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雪解雨

 暫くぶりの雨はひどいものだった。
 ざあざあと喧しいほどの音を立てて、降りしきる無数の水の粒。突き刺されるような痛みを肌に覚えるほどに、その勢いは強い。
 身体に張り付いている衣服はたっぷりと水分を吸っていて、その不快な感触と重さが走る気力を削いだ。
 ――そうでなくても、片手を拘束された自分には駆け出すことなど到底出来なかったのだけれど。

 掴まれた手首は燃えるように熱い。
 容赦なく降り注ぐ雨に、体温などとうに奪われているはずなのに。そこだけが発火しているのではと思うくらいに、熱は引くどころか増す一方だ。
「……放して、」
「それは聞けんな」
 ぎり、と力を込められた。
 痛覚すら熱に浸蝕されていて、痛いのかどうなのかもよく分からない。
 俯いたままの顔を上げることは出来なかった。
 それが出来るなら、自分は今頃こんな所にはいない。男の顔をしっかりと見返すことが出来るのなら、こんな風に彼から逃げるようにして大雨の中に身を放り出す真似などせずに済んだ。
「……放したら、あんたは逃げるだろう?」
 確かにその通りだ、と思う。
 けれども、そうしたところで逃げ切らせてはくれないだろうに。
「……戻ってよ。風邪、引くから」
「あんたも戻るって言うならな」
 こんな天候の中、着の身着のままで外に飛び出してきた自分を相当の馬鹿だとしても、同じようにして追ってきたこの男は輪をかけてそうだと思った。戦力として数えられるのかも危うい自分はともかく、大将である彼が本当に風邪でも引いてしまったらどうするのか。
 おそらくこれは耐久戦だった。どちらかが折れるまでは、延々とこのままの状態が続くことだろう。それを分かっていてなお、自分に引く気はなかった。……早く諦めて、行ってくれればいいのに。雨に身を打たれる辛さよりも、男と二人きりでいることに耐えられそうにない。
 歯がかちかちと鳴り始め、背筋が震えた。
 未だに熱を帯びている手首とは裏腹、身体は思いのほか冷え切っているらしい。
 ふと、視界の端に緋色が揺れたと思えば、ばさりと何かに頭部を覆われた。
 ややして、男の身に着けていたマントが被せられたのだと分かる。既に随分と水を吸ってしまったそれには撥水力など無いに等しかったが、それでも肌を打たれる痛みは確かに軽減されていた。
「ナマエ」
 名を呼ばれて、つい顔を上げようとしてしまった一瞬の隙を、彼は逃さなかった。
 手首を掴んでいた手に頬を捕えられ、否応無しに上向かされる。注がれる蒼い光に捕まる前に、視線だけをなんとか逃がした。

 いつから、真っ直ぐにその瞳を見られなくなってしまったのだろう。
 気が付いたら、男の前でうまく笑うことが出来なくなっていた。彼の声が自分の名を紡ぐたびに、心の奥がひどく疼いた。
 視界に映るのは怖くてたまらないくせに、遠くからその背を探すことを止められない。
 熱を孕む身体が信じられなかった。
 ――呆れたくなる。
 この肚の中にあるものなんて、ただの子供じみた臆病な恋心だけだというのに。
 それを見透かされるのが、どうしようもなく怖いだなんて。

「……どうしたら、あんたは笑えるんだ?」
 降ってきた声に、思わず目を瞠って彼を向いてしまった。
 その先にあったのは、艱苦に満ちた表情。
 烈火のごとき眼差しは影を潜め、両眉は苦しげに歪められている。それはひどく不似合いで、およそ彼らしくないものだと思った。
 こんな顔をして、彼は自分を見ていたと言うのだろうか。
 こんな顔をして、ずっと。

 目を閉じた。
 数拍置いて、ゆっくりと瞼を上げる。
 逸らすことも怯えることもせずに、こんなに間近で彼を見つめた記憶は遠い。
 彼らしくない、だなんて、何を勝手なことを考えていたのだろう。そうさせているのは、他でもなく自分ではないか。

 重い腕をゆるゆると持ち上げる。頬に熱を与え続ける手の上に、自身のそれを重ねた。
「アイク、」
 音を殺して呼び続けていたその名が、声になる。
 瞬間、強張りがほどけた。
 男は驚いたように目を見開く。温い雫が頬を伝った。
「……馬鹿。泣くな」
 歪んだ視界の先、確かに笑みが滲む。
 声に含まれた安堵に可笑しいくらい満たされてしまって、零れ落ちるものは止められそうにない。頼りない自分の手と重なり合ったまま、男の指が雨滴と涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭った。ひどく緩慢な動きだった。身を切るほどの痛みは既に洗い流されている。どうしようもない愛しさだけが、ただ止め処なく横溢していた。

 春先だというのに、吐息は白く濁る。
 それが混ざりあって熱に融けた時、ナマエはようやくその肩にすがった。