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Je t'aime mon amour.

 目が覚めたとき、辺りはまだ闇に包まれていた。
 物音ひとつしない静けさと、部屋の中にあってもひんやりと冷たい空気。夜明けまでには、まだしばらく時間があるように思われた。明かりになるようなものは、カーテンの向こうにぼんやりと浮かぶ月の光だけだ。
 おそらく眠りに落ちてからそれほど時間は経っていないはずだが、いつもの寝起きのように思考に靄がかかったような感覚はなかった。それほどぐっすりと眠っていたのだろうか。身体の方にはひどく倦怠感が残っているのだけれど。思えば、意識を手放す直前の記憶はひどく不確かであった。
 ――少し、明りを灯そうか。ベッド脇のサイドボードの上には、シンプルだけれども上品な装飾のされたランプが置かれている。起き上がらずとも、手を伸ばせば何とか火を点けられそうな距離だった。けれども、一瞬の思案の果てに、ナマエはその行為を思いとどまる。
 少しでも動けば、傍らで眠る男を起こしてしまいそうで。
「……ラインハルトさま、」
 静かに、男の名を呟く。
 返ってきたのが規則正しい寝息だけであることを確認してから、ナマエは男の肩口にそっと頬を寄せた。
 ――信じられない。
 触れている肌から伝わる体温が確かなものだと分かっていてもなお、真っ先に頭に思い浮かぶ言葉はこれだった。夢だと言われた方がむしろ納得できるのではないかと思う。心地よい温かさを自分に与えながら隣で眠っている男は、どうしたって届かないくらいに遠い存在だと思っていたから。
 恋い慕ってやまなかった男の誰よりも側に、今自分はいるのだ。
 しかもそれは、他でもない彼自身によって、そうすることを望まれたのだった。

「……ナマエ……?」
 不意に、掠れたような、気だるさを帯びた声に名前を呼ばれた。
 つい心臓が跳ねたのは、おそらく気取られてしまっただろう。傍らの男は少し身じろいでから、緩慢な動きで身体を横向かせる。そうして互いに向き合う形になり、僅かな距離で視線が交錯した。
 暗がりといえども、表情を捉える事くらいならさして難しくもない。男はひどく穏やかな笑みを浮かべていた。
「……身体は、痛まないか?」
 ナマエは緩く首を振る。
 痛みはなかった。倦怠感――といっても心地よい種類のものだ――は未だに身体を支配していたが。
「そうか、それなら良いんだ」
 ……さっきは少し、無理をさせ過ぎたからな。
 吐息とともに言葉を吐き出すと、男はナマエの鎖骨の下あたりに唇で触れた。
 彼の言葉と行動から、そこに昨日まではなかった鬱血の痕があるのだと気がついた瞬間、数時間前のことが今更ながら鮮明に思い出されてどうしようもなく恥ずかしくなった。まるで身体中に電撃の走ったような、あんな感覚は自分にとって未知のものだった。
 今までに、周りの男たちに言い寄られたことがないわけではない。けれども、士官学校に入ってからゲルプリッターに入隊した今まで、軍人であることを至上の使命としてきた自分には、誰かと夜を過ごすどころかまともに恋人すらできたこともなかったのだ。

 ――あの時、男と自分とを隔てるものは、空気ですら存在しなかったかのようだった。
 今よりももっと、顔も声も温度も全てが近過ぎて。乱れた息遣いが聞こえるたびに、ざわりとした波が背中を駆け抜けていった。ひどく熱っぽい声で名を呼ばれれば、それだけでどうにかなりそうなくらいに身体が震えた。
 熱に浮かされたような感覚のまま死んでしまうのではないかとさえ思った。抑えられない声は、自分のものなどではないようで。
 溺れていたのだと思う。
 与えられる感覚に、ではなく。彼の存在それ自体に。
「ナマエ」
「はい、」
「何を考えている?」
「……分かっていらっしゃるのに、お聞きになるんですか?」
 満足したように、男は口許を綻ばせる。
 ゆるゆると伸ばされた片手がナマエの頬に触れた。無骨な親指が、慈しむように頬を撫でる。その心地よさに目を閉じれば、今度は瞼に小さな口づけが降りてきた。すぐ側で発せられた低い声は、蕩けてしまいそうになるくらいに甘い。
「そう拗ねてくれるな。……私とて、お前のことしか考えていないさ」
 どうしようもないほどの愛しさと苦しさが溢れそうになる。
 彼もまた、同じ想いでいてくれているだろうか。そうであるようにと願いながら、泣きそうな瞳をゆっくりと開く。変わらず穏やかな笑みがそこにはあった。
 縋るように男の名を呼びかけた小さな声は、ひどく優しい口づけの中に消えていくのだ。