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光葬
――おっ、あんた、同業者かい?
――おれはマシュー。この軍じゃ、まあ古参ってとこだな。困ったことがあれば、力になるぜ。
向けられた笑みを、ただ眩しいと思ってしまった。
互いのことなど、その時は何一つ知らなかったから。
鍵開けの腕を買われて軍への入隊を許可されたとき、かつて黒い牙に身を置いていたことは隠しておくように、と軍師から言い添えられたのには全身から冷や汗が噴き出す思いだった。まさか過去を知られているとは思わなかったからだ。
数ヶ月ばかり前まで、確かにナマエは黒い牙の一員だった。とは言っても、身分としては単なる末端の構成員だったに過ぎない。名も顔もほとんど売れていなかったからこそ、大した刺客に追われることもなくこうして無事に逃げ遂せたのだろう。そんな自分の素性が、初対面の相手になぜああも容易く看破されたのかなどは全く知る由もないが、わざわざ釘を刺されずともそれを口にするつもりは毛頭なかった。仮に組織の内情でも知っていたのなら、情報を取引材料にすることもできたかもしれないが、そうでないのに敢えて自分から「かつては敵方の人間でした」などと宣言して得になるようなことなど一つもない。
軍師の言葉は、あるいは見張っているぞという意味だったのかもしれない。この軍に何らの害意も抱いていないナマエにとっては痛くもない腹を探られるようなものだったが、組織に身を置いていた過去を知られた以上は、それも仕方のないことだと甘受する他なかった。
だから、マシューという男は恐らく自分の監視を命じられたのだろう。そのために近付いてきた、そう考えるのが最も自然だとナマエは思った。気安い態度で警戒を解きにかかるというのは、こういう仕事をする上での常套手段だ。
それでもなお、彼の笑みを眩しいと思ってしまった。
入隊したばかりのナマエに、男は軍内の主要人物の来歴や人となりを話して聞かせてきた。虚偽の情報を与えてこちらを泳がせようとしているのかもしれなかった。先輩風を吹かせて、何かと仕事の世話を焼いてきた。こちらの力量を量っているのかもしれなかった。数え切れないほどに、他愛のない話をした。ナマエがここへ来た目的を探っているのかもしれなかった。
けれどもう、それでもいいとさえ思ってしまったのだ。それほど彼の傍らは心地が好かった。同じ時間を過ごすうちに、己の内に何の邪念もないことを分かってくれればいい。そうしていつか、信の置ける仲間と認めてもらうことができたなら。
――惹かれている。心の内にあるマシューへの思慕を、はっきりそうと自覚した頃だった。
ナマエは、彼の恋人が牙の手に掛かっていたことを知った。
まるで邪気のない笑顔の裏で、男がたった一人で抱えていた底知れない闇。
そんな彼にとってあまりにも酷な任務を、あの軍師は決して命じない。彼は監視役などではなかった。ただひたすらな善意が、ナマエの手を引いてくれたのだ。
マシューは自分の正体を知らない。
そうでなければ、あんな風に笑いかけてはくれなかっただろう。
一度はここが自分の帰る場所とも思った組織を捨て、そればかりか今やそこに刃を向けている己が、彼に裏切り者と謗られるのが怖いだなんてどうかしている。
ただ。
あの男には、嘘を吐きたくなかった。
「……やっと見つけたぜ?」
「……マシュー」
「おれをこんなに手こずらせるなんて、おまえもなかなかやるよな」
彼の真実を知ったその日から、ナマエは徹底的にマシューとの接触を避けていた。
自身の持ちうる能力と技術の全てを総動員したつもりだった。それでも彼に捕まってしまったのは、力量の差と呼ぶ他ないのかもしれない。
「なあ、ナマエ。おれ、おまえに何かしちまったのか?」
