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それでも生きたいと願うのは

 九死に一生を得るような経験をしたのは初めてだった。
 油断したのか運が悪かったのか、それとも単に相手との力量差が大きすぎたのか、今となってはどれでもいいことだけれどとにかく先の戦いで自分は致命傷を受けたのだ。盾を構える間もなくまともに斬撃を食らって、剣を取り落とした挙句に落馬したその後は一体どうなったのか覚えていない。次に気が付いた時には身体中に包帯を巻きつけられていて、医務室のベッドの上で身動きが取れないという状況にあった。
 傷が癒えるまでに時間はかかるが、いずれはまた戦えるようになるという。
 激戦のさなかに荷物になるだなんて本当に申し訳ない限りなのだが、代わる代わる自分を見舞いに来てくれる何人もの仲間たちのためにも、今は早く治すことを考えるしかない。特に主君に対しては痛いほどに心配をかけてしまったようで、意識が戻ってから数日経った今でも彼は毎日様子を見に来てくれていた。
「……あの、」
「何だ?」
 ただ、毎日自分の前に姿を見せていたのは主君だけではない。
 もう一人のそれが、いま腕の包帯を取り替えてくれている大陸一の弓使いと呼ばれる男だった。
 彼ほどの人間が、会いに来てくれるどころかこうして世話まで焼いてくれるだなんて、自分にはあまりにも分不相応なのではないかと思う。そこまで気遣ってくれなくても、と一度申し出てはみたものの、彼は好きにさせろと言って聞かなかった。そういうわけで今は素直に甘えさせてもらっているのだが、一つだけが不満あるとすれば、彼の手つきは大怪我を負った人間を相手にするには僅かばかり労わりを欠いているような気がする、ということだった。
「痛いです」
「そうだろうな」
 声にも出してみると、そう返されて睨まれる。並の女よりも余程美しい容姿をしたこの男のそういう表情は少し怖い。思えば、ここへ来る彼の機嫌はいつもあまり麗しくはなかった。
 その不機嫌が自分の身を案じてくれる故のことだと分かっているから、結局は何も言えないのだけれど。

 ――ナマエ、お前は死ぬな。
 ――時には逃げても構わん。だから必ず生き延びて欲しい。
 以前に彼から告げられたその言葉は、ずっと自分を混乱させていた。
 彼ほどの人間が、なぜ自分ごときにそんなことを言ってくれるのかが理解できなかった。そうして理由を尋ねれば、尚のこと訳が分からなくなったのだ。
 "お前に好意を持っているから……と言ったら信じるか"。
 まさか、と思った。
 その思いのままに、何か考えがあっての発言だろうと返したし、彼自身も打算だと言った。ただ、それでも生きていて欲しいと彼は繰り返した。誰かに面と向かってあれほどはっきり「死ぬな」と言われたのは初めてだった。
 免疫のない小娘一人を手の上で転がすくらい、あの男にはわけもないことだろうと思う。事実自分は思い切り動揺させられた。それだけでなく、好意を持っていると言った彼の言葉には、確かに琴線をふるわされたのだ。
『ナマエ、あなた、心に決めた人はいるの?』
 ミディアからそんな風に問われたのは、それから数日後のことだった。
『悪い男には騙されないでね。あなたには幸せになってほしいから』
『……』
『ナマエ?』
『悪い男……、かもしれません』
 気付けば、そう口を衝いて出ていた。
 心に決めた、などというほど大層なものではない。ただ、心から離れない、と言えば確かにそうだった。
『え!?』
『あ、いえ、その……根が悪い、というわけでは。ただ、腹の底では何を考えているのか分からないというか……読ませない、というか』
『それって、もしかして……』
『……素敵な人だとは思うんです。だけど……』
 結局その後に言葉を続けることは出来なかった。
 あの双眸が戯れを言っているようには思えなかった。本当はそれくらい分かっていた。
 だからきっと、自分は言葉通りに彼の思いを受け取るのが怖かっただけなのかもしれない。

「……約束、しましたもんね」
「……? 何の話だ?」
 正直なところ、斬られた時にはもう駄目かもしれないと思った。
 軍人である以上はいつそうなってもおかしくないし、初めからその覚悟はあった。もちろん最後まで主君に随従してこの戦いを見届けたいというのが一番の願いだけれど、戦場で斃れるというのは騎士たる者の理想的な在り方の一つでもある。マルス王子は命を捧げるのに十分すぎる主君だ。彼の通るべき道を切り拓くために戦った結果がそれならば、本望じゃないか――。
 諦めにも似たそんな思いが頭を過ぎった時、それをかき消して自分を繋ぎとめたのは他でもなく、生きろと言ったこの男の言葉だった。
「あなたが、死ぬなと言ったから」
 応えようと思った。応えたいと思った。
 彼がああ言ってくれたから、だからこうして生き長らえることが出来たのだ。
「……死にかけていいとも言っていないんだがな」
 男の表情に、ようやく笑みが戻る。
「ジョルジュさん」
「うん?」
 打算だと思った。打算でもいいと思った。そう思うことで自分を納得させてきた。
 けれども、今は違う。
「あなたのあの時の言葉……、今なら信じられます」
 だからこれからも、彼の願いを守り続けよう。その傍らに、きっと帰って来られるように。
「……そうか」
 少し驚いたような表情の後に、ふっと口元を綻ばせる。
 ベッドが緩く軋んで、影が静かに視界を覆った。