Aa ↔ Aa
麻酔
仮にも行軍中だというのに、気を抜くどころかおよそ場違いなことに意識を奪われるだなんて、不謹慎極まりないという自覚はあった。
けれども分かっていても、わたしはそれを抑えることが出来なかった。
もしかするとこれは、そんな不心得な自分に課せられた試練なのかもしれない。
――否、それはきっと、罠と呼ぶのが相応しい。
『……思ったより霧が深いな』
『う、うん』
そんなやり取りをしたのはついさっきのことだったか、それとも何十分も前のことだったか。時間の感覚が不確かで、それすらも分からない。
今度の作戦では細かい小隊に分散して進軍する、ということは前から聞かされていたけれども、まさかアイクと二人で組まされるだなんて思ってもみなかったのだ。
魔道書と杖がそれなりに使えるということで、わたしは彼の回復と援護という支援役を言い渡された。我が軍の参謀殿曰く「あなたがた二人なら大丈夫でしょう」だそうで、確かにわたしと組んだ男は一騎当千といっても過言ではないと思うし、わたしはわたしで、自分の身を自分で守るのに難儀はしないつもりだった。
だから、本来ならばこの作戦にもこの隊分けにも、きっと何ら問題はなかったのだと思う。
長い間温め続けたままで未だ打ち明けられずにいる感情を、わたしが彼に対して抱いてさえいなければ。
『気を抜くなよ』
それはわたしの心を言い当てたのではなく、単に注意のつもりで言ったんだろう。
そして、せめてこの時からでも彼の言葉に従えていたならば、わたしは後になって妙な気を起こさないで済んだのかもしれない。
『!?』
不気味な光が彼を包んだのは、一瞬の事だった。
『アイク!!』
『……ナマエ……、逃げ、ろ……』
彼の声がぷつりと途切れる。屈強な身体は、途端に地に倒れた。
何が起こったのか狼狽えるより先に、これが魔杖の力によるものだということは杖を扱う者としてすぐに理解出来た。慌てて取り乱すようなことにならなくてよかったと思う。助け起こした彼には思った通り外傷などはなくて、ただ規則正しい寝息が聞こえてくるのみだった。
予想外の事態には他ならない。けれどこうなってしまった以上は仕方がなかった。わたしがしなければならないのは、無防備になってしまったアイクの安全を確保することだ。
遠隔魔法の攻撃は受けてしまったものの、近くに歩兵の気配はない。自分まで眠らせられてしまうという最悪の事態を避けるために、わたしは意識を失った彼をどうにか伴って、もと来た道を引き返した。身を隠せるほどの深い茂みに彼を引きずり込み、ようやくいったん落ち着けるかと思った時には、情けないながらも息は絶え絶えという有り様。彼の装備は見た目以上に重かった。
生憎わたしはレストの杖は持ち合わせていなかった。装備の甘さが悔やまれる。しばらく経てば自然と目が覚めるとはいえ、魔力で眠らせてしまえば声を上げても水をかけても起きないのだ。このまま何事も無ければいいのだけれど、万が一の時にはわたしが盾になって彼が目を覚ますまで危機を凌がなければならない。それほど遠くないところで仲間の誰かが進軍していることは分かっていたけれども、この状態で声を上げて助けを求めたり合図を出したりするのは得策ではないだろう。
結局、このまま時が過ぎるのを待つのが最善だと、わたしはそう判断したのだった。
茂みの中に身を潜め続けている現在も、それが間違っていたとは思わない。
今のところ敵の襲来はないし、眠っているアイクも変わりはないようだった。
わたしはこのまま、周囲に気を配りながら大人しくしていればいい。彼が目を覚ますまでやり過ごすことが出来ればいい、それだけの話だ。そんなの、簡単なことじゃないか――。
必死になってそう言い聞かせるほどに、自分がどんどん落ち着きを失っていくのをわたしは感じていた。
