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風道

 一頭の飛竜に率いられた千頭の天馬は、一頭の天馬に率いられた千頭の飛竜に勝る。そんな格言を唱えたのは誰だっただろう。
 わたしたちマギ団には強力な指導者が足りない――そのことにはみんなが気付いていたけれど、だからといってそれを簡単に連れて来られるのなら苦労はしない。辛うじて抵抗勢力としての形を成してはいたけれども、わたしたちも所詮は烏合の衆に毛が生えた程度に過ぎなかった。同志たちは日を追うごとに一人また一人と倒れていき、組織の壊滅はもう時を待たないと言われてしまうような有様だった。
 この手でマンスターを取り戻す日を迎えることは、きっと叶わないんだろう。口には出さずとも、誰もが心の中にはそんな思いを隠していた。わたしたちを支えていたのは、マンスターの民としての意地、ただそれだけだったのだ。たとえこの街の全てが帝国に飲み込まれてしまったとしても、最後の最後まで戦い続けることに意味があるのだと。たとえ肉体が死に絶えようと、志はついに屈することはなかったと誇りながら祖国に殉じることが出来るのならばそれでいいと、そう思っていた。彼がわたしたちの前に現れるまでは。
「……ナマエ、そんなに気を張る必要はないだろう?」
「駄目です。用心するに越したことはないんですから」
 アジトの近辺を歩くのにも、気を抜くことは出来ない。この辺りまで帝国軍の侵入を許した前例はないはずだけれど、それでも警戒を怠るわけにはいかないのだ。
 本当は護衛なんて必要ないくらいに、彼が途方もない力を持っていることは知っている。けれど、この人の命はあまりにも重いから。
 ある日風のように現れたこの人は、今では勇者と呼ばれるマギ団のリーダーとなっていた。
 今のわたしたちには、彼――セティ様の存在が全てであると言っても過言じゃない。何しろセティ様はたった一人で、壊滅寸前だったわたしたちを帝国に対抗しうる組織にまで変えてしまったのだから。見たこともないような神々しい魔法を使いこなす圧倒的な力に加えて、彼にはこれまでマギ団の誰も持たなかった統率力と求心力があった。失われていく一方だった仲間は瞬く間に増えていって、気付けば老若男女誰もが彼を慕っている。マンスターの人間にとって、彼はまさに救世主だった。
 けれど、それだけ彼の影響力が大きいということは、彼を失った時の反動もそれ以上に大きいということに他ならない。本当はそんなことなんて考えたくもないけれど、セティ様という支柱を失えばわたしたちはいとも簡単に瓦解してしまうのだということは分かりきっていた。せっかく帝国と渡り合えるところまで来たのを、絶対に無に帰すわけにはいかない。確かに団員一人一人の成長にも目を瞠るものがあるし、それぞれ着実に力をつけてきてはいるけれども、それもやっぱりセティ様の存在があってこそ、だと思うから。
 だから、何としてもこの人だけは守らなければならない。
 マンスターのために、圧政に喘ぐ民たちのために、でもそれだけじゃなくて。この温かくて優しいひとを、わたしは絶対に失いたくなかった。
「心配しなくても、ここは安全だ」
「万が一ということもあります」
「ずっとそんな調子では、きみも休まらないだろう」
「大丈夫です。これがわたしの役目ですし」
「しかし……」
「わたしのことより、どうかご自分の安全に気を払ってください。何かあってからでは遅いんです」
 正直なところ、気は立っていなかったと言えば嘘になる。
 つい先日に偽のアジトが襲撃を受けたばかりだったから――といっても、それを想定して作っておいたダミーだったから実害はほとんどなかったけれど――わたしを含め主に警護や警備を担当している兵たちは特に神経を尖らせていたのだ。
「……私はそんなに信頼がないのだろうか」
「そういうことを言ってるんじゃありません!!」
 そんなこともあって、つい声を荒げてしまった。
 セティ様も本心から今のようなことを言ったわけじゃないんだって、そんなことはすぐに理解できたはずなのに。
「わたしの代わりなんていくらでもいます、でもあなたの代わりは他の誰にも出来ないんです。あなたが力を貸してくれる前のマギ団がどんな状況だったか……セティ様もご存知のはずです」
 どうして言葉を止められなかったのかは、自分でもよく分からない。ただ。
「今のわたしたちには、あなただけが頼りなんですよ……!?」
 我に返ったのは、決して言うつもりのなかった言葉を口にしてしまった後だった。

