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in a fever

 寒気がひどい。ずきずきとした鈍い痛みが頭の奥に響いている。
 急な眩暈に倒れて天幕へ運ばれ、そうして眠りに落ちてからどれくらいの時間が経ったのだろう。重い瞼をなんとか押し上げてみるけれども、外の明るさからそれを判断することは困難だった。
 未だに視界が回っているような感覚がする。背にはひどく汗をかいていた。随分と熱が上がってしまったようだ。ひりつくような喉の痛みと渇きに、身体中の水分が失われているのを感じた。
 視線だけを横に動かしてみる。視界の端に水差しとコップが見えた。
 眠りにつく前まで、自分の世話をしてくれていたミストが置いていってくれたのだろう。手を伸ばせばかろうじて届く距離にはあった。だが、今は僅かに動くことですら億劫だった。皆が働いている時にこうして休ませてもらったのにもかかわらず、体調は悪化の一途を辿っているようだった。
 ――確かに、多少無理をしているような自覚はあった。激戦の続く行軍であったし、身体も弱いわけではないにしろ自慢できるほど強くもないのだ。まさか倒れるとは思っていなかったが。
 少し思考を働かせたところで、いよいよ意識が朦朧とし始める。身体中に圧しかかってくる鈍痛を伴った倦怠感の所為で、もう一度眠ってしまいたいのにそれはできそうになかった。仰向けよりも楽な姿勢を探したいけれど、寝返りすらも打てない。ただぼやけた感覚の淵で、自分の荒い息遣いだけが聞こえていた。

「ナマエ? 入るぞ」
 不意に、天幕の外から掛かった声に途切れかけた意識が呼び戻される。
 返事をすることさえ困難であるというこちらの状況を分かっているのかいないのか、声の主は了解を得ないままで天幕の入り口を押し開いた。
「……、……ぁ……い……、」
 無意識に名を呼ぼうとしていたが、枯れてしまった声ではそれも叶わない。
 無理に喋らなくていい、と一言制すると、男は手にしていた水桶を置いて簡易ベッドの傍らに腰を下ろした。
「大丈夫……な訳はないな、」
 大きな手が額に乗せられる。
 瞬間、男はぴくりと眉根を寄せた。それほどまでに熱があるらしい。出し切ってしまえば少しは楽になるのかもしれないが、こんなに火照った身体でどこまで頭痛に耐えられるのかは分からなかった。
 男の動作を目で追うのがつらくなって、視線を天井へと戻す。傍らから水音が聞こえた。
「――悪かった」
「……?」
「最近は休む暇もほとんど無かったし、疲れてるんじゃないかとは思ってたんだけどな。お前の大丈夫だ、って言葉に甘えてた」
 無理をさせたな、と。
 静かに呟いた男に、ナマエはゆるゆると首を振った。
 男が謝るようなことではない、体調管理の出来なかった自分の責任なのだ――。伝えたいのにそれが出来ずにいるもどかしさを感じ取ったのか、男は濡らした布をナマエの額に置くと小さく笑った。
「まあ、今日くらいはゆっくり休んでくれ。俺はここにいるから」
 水分を含んだ冷たい布が、額から熱を奪っていく。
 男の気遣うような声色がひどく心地良かった。たったそれだけで、具合の悪さが幾分緩和されたような気がする。目を閉じて熱を吐き出すように息をつけば、それは安堵の色を呈していた。
 ――ありがとう。
 ナマエは心の中で呟く。どうやら思いのほか心細かったらしい。こんな自分を情けないと思いながらも、男が側にいると言ってくれたのが素直に嬉しかった。

 傍らの存在への安心感からか、気付けば身体を包み込むような眠気を覚えていた。
 次に目が覚めた時にも、彼はここにいてくれるだろうか。きっとそうだろう。その時には、少しでも声が出るようになっていればいいのだけれど。
 ふと、男の手がナマエの頬に触れた。
 ひんやりとしたそれはそのまま頬を辿って滑り下り、乾いた唇をなぞった。労わるように優しい手つきがいっそう微睡を誘う。
 再び聞いた水音は、先程のものとは種類が違う気がした。
「……すまんな。少し我慢してくれ」
 意識の遠くに聞いた言葉に、ナマエは霞がかった頭の中で疑問符を浮かべた。
 思考力が著しく低下しているせいで意味が把捉できない。もっとも、自分の聞いた通りの発音がされたのかどうかも分からなければ、高熱のために聞こえた単なる幻聴に過ぎないのかもしれなかった。どちらにしても、この不確かな感覚では判断などつきそうもないのだが。
 半ば意識を放り投げかけたところで、次いで感じたのは唇に押し当てられる柔らかな感触だった。
 ……なんだろうか、これは。そう思っている間に、今度は冷たい何かが口内に流れ込んでくる。温かいような冷たいような奇妙な感覚に支配されながら、声にならない声が鼻から抜けていった。こくりと自分の喉が動いたのが分かる。
 ナマエは無意識に瞼を開いた。
 焦点の合わない虚ろな瞳に、蒼い光が揺れる。言葉は無かった。
 つう、と口の端から冷たいものが流れ落ちていく。再び目を閉じれば、同じ温度が一定の間隔をもって何度か繰り返し与えられた。じわりじわりと染み透るように広がる、潤いと微かな甘み。
 癒えたのは確かに渇きだけではなかった。
 不思議なくらいの充足感を感じながら、ナマエは穏やかに意識の全てを放り投げる。
 最後の一度ばかりは、あたたかな温度だけが与えられていたような気がした。