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ひかりの在る場所
夢を見ていた。
眠りの中にありながらも、「これは夢だ」とはっきり分かる種類の夢。こういう時は、総じて悪夢と決まっていた。
一筋の光もない、真っ暗で凍えるような闇の中をたった一人走り続ける自分。その後ろからは無数の影が追いかけてくる。寒さと恐怖に叫び出しそうになりながらも、ひたすら走って走って。何度も転びながらも、必死で起き上がってはまた逃げ続けて。
けれどもいよいよ追いつかれて、氷のような手に肩を掴まれたとき。
振り向きざまに、背に携えていた矢を一本取り出して思いきり前に突き出した。肉に鏃の突き刺さる生々しい感触が手を震わせる。耳をつんざくような悲鳴に身体中から力が抜けてしまって、矢を引き抜くことも出来なかった。まだ温かさの残る血が、矢身を伝って自分の手を赤く染めていく。毒々しいまでに鮮やかなその色に思わず目を閉じれば、今度は断末魔の悲鳴が束になって襲いかかった。
いやだ、やめて、たすけて、こわいこわいこわい――……
「――ッ!」
声とも言えないような自分の声にようやく目を覚ます。
安堵のような溜息が自然とこぼれ落ちていった。悪夢に苦しめられるのはこれが初めてではないけれど、慣れることが出来るようなものでもない。
未だに恐怖を引きずったまま速い鼓動を打つ心臓を落ち着かせるように、ナマエは数度深い呼吸を繰り返した。そっと起き上がれば、嫌な汗が背中を伝っていく。隣で眠っている仲間を起こすことだけは避けられたようだった。
血と憎しみと、死と痛みに塗れた世界。
明日をも知れぬ身でありながら、誰もが自分の大切なものを護るために必死で身を削る。まだ年若い子供である自分にもそれは変わらなかった。
だから、本当は慣れなければいけないのかもしれない。
自分だけが苦しんでいるのではない。自分が子供だから苦しいのではない。
生まれ育った村を滅ぼしたベルンを許すことができなくて、軍に入ることを志願したのは自分だ。誰かに泣きついて甘えるくらいなら、この弓を戦争のために使う道など選んではいけなかったのだ。自分と同じくらいの年の子供も、軍には何人もいる。彼らだって泣き言ひとつ言わずに、毎日の戦いを必死で生きているのだから。
嫌な夢の所為で、すっかり目が冴えてしまった。
このまま寝床に横たわっていてもどうにも眠れる気がしなくて、何となく外に出てみることにする。夜風に当たれば気分も変わるかもしれない。夢の続きを見たくないという理由も有りはしたが。
特別、誰かに会いたかったというわけではないのだと思う。
むしろ遭遇した相手によっては無理やりにでも自分を天幕に押し戻すのではないかと思われたし、憂国に疲弊しきった兵士たちに自分のことで面倒を掛けるつもりなどもまったく無かった。
けれども、篝火の前に見えた人影の方へと、ナマエは思わず足を向けていた。
火明かりに照らされた紫色の髪。その持ち主が分かった瞬間に、勝手に身体が動きだしていたのだ。
胡坐をかいて間抜けに欠伸をしているその人物は、足音に気付いてかこちらへ顔を向ける。そうしてナマエの姿を視認すると、締まらない顔のままで欠伸混じりの声を出した。
「おいおい、良い子はもう寝る時間だろぉ?」
「良い子じゃないからいいの」
そう言いきって、男の隣に腰を下ろす。
何か言われるのではないかと思ったけれども、男は相変わらず眠たそうな様子で欠伸をするのみだった。
「……ふーん、真面目に夜番やってるんだ」
「あぁん? その言い草はねえだろうが! お前、俺をなんだと思ってんだ」
「……守銭奴?」
一秒と経たずに頭に軽い拳骨が降ってきた。
痛い、と口を尖らせて抗議すれば、教育的指導だという訳の分からない言葉を返される。
