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尊き血は恒久に届かぬ
この手に剣を握る勇気をくれた。この足を一歩踏み出す希望をくれた。
あの人は、わたしの憧憬だった。
仄暗い国の中でわたしの視界を照らしてくれる、ただひとつの道標、だった。
初めて城塞に来てくれたときの兄さんは、まだ少年と呼べるくらいの年齢だった。
幼い頃の記憶なんてほとんど残っていないけれど、その時のことだけは鮮明に覚えている。
目と目が合ったその瞬間、電撃が走ったかのように背中が粟立った。突然この身に起こった反応がいったい何だったのか、当時のわたしにそんなことが分かるはずもなかったけれど、その頃には既に兄さんは王たる者の風格とでも言うべきものを兼ね備えていたのだった。
第一王子にして、今では王国随一の騎士と呼ばれる、わたしの誰より大切なきょうだい。
兄さんは厳しく、時に優しく、王家の人間としての在るべき姿をわたしに示してくれた。
寝る間も惜しむほど忙しいはずなのに、兄さんは他のきょうだいと同じように足繁くわたしに会いに来てくれて、剣や軍術を教えてくれたり、兄さんの目指しているこの国の未来を聞かせてくれたりした。
物事が分かるようになってから、自分の暮らしている城塞が国にとって何の役割も果たしていないことにわたしは気が付いた。ここはどう考えたって交通や軍事の要衝になんてなり得ない場所だったし、かといって兵器や武器が隠してあるわけでもなく、物資の備蓄倉庫ですらない。そもそもここにいる従者や兵たちは、わたしの身の回りのことが唯一の仕事なのだ。要するにこの城塞は、結界に守られていなければ危険だというわたしを生かしておくためだけに誂えられた場所というわけだった。
何が危険なのかも分からないまま、きょうだいたちのように王家の一員としての責を果たすこともできずに過ぎていく日々は、もどかしくて情けなくて悔しかった。
けれども、兄さんはそんなわたしをいつだって奮い立たせてくれた。
剣を振る手を止めてはならぬと。結界に守られなくても平気なくらいに強くなれと。お前は私の妹だ、だから大丈夫だ。そう言ってわたしを励ましてくれた。いつかその日が来たら、わたしも一緒に兄さんの語った理想を追いかけることができる。だから、わたしは自分の境遇を悲観なんてしなかった。
だって、わたしはマークス兄さんの妹なんだから。他でもない兄さんが、そう言ってくれたんだから。
この身に同じ血が流れていることが、わたしの唯一の誇りだった。
あの人に並び立てる人間になりたいと、そう思って檻の中で剣を振るい続けていた。
城塞から出ることを許されたときには、本当に涙が出るほど嬉しかった。何より待ち望んでいた、あの人の役に立てる日がようやく来たのだと思えたから。
それがまさか、終わりの始まりになるだなんて。馬鹿みたいに浮かれていたあの時のわたしが、どうしてそのことに気付けただろう。
幼い頃から世話を焼いてくれていた老騎士が谷底へ突き落されたとき、わたしはただ憎悪と痛嘆のままに泣き叫びながら、味方であったはずの男へ向けて握った剣を振り回すことしかできなかった。わたしをも手にかけようとしたその男は、信じられないことに自らの行為を王命だと言い放った。
いったいどうして、お父様はわたしの命を奪おうとしたのだろう。その問いが前提から間違っていたことを、わたしはすぐに思い知らされることになる。
きょうだいたちとの合流を果たせないまま、わたしは無様にも白夜王国の人間に捕まり、そのまま王都へと連行された。ギュンターを失った上に敵国に捕えられることになるだなんて、これ以上国に――兄さんに迷惑を掛ける前にさっさと殺してくれればよかったのに、あろうことかそこの王族はわたしを幼い頃に連れ去られた白夜の王女だと言い、わたしを本当の家族と呼んだのだった。
そんな馬鹿な話があるかと嘲笑い、お前たちは敵だと罵って伸べられた手を振り払う、たったそれだけのことをわたしはいつまでも遂げられなかった。
王家の中でただ一人わたしだけが、あの存在意義のない城塞に隔離されていたこと。