正直なところ、いかに逃げ切るかということしか考えていなかったのだ。こんな状況に陥った時のことを想定していなかったのは、本当に間抜けが過ぎる。返す言葉の用意もないまま、ナマエはただ首を横に振るばかりだった。
「だったら一体何だってんだよ。……まさか、すっとぼけられるとは思ってねーよな」
男の顔には、面白くないとでも言いたげな色がありありと浮かんでいる。怒っている、というのとは少し違った。けれども結局、自分はそれを怒りに変えてしまうのだ。
決別する覚悟をどうしても決められない、だから逃げ道を選ぶしかなかったはずだったのに。
「……あなたの過去を知ったから」
空気が、温度を失くした。
見えない壁が一瞬にして聳え立ち、二人の間を隔てたような感覚がした。その途方もない高さをナマエは思い知る。
「……はは、余計なこと喋りやがる奴もいたもんだ。……で? それがどうしたって?」
男の声に微かな苛立ちが滲む。マシューは明らかに動揺していた。
これが、彼の真実。彼が触れられたくなかったもの。それでいて、ナマエが知らなければならなかったもの。
ナマエは小さく息を吸った。彼に、そして誰より自分自身に、この手で止めを刺すべき時だった。
「わたし、黒い牙にいたの」
ついに、男は言葉を失った。
信じられないとでも言いたげに大きく瞠られた瞳はひどく隙だらけで、今なら打ち合いにも勝てるかもしれないなどと場違いなことが頭を過ぎっていった。
「……ナマエ……おまえ……」
太陽の下で大手を振って歩けない人間たちが、それでも自分たちの信じる正義のもと、隠れ家に身を寄せながら理想を追っていたはずだった。だが、かつての居場所はもう何処にもありはしない。正義も理想も失い、ただ目の前の標的を殺すためだけの道具に成り果てた牙は、そうしてマシューの一番大切なものを奪っていったのだ。
「……黙っていてごめんなさい。だけど本当に知らなかったの。……知っていたら、もっと早くにあなたの前から姿を消していた。あなたと関わりを持とうだなんて思わなかった」
――あなたに焦がれたりなんて、しなかった。
永遠に行き場を失くした言葉を喉の奥に引っ掛けたまま、ナマエは男に背を向ける。
「それだけは、信じて欲しい」
彼の恋人の命を奪ったのは、死神と称されたあのジャファルだという。それでも、黒い牙に身を置いていた自分もまた、彼にとっての仇であることに変わりはないだろう。
悲痛な声がこの背を斬り裂くことはなかった。文字通りの短剣が突き立てられることもなかった。ただ、別れの足音だけがそこにあった。
それきり、ナマエとマシューが顔を合わせることはなかった。
***
「……だから、野戦は嫌いだったのに」
漏れ落ちた情けない声が、虚空に消えていく。
生い茂る草に足を縺れさせながら、鉛のような身体を引き摺り続けるのもそろそろ限界だった。大樹の幹へ撓垂れかかるように背を預け、ずるずると座り込む。息を吐き出せば肋が軋んだ。どこから血が流れているのかさえ、今やもう分からない。
鬱蒼とした森は、密やかな静寂に満ちている。寸刻前まで敵の尖兵とやり合っていたのが嘘のようだった。嘘であってくれればよかったが、現実は惨憺たる有様だった。致命傷を負わされたばかりか、仕留め損ないを取り逃がすという救い様のない大失態。仲間を引き連れた敵が、草の上に描かれた朱の道を辿って来るまでにはどれくらいの猶予があるだろう。もっとも、その頃には既に物言わぬ身となっているのかもしれないが。
半端者の末路など、こんなものだ。
暗殺を生業としてきた人間に、どのみち平穏な死など訪れない。泥舟を降りたからといって、それまでの過去が消えてなくなるはずもない。蝕まれていく組織を守るための何をも為さず、全てから逃げ出すことしか出来なかった卑怯な己には似合いの最期だとナマエは思った。