こんな他愛もないようなやり取りと、ぱちぱちと爆ぜる篝火の明るさと暖かさとで、引きずっていた不安と恐怖とが少し和らいだような気がした。
「なあ、ナマエちゃんよぉ」
ふと思いついたように、男は口を開いた。
「今日の戦い、大活躍だったらしいじゃねぇか」
「……まあね。弓の腕には自信があるもの」
戦いが激しくなるにつれて、天馬騎士や竜騎士を相手にすることが多くなってきたエトルリア軍。
今までは主に後方支援の役割を担っていた自分も、前線に出ざるを得なくなってきていた。
敵兵を撃ち落とす度に、よくやったと褒められる。頑張ったな、これからも頼りにしているぞ。そうやって励まされる。
人を討つための腕前なんて、何の自慢にもならないはずなのに。
「……お前さ、」
「なに、よ」
「ガキのくせに不器用なんだよなぁ」
「……!」
子供のような大人は、他人の心に誰より敏感で。
意表を突かれたナマエは言葉を返すことが出来なかった。柴色の瞳は篝火を見つめたまま自分を捉えてはいないのに、心の中に押し込めてきたものまで全てが見透かされているような気がした。
弓を引き絞って矢を射るたびに、舞い散る天馬の羽根。まるで責めるように呻く、苦しげな飛竜の声。
――やめてしまえばいい。
そんな思いは何度も頭を過った。何度も心が折れそうになった。
けれども自分はこうしてここに居る。今日も明日も、戦場に立ち続ける。逃げるのはおそらく簡単だった。だがそんなことをすれば、今まで奪ってきた命に対して理由が立たなくなってしまうから。
戦争なんて大嫌いだ。戦わずに済むのならどんなにか素晴らしいだろう。願うのは今でも止められないけれど、そんな綺麗事を言っているようでは滅ぼされた故郷の村に報いることも出来なければ、この戦いで生き残ることすら出来ないことも分かっていた。だから今まで、そうやって自分を叱咤してきたつもりだったのに。
「ガキに武器握らせて戦わせるなんざ、世の中オカシイっつーのにな」
どこかでずっと求めていた言葉に心がぐらつく。
“よくやった”でも、“頼りにしている”でもなくて。大切なもののために武器を手にすることが仕方のない道ではあっても、それを当然だと思ってはいけないのだと。
いつも飄々とした体で、一見能天気にすら感じさせるくせに、その双眸には正しいものがきちんと映っていたのだ。
「……ヒュウ、」
初めて人に向かって弓を引いたあの日から、もう平和だった頃のようには生きていけないのだと思った。
戦功を褒められる度に、自分の手はもう汚れてしまったのだと思った。
「わたし、本当は、」
――こわいよ、戦うこと。
飛び散る鮮血も、悲鳴も何もかも。弓を引く時には、今でも手が震えるくらいに。
そう続けるつもりだった言葉はしかし、声になること叶わなかった。
真横から伸びてきた腕に身体を強く引かれて、驚く間もなく男の腕の中で視界が塞がれてしまったのだ。
胸板の辺りに顔を押し付けられるようにして抱え込まれてはどうしようもない。加減が分からないのかする気がないのか、その力には若干痛みを覚えるほどだった。
「大丈夫、ちゃんと分かってっからさ。とりあえず今は甘えとけ、な?」
それは、普段のおどけた調子と少しも変わらなかったけれど。
ぽんぽんと頭を撫でるその手がどうしようもなく優しくて、いつものように言葉を返すことが出来なくなっていた。
「お兄さんが特別に、無料で胸貸してやるからよ」
目頭が熱くなる。
これまでずっと、心を犠牲にしながら崩れないように必死で抑えつけてきたもの。それを瓦解させるのに、男の言葉は十分すぎた。
男は笑えなくなった子供を何人も見たと言っていた。
そして今までの自分は、泣けなくなった子供だったのかもしれない。
「……んで、こんな戦争とっとと終わらせちまおーぜ」
頷く代わりに、男の上着を両手でぎゅっと握りしめる。その夜、ナマエは初めて声を上げて泣いた。