お父様が、わたしを殺すようガンズに命じたこと。
暗夜で何の力も持たないわたしに、わざわざそんな嘘をついてまで自国に引き込もうとするだけの理由が白夜の人間にはないこと。
まるでエリーゼがわたしに向けてくれていたような屈託ない笑顔で、白夜の末姫がわたしを姉様と呼び慕ってくれること。
頭の中の冷静な部分はどこまでも残酷に事実を突きつけてくる。それでも認めてしまったら、受け入れてしまったら、わたしはわたしでなくなってしまう。
撥ね除けることと諦めることのどちらも選べないわたしに、運命はとうとう痺れを切らしたのかもしれなかった。
禍々しい瘴気を纏って、何かに呼ばれるようにわたしの手を離れた魔剣ガングレリ。無辜の民を巻き込んで暴発したそれは、わたしを庇った白夜女王の――本当のお母様の命と共に、最後の望みをわたしから奪っていった。
結局、全ては“お父様だった人”の筋書きどおりというわけだ。
わたしに魔剣を持たせたのも、ガンズにわたしを追い詰めさせたのも、そして白夜にわたしを拾わせたのも、全て。
暗夜王家の人間としての役割なんて、元々わたしには微塵も与えられていなかった。わたしは紛うことなき白夜王家の娘で、結界を打ち破るためだけに、本当のお母様の命を奪うためだけに使い捨てられた道具だった。
――わたしは初めから、マークス兄さんの妹なんかじゃなかったのだ。
「無事か、カムイ……!」
安堵に満ちた声で、マークス兄さんがわたしを呼ぶ。
その後方には、侵攻を許された暗夜の軍勢が小さく見えた。彼らを置いて、危険を顧みず国境の真ん中まで駆けてきてくれた、わたしの優しい偽りのきょうだい。
「……マークス兄さん……」
あと何度、その名を呼ぶことが許されるだろう。
離れていた時間はほんの僅かだったはずなのに、こんなにも遠い。
「出来ることならゆっくりと再会を喜びたいところだが……残念ながら、今はそういう訳にもいくまい」
兄さんはジークフリートを手に一度高く掲げた。合図を受けて、遠くの騎士たちの足元で巻き上がる砂煙が濃さを増す。
「我々はこのまま白夜を制圧する。カムイ、お前にも力を貸してほしい」
言葉を返さないわたしが尻込みでもしていると思ったのか、兄さんは大丈夫だと言わんばかりにわたしに頷いてみせた。
「安心しろ。私がついている限り、二度とお前を危険な目には遭わせん。さあ、私と共に来い!」
兄さんの大きな手が、目の前に差し伸べられる。
今は籠手に覆われているそれは、遠い日のいつかにわたしの頭を優しく撫でてくれていたっけ。兄さんはいつも厳しい人だったから、そんなことをしてくれたのがあまりに珍しくて、その時のわたしは本当に驚いたものだったけれど、それ以上に安心したのを覚えている。その温度をわたしは、今でも思い出すことができる。
だけどね、兄さん。
わたしはもう、その手に触れることはできないんだよ。
「カムイ……?」
兄さんが教えてくれた握り方で、兄さんが教えてくれた構えで、わたしは兄さんに剣先を向ける。
兄さんは目を見開いて、呆然とわたしを見つめている。
「……ごめんなさい、兄さん。許してほしい、なんて言うつもりはないから」
「……何を……お前は何を言っているのだ、カムイ……?」
聞いたことのないくらい、弱々しくて力の無い声だった。
声音も表情も、全てがわたしの言葉を拒絶している。兄さんは面白いくらいに動揺していた。剣を握るわたしの手が小刻みに震えていることにも気が付かないほどに。
「わたしには、暗夜へ戻ることはできないの」
努めて低く、冷たく聞こえるように呟いた。初めてのそれは存外うまくいったように思う。
時間が止まってしまったようになっていた兄さんも、冷静さを取り戻したみたいだった。整った眉が吊り上げられ、眉間が深く皺を刻む。兄さんが息を吸う気配がした。
「……では、お前は白夜の側につくと……私たちを裏切るというのか!?」
口調がはっきりとわたしを責めるそれに変わっても、兄さんはまだわたしを信じようとしている。わたしが兄さんを裏切るはずなんかないと、心の奥ではそう思っている。だからわたしは、それをへし折らなければいけないのだ。
