいるのは中心にある大きなそれの傍らではなく、端の方で小ぢんまりと燃えている火の前だ。夕食を終えて少し経ったという今の時間では、身体を休めるのにはまだ少し早い。今日のように行軍のない日では、各々が割合自由に過ごしているという頃だった。
「よう」
 だから、後ろから掛けられたその声は自分にとって意外なものだった。
 今自分の後ろに立っている男こそ、貴重な自由時間を存分に楽しんでいる者の最たる例ではなかったか。ここぞとばかりに女に声をかけていそうなものを、一人でこんな陣営の端をふらついているだなんて珍しい。
「……どうしたの? ホメロス」
 男の方を振り向いて尋ねてみても、ちょっとな、と曖昧な返答しか返ってこない。眉を顰め、そのまま視線だけで問い直せば、
「お前が寂しそうに座ってるからよ、構ってやろうと思っただけさ」
 お得意の軽口である。
 吟遊詩人ゆえか、会話運びの上手いこの男に今のような調子でまんまと乗せられた女が数多いことをナマエは知っていた。解放軍に身を投じる前までターラの酒場で働いていた自分は、もう毎日のようにその光景を目にしてきたのだ。
「馬鹿言わないでよ。どうせまた誰かから恨みでも買って、逃げてきたんでしょ?」
「おいおい、俺をなんだと思ってんだよ! ったく、相変わらず可愛くねえ奴だな」
「あんたみたいな女たらしに遊ばれなくて済むんなら、可愛くなくて結構だけどね」
 やれやれといった体で溜め息を吐きながらも、男はナマエの傍らに腰を下ろした。
 ちら、と横に目をやる。本当に恨みを買って逃げてきたのかどうかは分からないが、彼はこのまま自分を相手に暇つぶしをするつもりらしい。
 ――悪い気はしなかった。
 それどころか、むしろほっとしたような気がする。思えば、軍に入った時からの知り合いはこの男だけだった。だからかもしれない。軟派な性格はやはりどうかと思うのだが、気の置けない相手であることは確かなのだ。

 酒場で働いていた頃から今まで、ナマエが男の遊び相手の候補に上がることはなかった。
 それはそれで釈然としないものが残らないわけでもないが、仮に男に誘われていたとしても、毎日の放蕩ぶりを目にしていた自分は間違いなくそれを突っ撥ねていただろう。不特定多数の一人になるよりも、遠慮なく憎まれ口を叩きあえる間柄が楽しかった。ただ、それも男が町を出ていくまでのことだとは思っていたのだけれど。
 寂しくないと言えばきっと嘘になったのだろうが、彼が吟遊詩人である以上は仕方のないことだった。それに、ナマエ自身も帝国の包囲を受けた町には見切りをつけつつあったのだ。リーフ率いる解放軍がターラへ向かっているという知らせを聞いてからは、自分も町を出て軍に志願しようと決めていた。武器を持って戦うことは出来なくても、何か手伝えることがあれば、と。帝国の占領下で暮らすくらいなら、いっそ出て行った方が自分にとっては余程ましだったのだ。
 まさか解放軍でこの男と再会するとは思ってもみなかったのだが。もしかすると、これも何かの縁なのかもしれない。

「なあ」
「何?」
「お前、寝不足なんじゃねぇのか?」
 目の下に指を当ててみせながら、男が言った。
 隠すつもりもなかったから構わないのではあるけれども、目の下に出来た青黒い隈は暗い中で焚かれた篝火の明かり程度でも見て取れるものだったらしい。
「……まあ、ね」
 特別悩みや心配があるというわけではない。
 ただ、軍に身を投じて以来慣れないことばかりが続いて、落ち着く暇もなかったように思われた。戦わないからといって、任される仕事が甘いものだとは思っていなかったが、大して鍛えられてもいない身体には覚悟した以上に応える。そうして疲労が溜まっていく一方で、身体を横たえても何故だかなかなか寝付けずにいた。男の言ったように、十分な睡眠を取れていないことは確かだった。
「そんなに忙しいのかよ」
「ううん、そういうんじゃなくて。ただ、最近ちょっと眠れてないだけ」
 ふーん、と考え込むような素振りを少しだけ見せたあと、男は思いついたように笑みながらこう言った。
「俺が眠れるようにしてやろうか?」
「いりません!」
 ナマエにとってみればそれなりに深刻な問題ではあるのだ。それをいちいちからかってくれるなと言わんばかりに即答したのだが、男の方は何故だかきょとんとした反応を見せる。その数秒後、彼は盛大に吹き出した。
「バカ、違うって、そういう意味じゃねえよ。……ま、そっちがいいってんなら俺は大歓迎だけどな」
 それならどういう意味だというのだ。
 誤解した自分も自分かもしれないが、そうさせたのは男の素行のせいだ。必死になって心の中で言い訳をしてみるが、そういう思考をしてしまったという事実は拭えない。この恥ずかしさと悔しさをどうしてくれようかと、つい男に向かって手を上げかけるも、腹いせの一撃は丁度立ち上がった男にあっさりと躱されてしまったのだった。
「ちょっと!」
「いいから待ってろって。すぐ戻って来るからよ」
 そう言い残して天幕の方へ向かっていった男だったが、言葉通り本当にすぐに帰ってきた。
 先程までと違うのは、彼が片手にあるものを携えているということ。
「……竪琴?」
「ああ。なんてったって、俺の本業はこいつだしな」
 再び地面に腰を着けると、音を確かめるように数本の弦を爪弾く男。
 響くのは、聞き覚えのある音だった。ターラでは酒宴の日々を送っていたこの男だったが、彼が詩を披露しているところに何度か自分も居合わせたことがある。あいにく忙しく働いていたナマエはじっくりと聴くことも出来なかったのだが、それでも澄んだ音色は耳に届いていた。
 久しぶりのそれは、懐かしさをひどく揺さぶる。
「一曲聞かせてやらないこともねえ。……けど、高くつくぜ?」
「何よ、お金取ろうっていうの?」
「そうだな……、じゃあ特別に、キス一回で勘弁してやるよ」
 茶目っ気たっぷりに片目を瞬かせる男に呆れつつも、ナマエの口許には自然と笑みが浮かんでくるのだった。
「……まあ、内容次第では考えてあげないこともないけど」
「おっ、言ったな?」
 男の奏で始めた旋律に、目を閉じて耳を澄ませる。
 今夜はきっと、穏やかに眠れるような気がした。

リクエスト「ほのぼの」より
2009.10.14

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