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cinderella
「ナマエ!」
太陽が沈みかけ、外の空気がだんだんと冷たくなる夕刻。
その日の軍務を終えて騎士舎へ帰ろうとしていたナマエを遠くから呼びとめたのは、敬愛する上官の声だった。
「ラインハルト様?」
振り向いた時には既に、男はこちらへ向かって走って来ていた。
なんとなく申し訳ないような気分になりつつも、彼は数秒と経たずに自分の側まで走って来てしまう。いかがなさったんですか、とナマエの言葉も待たず、彼にしては珍しくも切羽詰まったような様子で、男は口を開いた。
「お前、この後任務は無いはずだな?」
「え、あ、はい。もう今日はなにも」
「何か予定は?」
「特にありませんが……?」
「よし、ならば来てくれ。あまり時間が無いのだ」
突然のことに驚く暇も与えず、男はナマエの手を引いて歩き始めた。
言葉通りの急いた歩調に慌てて足を合わせる。一体どうしたというのだろうか。私的な都合を聞かれた辺りで、特別に緊迫したような事態がある訳ではなさそうなのだが。
「あの、何かあったんでしょうか?」
「いや……何かあるのはこれから、だな」
「これから……ですか?」
「来れば分かるさ」
釈然としないまま、男に連れられて城を後にし、やって来たのは城下町の一角にあるブティック街だった。
……いったいどこが、「来れば分かる」のだろう。
こんな場所など、軍人である自分にとってはほとんど縁のないところだった。何年も昔に、両親に連れられて数度来たことが無いわけでもないが、それだって四つか五つくらいの本当に幼い頃なのだ。現に周りを歩いているのは貴族ばかりだった。
やがて一軒の店の前――高級さを思わせる外装だ――までくると、傍らの男は足を緩めようともせずに、豪華な装飾のついたドアを開けた。来客を知らせるベルが、大きな音を立てる。
奇妙なことに、迎える店員が言った言葉は「いらっしゃいませ」ではなく「お待ちしておりました」だった。
「手はず通りに頼む」
「かしこまりました」
店に入るなり男はそう言い、即座に店員が承知の意を返す。
思いきり置いてけぼりを食らった感覚に、ナマエは戸惑うことしか出来なかった。まるで男も店員も打ち合わせていたかのような口ぶりだ。いや、実際に自分の知らない何かを彼らは打ち合わせていたのだろうが。
「あ、あの……?」
「ナマエ、お前は大人しく彼らの言う通りにしていろ。いいな?」
――後で迎えに来る。
そう言い残すと、男は身を翻して店からさっさと出て行ってしまった。呆気にとられたままで、半開きになったドアを見つめる。本当に何なのだろうか、一体。
「このままでも十分素敵なんだから、とっても美しくなるに違いないわ!」
「ラインハルト様のご依頼ですもの、はりきって仕上げなくっちゃね」
状況の把握できないナマエの後ろで、店員たちの楽しそうな声がした。
***
「あの……ラインハルト様……」
歩きながら、隣の男におずおずと声をかける。
そうして足下の注意が散漫になった瞬間、歩き慣れない靴が災いしてついよろめいてしまった。男が腕を支えてくれたから良かったものの、下手をすれば転んでしまうところだった。そんなことをすれば、見た目も着心地も高級としか言いようのないドレスが台無しになってしまう。
「大丈夫か?」
「は、はい、すみません……! 靴が慣れなくて、」
あれから――店に置き去りにされてから小一時間、少しも気の休まる時が無かったような気がする。
貴族御用達の洋品店とはああいうものなのだろうか。着せ替え人形よろしく、あれやこれやと持ってこられては身につけさせられ、こっちの方がいい、いやこっちだと店員の言い合いが繰り広げられては、また新しいドレスやらアクセサリーやらが持ってこられるだなんて。延々と続くその繰り返しには正直参ってしまった。やっとでそれが終わったかと思えば、今度は髪を弄られるわ顔を弄られるわで本当に落ち着かなかったのだ。
高いピンヒールの靴は、ひどく歩きにくかった。
普通に歩くのでさえ辛いというのに、見目に気遣って膝を曲げないように神経を使わなければならない。ドレスだって着慣れないのだ。危うく着せられかけた、フリルのふんだんにあしらわれたそれよりはまだいいが、今身に着けているものにしたってスリットが深すぎて落ち着かない。おまけに化粧だってそうだった。式典の時などはそれなりにしないこともないが、こんな風に頬にも瞼にも色々と塗られたのは初めてだった。