「……そうね。でも、先にわたしを裏切ったのは、兄さんの方じゃない」
寒気がした。吐き気がした。
いつも威厳と気品に満ちていたはずの兄さんの表情を、抱いていた願いごとわたしはこの手で壊している。それでもわたしは呪詛を吐き続ける。
「兄さんは全部知っていたんでしょう? わたしが本当のきょうだいじゃないことも、白夜王家の娘だったことも。なのに、どうして教えてくれなかったの?」
捕虜として扱ってくれていたなら、こんな想いなんか抱かなかった。
初めから敵国の王子でいてくれたなら、憧れることなんかなかった。
「……確かに、お前と私との間に血の繋がりはない。だが、それが何だと言う!」
同じ血がこの身を流れているだなんて、そんな勘違いはしなかった。
いつかは近付くことができるかもしれないなんて、夢を見たりもしなかった。
「お前が暗夜の王族として、この国の為にと必死で鍛錬に励んでいたことは私が誰よりよく知っている。そんなお前に水を差すようなことを、誰が言えるものか……!」
兄さんがこんなにやさしくなければ、惹かれたりなんかしなかった。
許されない想いは殺さなければならないと、身を斬られる思いで押し込めることだって、それが無意味になることだってなかった。
「そんなの嘘よ。わたしが妙な気でも起こしたら困るから、黙っていたんでしょう? わたしの存在は、白夜へのどんな切り札にだってできたはずだもの」
「断じて違う! 私にとって、お前はずっと本当の妹だった。これまでもこの先も、カムイは私たちの本当のきょうだいだ。そのお前を、大切な家族を利用しようなど……!」
本当のきょうだい。大切な家族。
白夜の王族たちから何度も聞かされたのと同じその言葉が、決して兄さんとわたしのものにはならないことをわたしはもう知っている。
手放しで向けられる愛情を無下に切り捨てることなんて、わたしにはできなかった。暖かな食事を囲んだり、一緒に街を歩いたり、露店で買い物をしてみたり。それはみんな、マークス兄さんと叶えてみたかったことだったのに。
「父上だって、そのようなことを考えるはずがない……!」
あの日が来るまでは、兄さんの語る偉大な王の姿をわたしも同じく信じていた。
それが幻影に過ぎないことを知った今、祖国と信じていた場所に帰ることはもうできない。
全てを知りながら運悪く死に損なったわたしを、ガロン王はこのまま生かしてはおかないだろう。わたしが暗夜に戻れば、兄さんはいつか必ず妹を失うことになる。それが偽物の妹でも、優しい兄さんはきっと悲しむ。わたしは、兄さんを苦しめる。それだけじゃない。もしもいつか訪れるわたしの死が、王の手による謀殺だと気付いてしまったら。誰より尊敬してやまない父親が大切な家族を弑したことを知ったら、この気高い人はどれほどの絶望に突き落とされることになるだろう。
偽物のきょうだいどころか、わたしは兄さんを呪う十字架にしかなれない。
それならば、わたしの取るべき道は。
「……馬鹿な……」
いくら心が乱れていたって、わたしの振り下ろした剣を受け止めるくらい兄さんには造作もないことだった。
けれども返す一撃は、いつまでも放たれることはない。
「……兄さんたちはね。わたしにとって、本当のお母様の仇なの」
優しい兄さん。
今はまだそれでもいい。
だからこのまま、わたしの嘘には気付かないで。
「……ふざけるな……そのような戯言、決して認めるものか……!」
そしていつかは、あなたの想いを裏切ったわたしを迷わず憎んで。
どうか正しく、討つべき相手と見定めて。
その剣を紅く染めるのは、あなたと同じ血なんかじゃないんだから。
「……わたし、本当に大好きだったのよ。カミラ姉さんも、レオンも、エリーゼも……そして誰より、あなたのことが」
「カムイ……!!」
きっとこれが、兄さんが名前を呼んでくれる最後の瞬間だった。
その悲痛な声を、わたしはいつまでも忘れることはないだろう。
「さよなら、マークス兄さん」
短すぎる別れの言葉が終わるときにはもう、兄さんだった人の顔は霞んで見えなくなっていた。