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insanity

「ナマエ、傷はもういいのか?」
 戦いの終わった夕方、城内のサロンに顔を出したナマエを迎えたのは同僚の騎士だった。
 緑髪のその男からは普段の飄々した様子が影を潜めている。ひどく疲れた顔をしているのは、戦いの後という事だけが理由ではないだろう。
「うん、エスリン様が治療してくださったおかげでね。……アレクにも心配かけたわ、ごめんね」
「いや。お前は元気そうで安心したぜ」
 真正面から受けた、鋭い剣の一閃に倒れた自分。
 意識を失うまでには至らなかったものの、そのまま戦闘を続けることはどうしたって不可能で、戦線からは離脱することになった。幸運にも傷はそこまで深くなかったらしく、癒しの杖の力を受けてしばらく安静にしていただけで、今はこうして動けるようになっている。傷痕こそ残れど、今後も騎士として戦いを続けるのに影響は無いと言ってよかった。
 ――傷を負った、自分の方は。
「……彼は大丈夫じゃないのね、やっぱり」
「……ああ、ずっと部屋に篭ってる。声も掛けたんだが、今は誰とも会いたくないってよ」
 それはアレクの表情と言葉から――否、最初から分かっていたことだったけれども。
 絶望の淵に立たされているであろう恋人のことを思うと、溜息すらも出てこなかった。今回の戦いで最も深く傷を負ったのは他でもなく彼に違いない。そしてそれは、杖では決して治すことが出来ないのだ。悪くすれば彼は一生その傷を抱えたままであり続けるだろう。たとえ僅かでも、それを塞ぐことが出来るなら――。
「行くのか?」
 アレクの問いかけに小さく頷いて、ナマエはサロンを後にした。
 恋人にとって、今一番会いたくない相手は間違いなく自分であるだろう。それでも、どうしても会わないわけにはいかなかったのだ。

 バサークの杖。
 理性を奪い、闘争本能を増長させる効果がある。
 そんな狂気の杖の生贄に選ばれたのが、自分の恋人だった。
 精神を掻き乱された彼は、敵と味方の判別さえもつかなくなってしまったのだろう。人が変わったかのように周りの敵兵を斬りつけたその剣が、次に向かった先は傍で戦っていた自分だった。
 あまりに突然過ぎる戦いぶりの豹変は訝っていたものの、まさか自分に斬りかかってくるとは思ってもみなかった。そうして、抗うことも出来ないままこの身体に傷を受けたのだ。
 結果から言えば、自分は割合何事もなく生きている。
 けれども、彼はそうではないのだ。
 生真面目で正義感の塊のようなあの男は、どれほど自分を責めていることだろうか。一体どれほど、苦しんでいることだろうか。誰よりも誠実なあの男は。