視界が、だんだんとぼやけ始める。それを閉ざしてしまいたい欲求に、ナマエは抗することなく従った。
瞼の裏に、何故かマシューの顔が浮かんだ。
――最後にひとつ願うことがあるとするなら。どうか、あの人の痛みが癒える時が来ますように。
想うだけなら許されるだろうか。眩しいとさえ思った、あの日の笑みを。名を呼んでくれた、あの声を。
「――ナマエ!!」
それは、記憶の中の声ではなかった。
瞼の重さも忘れ、開いた両の目に映った先の表情は、消えゆく灯火が見せた幻想と呼ぶにはあまりにも。
「……マシュー……?」
「……馬鹿野郎……驚かせやがって……」
こちらへ駆け寄ってきた男がどうして安堵の声を出したのか、血の足りない頭ではなかなか理解が追いつかなかった。身を屈め、革袋から包帯やら何やらを取り出し始めた彼の姿をしばらくの間ぼうっとしながら眺めていたが、どうやら彼が自分を救おうとしているらしいことにようやく思い至ってナマエは声を上げた。
「……マシュー、やめて。もうすぐ新手が来る。その前に、早くここから離れて」
「うるせーよ。いいから、大人しくしてろ」
「お願いだから、わたしに構わないで……! もう使い物にならないの、見て分かるでしょう……!?」
男は何も答えず、ただ下肢の傷を縛る手を動かし続けている。ナマエの願いを聞き入れるつもりはないようだった。
あの日、自分はマシューの前から永遠に姿を消したはずだった。そうして彼の知らないところで、彼の知らないうちに死んでいくはずだったのだ。思っていたよりもずっと早くはあったけれど、まさにその通りの幕引きを迎えようとしていたところだったのに。
「……どうして、仇なんか助けようとするの」
「……」
最早それが叶わないのなら、せめて枷にはなりたくない。
男を遠ざける言葉を、ナマエは必死で探した。
「どうしてよ……! マシュー、わたしはあなたの……!」
傷口を縛っていた男の手に力が入った。けれど、言葉が途切れたのは腿を走った痛みのせいなどではない。この身を突き刺したのは、向けられた直截な眼差しに滲む果てのない艱苦と悲哀の色だ。
「…………おまえがレイラをやったわけじゃねえ」
絞り出すような声だった。
それ以外の言葉を持たないかのようだった。
不似合いなほどに不格好な科白で、誰より器用なはずのこの男はただ一つの拠り所を恃んだのだ。いっそ捨ててしまった方がずっと楽だったはずなのに、マシューはそれをしなかった。
「……おまえは自分の意思で黒い牙を抜け、おれたちに協力することを選んだ。エリウッド様がそれを認めた。……だったらそれでいい。それで、いいだろ……」
静かに語られる言葉は、彼が自身に言い聞かせているようでもあった。
ナマエを仇と憎む道もあったはずだ。共に過ごした時間を全てなかったことにして、忘れ去る道だってあったはずだ。けれどもそのどちらでもなく、彼の選んだ答えは。
「これ以上何かを後悔するような生き方を……あいつは望まねえ」
――だから、さ。
まあ、仲直りってことで、よろしく頼むぜ。
もう一度出会った笑みはどうしたって綻びだらけだったのに、ナマエは何度でもそれを眩しいと思ってしまうのだ。
赤い外套の背に身体を預けて、伝わる鼓動に耳を傾ける。
本当はそこにはいつも、彼女のかたちをした痛みがあった。だから、この場所を自分が借りるのは今だけでいい。背負われるのは彼女だけでいいし、彼女だけの場所でいい。彼女の代わりにはなれないし、ならなくていい。
けれどもしがみ付いた温度だけは、またひとつ忘れ得ぬ記憶としてこの身に刻まれてしまうのだろう。それくらいは、どうか許してほしい――。
彼女の見守る空を見上げて、ナマエは声なき願いを告げた。