「っ、ごめんなさい……!」
 ――馬鹿だ。
 わたしはなんてことをしてしまったんだろう。こんなことを言いたいわけじゃなかった。これじゃあまるで、マンスターを解放するためだけの道具扱いじゃないか。
 負担をかけてはいけないのに。ただでさえ、彼は市民たちの希望を一手に担っているのに。
 誰でもいいわけじゃない。力を持っていれば、わたしたちを導いてくれるならば誰でもいいだなんて、そんなわけじゃない。セティ様がセティ様だから、皆は信じてここまで来ることが出来たのだ。たとえこの身と引き換えになっても守りたいと願ったのは、彼がマンスターの救世主だからじゃなくて、セティ様というひとだから。その思いに間違いはないのに、あんなことを言ってしまうなんて本当に馬鹿みたいだ。
「いや、私の方こそすまなかった。冗談のつもりだったのだが、意地の悪いことを言ってしまったな……」
 俯いたままで動けずにいるわたしの肩に、そっと手が乗せられる。
 気遣うような声と仕草になおさら自分の短慮が情けなくなって、顔を上げることは出来なかった。
「ナマエ」
「……」
「私は決して、きみたちを見捨てたりはしない」
「……ごめんなさい……」
 分かっている。そんなことは分かっている。だって、セティ様は優しいから。
 果たすべき目的があってやって来たはずの国は、彼に応えることは出来なかった。少し前までこの街にいたという彼の尋ね人は、セティ様がここに着いた時にはもう旅立った後だったのだ。それでも、すぐにでも追っていればどこかで次の手掛かりを得られたかもしれないのに、セティ様はマンスターの民を哀れんで力を貸してくれた。何のゆかりもないはずのわたしたちを救う、それだけのために。
「……だが、きみは一つ誤解をしている」
 いつの間にか頬に添えられていた手に促されて上向いた先で、緑色の双眸がまっすぐにわたしを見ていた。
「確かに私は自分に出来る限りのことをしてきたし、これからもそうするつもりだ。けれど、私一人の力だけでは何も出来はしない。今もこうして戦えているのは、私を信じてくれるきみたちがいるからこそなんだ」
「セティ様……」
「自分の代わりはいくらでもいるときみは言ったが、それは間違いだ。いつも必死に私を守ろうとしてくれるきみだから、私は安心して命を預けられる」
 ――まあ、少し頑張りすぎだとは思うのだが。
 ふっと表情が緩められる。
 彼の言葉に、彼の眼差しに、わたしたちは何度救われてきたんだろう。
 この人の生み出す全てのものには不思議な魔力が宿っているんじゃないかって、本当にそう思えてしまう。
「きみのことは心から頼りにしている。これからもよろしく頼むよ、ナマエ」
「はい、セティ様……」
 彼がいてくれるなら、どんな奇跡だって叶えられるような気がする。
 そして、それを単なる気のせいなんかで終わらせないために。暖かな風の中で、わたしはまた決意を新たにするのだった。

 彼がわたしたちにくれたものは途方もなく大きすぎて、もしかしたら一生かかってもその恩に報いることは出来ないのかもしれない。
 それでも、かつての平和なマンスターを、民たちが穏やかに暮らせる街を取り戻すこと――きっとそれが、セティ様に一番喜んでもらえることだと思うから。
 この街が甦る瞬間を、セティ様に見て欲しい。セティ様と一緒に見届けたい。わたしたちがどれだけ勇気づけられてきたのか、そのほんの少しでも分かってもらえたらいい。そしてその時、わたしたちは心からの感謝と共に、誇りを持って彼に伝えることが出来るんだろう。
 ――あなたが守ってくれた街は、こんなに素敵なところだったんだって。