 男に宛がわれた部屋の前で足を止める。
 ドアに控えめなノックを送れば、しばらく間を置いた後にくぐもったような声が聞こえた。
「……悪いが、今は誰にも――」
 言葉の終わるのを待たずに、ナマエはドアを開け放った。
 不躾だというのは勿論承知の上だった。けれど男の顔を見るには、こうする他なかったのだ。ドア越しに声をかけようものなら、恐らく部屋に立ち入ることは叶わなかっただろうから。
 ベッドに腰かけて項垂れていた男は、弾かれたように立ち上がる。
 目と目が合った瞬間、彼は息を呑んだ。ひどく憔悴しきったその顔が瞬く間に狼狽の色に染まる。
「な、何をしているんだ……! 今は安静にしていなくては駄目だろう!」
「もう平気よ。それに、わたしよりあなたの方が重症だと思ったんだもの」
 後ろ手でドアを閉めながら言う。
 男はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、座るように促すと観念したのか再びベッドに腰を下ろした。それに倣うように、自分も隣に落ち着く。彼の横顔はひどく暗い。いつもの覇気は微塵も感じられなかった。
「……気にしないでって言っても、無駄なのよね」
「……」
「ねえ、あれはあなたの所為なんかじゃ」
「ナマエ」
 ――本当に、済まない。
 言葉を遮って告がれたその声は、喉の奥から無理やり絞り出したような、微かで震えるものだった。
「私には君と口を利く資格などないんだ」
「っ、そんなことない!! あなたが悪いんじゃないわ! わたしはあなたを責めたりなんてしてない……!」
 それは紛うことなき本心だ。
 自分たちのような騎士は、剣や槍での戦いを得意とする代わりに魔法への抵抗力は決して高くない。闇の司祭が操る魔杖に抗うのは至難の業なのだ。その標的に自分が選ばれていたとしたなら、彼と同じように誰とも知らず味方に斬りかかっていたに違いない。
「お願いだから、もう自分を責めるのはやめて……!」
「……君が許してくれようと、私は自分を許すことなど出来ない」
 吐き捨てるように、男は呟いた。
 彼の膝の上、白くなるほどに強い力で握られた両手がわなわなと震えている。
「一歩間違えば、私は君を……君を殺していたかもしれないんだぞ!」
 言ったきり、男は頭を抱えてしまった。
 自責の念に苛まれているだろうことは彼の性格から分かっていたけれど、これほどまでに思い詰めた様を直に目にするとどうしようもなさに打ちひしがれそうになる。
 あの時、彼の凶刃を受け止めることが出来ていれば良かったのだろうか。恋人を救うことのできない自分がひどく歯痒かった。
「……ねえノイッシュ」
「……」
「あなたに本気で斬られたとして、わたしが生きていられたと思う?」
 暫しの沈黙の後、静かに口を開いてみる。
 男の落とされた肩がぴくりと動いた。宥めるような調子で、ナマエはそのまま言葉を続ける。
「あなたはわたしを分かってくれていたのよ。だからこれだけの怪我で済んだの」
 男の様子の急な変化に戸惑っていた自分は隙だらけだった。そんな状態のところへ、必殺の一撃を得意とする彼に突撃されたのだ。自分が今ここに居なかったとしても、何もおかしくはなかった。
 けれども自分は生きている。こうして動き回るのに支障ない程度の傷だけで済んだ。
 もしも杖の魔力が完全に男を支配していたのなら、自分は彼の言うようになっていたかもしれない。だが、彼は全てを明け渡してはいなかった。錯乱した意識の中でも、どこかで自分を自分と分かってくれていたのだ。
「わたしはこうして生きてる。それだけじゃ、答えにはならない?」
「しかし……やはり私は……」
「ノイッシュ!」
 ある意味、業を煮やしたのかもしれない。
 ナマエ自身も予想しなかったほどの声の大きさに、男は驚いたように顔を上げた。
 確かにナマエは苛立っていた。それが男に対してなのか、自分に対してなのかは分からなかったが。
「あなたは、わたしを好き?」
 今この時に、なぜそのようなことを口にするのか。そうとでも言いたげな、心外そうな表情を浮かべて彼は自分を見ている。
「無論だ……! そうでなければ私は」
「だったら、抱きしめて」
 先程男がしたのと同じように、言葉を遮って強引に続ける。
 浮かべられる困惑したような表情も、今までの悲痛で死にそうなそれよりは遥かにましだと思った。
「ナマエ……?」
「今すぐ、その手で触れてみせて。それがわたしへの唯一の償いだわ。だから、」
 ――怖がらないでよ。
 言葉が終わるのと、ぐらりと身体が傾いだその瞬間は重なっていた。
 壊れ物を扱うかのような手つきとは程遠い。ただひたすらに、ありったけの力で以て抱きすくめられた。まるで自分の存在を確かめるかのように、強く。男の中で何かが崩れたのかもしれない。身体は軋むほどに痛かった。彼の震えが直接伝わってきて、今さら傷痕が疼く。

 本当は。
 彼に命を奪われるなら、それもまた本望だと思っていたのだけれど。

 古いベッドがぎしりと唸って、世界はぐるりと反転する。視界の端に薄暗い天井が見えた。この胸の傷が彼をどれだけ恐怖に突き落としたのかを分かっていて、そんな事を考える自分の方が余程狂っているのかもしれなかった。どこまでも生真面目なこの男には、口が裂けても伝えてはならない。不器用な彼を愛しいと思うことに変わりなどないのだから。
 ――ゆるしてくれ。
 耳元で掠れた懇願の声が、背中をひどく震わせた。