「……そこまでは気が回らなかったな。辛いのなら、抱えてやるが?」
「とっ、とんでもないです!!」
遠慮することはないだろう。その言葉に思いきり首を振りながら姿勢を正せば、苦笑を返された。
「それなら、ゆっくり向かうとしよう。思ったより早く準備が終わったからな。時間に余裕が出来た」
そうして、再び歩き始める。
今度はよろめいたりしないよう、足下に視線をやれば、前方に薄く広がる水溜りに細身のドレスを纏った自分の姿が映っていた。こういう場合、得てして自分自身では客観的な判断が出来ないものである。店員は大絶賛といった体で、「蝶のように美しい」だとか「花のように可憐」だとかそんな言葉を並べ立ててはいたが、それはまあ社交辞令というものだろう。確かに自分が自分でないような気はしたが。
「――ラインハルト様、」
先ほど聞けなかったことをもう一度問うべく、口を開いた。
「どうした?」
「……なぜわたしなどをお選びになったのですか?」
そもそも、何のために自分が着せ替え人形にさせられることになったのか。
それは化粧を施されているときに店員から聞くことができた。男の古くからの友人の誕生祝賀パーティーが、今夜行われるということだったのだ。けれどもこういった夜会には、配偶者なり恋人なりといったパートナーを同伴するのが常である。そういうわけで、何故だか適当な相手のいない――その理由が本当に分からないのだが――男の相手役として、自分が借り出されたということだった。まあ、彼の妹君が軍務でフリージを離れていることを考えれば、部下として勤めの長い自分が最も手頃な位置にいたのかもしれないが。
「こういうのは嫌だったか?」
「い、いえ、決してそのようなことは……! ですが、わたしではラインハルト様のお相手などとても務まりませんでしょう……!」
ナマエにしてみれば、それは卑下などではなく、ただ男と自分との見目や身分の差を考え併せて純粋に辿り着いた結論のつもりだった。
それなのに、
「そんなに謙遜することはないだろう。それともお前は鏡を見ていないのか?」
――とても綺麗だよ、と。
綺麗なのはどちらの方だ、と言いたくなるくらいの笑みを向けられてはかなわない。
「……」
「何だ、まだ納得がいかないのか?」
「…………ラインハルト様が……わたしのために恥をかかれることの無いよう、努力いたします……」
そんな風に言われては、こう返すしかないではないか。
それ以上何も言うことができなくて、ナマエは顔を赤くしたまま俯いた。
「――さて、見えてきたな」
男の声に顔を上げると、まだ少し遠くではあるが、視界の先に立派な館が映った。
その周りには、招待客であろう人々が小さく見える。色とりどりのドレスは遠くからでも煌びやかに輝いていた。彼らのほとんどが由緒正しき家柄の貴族たちなのだろう。そう思うと、自然と背筋が伸びていた。自分にとってはある意味初陣よりも切迫した心境だったのだが、そんな様子が面白かったのか、傍らの男はふっと笑みを漏らした。
「そう緊張するな。いつも通りにしていればいいさ」
「と言われましても……!」
「自信を持て、ナマエ。――ほら、」
目の前に、大きな手が差し伸べられる。
困ったように顔を伺えば、男は穏やかな表情で頷いた。おずおずとそこに自分の手を重ねれば、それは優しく握られる。どんなに著名な貴族たちの集まる夜会の中にあっても、彼以上の男性を見つけることなど出来はしないだろう。ふと、そんな思いが頭を過ぎった。
手と手を重ねて歩くうちに、ハイヒールの歩きにくさはそれほど感じなくなっていた。
「……そう言えば、」
「?」
不意に、男が立ち止まる。
重なった手に引かれて、自分も同じように足を止めたのを確認すると、男は多分に含みのある笑みを浮かべながら言葉を続けた。
――さっきの質問の答えだ。
果たしてどんな質問をしたのだったか。思い出す前に告がれたその答えは、おそらくこれから会場で経験するであろうどんな出来事よりも、ひどく自分を狼狽させることになるのだ。
「……私が見たかったのだ。美しく着飾ったお前を、な」
重ねられた手が軽く持ち上げられる。
騎士の礼そのものといった体で膝をつくと、男はナマエの手へと静かに口づけを落としたのだった。
「――では参ろうか、お嬢さん?」