事態への対応に追われている間だけは忘れていられた感情が、急激に加速度を上げて膨れ上がる。
わたしは今、間違いなくどうかしていた。
閉じられた瞼。呼吸に伴って、時々ほんの僅かにだけ動く唇。釘付けになったように、わたしはそこから視線を逸らすことが出来ない。
強制的な睡眠であるにもかかわらず、端整な顔は安らかそうに見えた。この危機的状況とはまるで不似合いな表情に、訳が分からなくなる。
いつ敵が来るとも知れない恐怖、続く緊張状態。かつて経験したことのない非常事態が、面白いようにわたしを混乱させたのだ。聞こえてくるのは互いの呼吸音。そして、気のせいとも事実とも知れない自分自身の早まる拍動。苦しくないようにと彼の体勢と服装を整える、たったそれだけですら、何かいけない事をしている気分になってきた。そんな風に考えてしまうことが、そもそもおかしいというのに。
襟元を緩めた手は、ふと気が付けば彼の顔へと伸ばされつつあった。
いったい何をしているんだ、と諌める自分の内なる声は聞こえていたけれども、それは次第に意識から乖離していって、やがては遠くに消えてしまった。
ゆっくりと髪に指を差し入れる。
アイクは目を覚まさない。
こめかみから輪郭を辿って、頬に触れる。
まだ、目を覚まさない。
ごくりとぎこちない音が聞こえて、自分が生唾を飲み込んだのだと分かって心底嫌気がさした。それでも止められない。
魔法にかけられてなお穏やかな表情、呑気だとまで思わせる寝息とは裏腹、わたしは動悸が止まらない。静寂。木々のざわめき。風の音と、それから呼吸音と。その他には何も聞こえない。何も。鳥の気配さえ、ここにはなかった。まるで世界に二人きりであるかのよう。
いつも守ってくれていたひとが、こんなに無防備に眠っている。
背中を追い掛けるので精一杯だった相手に、こんなにも簡単に触れられるだなんて。
今ならば。
もう一歩だけ、踏み出してみたならば。
閉じられた瞼の上に影が落ちる。わたしは目を閉じることもできない。重力に逆らわない前髪が、さらりと揺れた。
「……ナマエ?」
――おそらくその時のわたしの反応速度といったら、獣牙族にも引けを取らないほどだったと思う。
反射的に身を引かせた瞬間には、身体中から変な汗が噴き出していた。
もしもわたしの行動が一呼吸早かったとしたら。彼が目を覚ますのが、数秒だけ遅かったとしたら。
頭の中が、真っ白になりそうだった。
「俺は……寝てたのか……?」
言いながら上体を起こし、眠気を振り払うようにアイクは頭を振る。
寝起きのせいか、わたしの行動は幸運にも顔を覗き込んでいたくらいにしか思われていないようだった。固まった身体を解すように伸ばす彼は、すでにわたしのことは見ていない。間違いなく蒼白になっている顔も見られずに済んでいるのに、動悸が治まらなければ冷や汗も止まらない。
「ナマエ?」
「あっ、うん、あの、スリープが、急に……」
緊張の糸が切れてしまった今では、何かに取り憑かれていたんじゃないかとさえ思う。
どうしようもなくしどろもどろな調子は、追及されてしまえば自爆してもおかしくないほどだったけれど、アイクにとってはそれよりも自分が眠ってしまっていたことの方が気になったらしい。
「そうか……すまん。面倒をかけた」
「だ、大丈夫」
身を整えながら言う彼にやっとのことでそう返す。もちろん、内実どこも大丈夫なんかじゃなかった。
このまま何事もなく合流まで進軍出来るのかどうかも分からない。さっさと気持ちを切り替えなければいけないのに、元々でさえ浮き立っていた心がこんなことの後で持ち直せるはずもなかった。
……次からは、絶対にレストを携帯しなければ。
そう誓いながらも、さっきまで催眠にかかっていたのは――本当にレストが必要だったのは、きっと自分の方だったのかもしれない。