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世界を変えることば
自室の鏡に映る自らの姿に、ナマエはもう何度目とも知れないため息をついた。
昨日――いや今朝までは、腰には届かないまでもそれに近いくらいの長さがあった髪。
それが今は、肩の辺りで切り揃えられている。
鋏を入れたのは他でもなく自分自身ではあるけれど、それは全くもって本意ではなかった。ただ必要に迫られてそうしたに過ぎないのだ。
今回の任務は、辺境の街を荒しているならず者の掃討という大して骨の折れるものではなかった。
本来ならばゲルプリッターが出動するまでもないのだろう。実際に平生これを率いている将軍は王都で別任に就いていたし、派遣されたのは彼以外の騎士の中の、いわゆる少数精鋭といったところだった。
ゲルプリッターの精鋭が、辺境の山賊相手に後れをとるはずがない。
自分の中にそうした油断が生まれていたことは否定できないだろう。殲滅したと思ったその矢先に、仕損じていた敵が最後の力で以て投げた手斧が、ナマエの首の横を通っていったのだ。
反射的に放ったトロンで、敵は事切れた。
そうして背筋を流れる嫌な汗を自覚した時。顔の左側で、自分のものであるはずの髪がはらりと風に散っていった。
ともすれば今頃ここにはいなかったかもしれないと言うのに、髪が失われたくらいで嘆く自分はどこかがおかしいのかもしれないけれども。
――綺麗だ、と。
そう言ってくれる存在がなければ、こんな髪など惜しくはなかった。
忘れもしない、ゲルプリッターへの配属が決まった日。
ずっと憧れていた将軍の側で戦うことが出来るのだと、跳び上がらんばかりに歓喜した。自分にとってこんなに嬉しいことはなかったように思う。浮き立つ心をなんとか抑えつけて、執務室へ挨拶に向かった自分に、彼は活躍を期待していると言ってくれた。それから。
――綺麗な髪だな。
そう言って、笑った。
予想もしなかったその言葉に、しどろもどろになりながら謝辞を述べたのも覚えている。
軍役に就いてからは、そんな風に褒められることなどほとんど無かった。上官から讃辞を受けられるとすれば、それはもっぱら武勲や功績についての事であったし、それ以外の内容があるだなんて思いもしなかったのだ。ナマエ自身、自分は軍人であるのだからと見目に気遣うことを疎かにしていたし、それが当然の在り方なのだと疑ったことはない。今でもそうだった。
けれども、そんな自分の髪を綺麗だと彼は言ってくれた。
だからこれだけは大切にしようと思ったのだ。その日以来ナマエは髪を伸ばし続けた。時折整える程度にしか、鋏を入れることもしなかった。
……そうしてきたはずが、この有様だ。
彼のために大事にしてきた髪は、左側だけ無様に切り落とされてしまった。
たかが山賊相手に、という事実が、どうしようもない喪失感をさらに増幅させる。さすがに見るも無残な髪形のままでいるわけにもいかず、短くなってしまった位置に合わせて全体を泣く泣く切り揃えた。
あの時、もっと慎重にさえなっていたならば。いくら嘆いたところで、失われたものが戻ってくるはずもないのだけれど。
そのまま暫く鬱屈とした心地に沈んでいたナマエを現実に引き戻したのは、小さなノックの音だった。
「――ナマエ、いいか?」
次いで聞こえてきた声は、他でもなく思考の中心にあった人物のものだ。
心なしか、声色が気遣わしげに聞こえる。おそらく任務の報告は受けているだろうから、もしかすると自分のことも伝え聞いているのかもしれない。下手をすれば取り返しのつかないことになりかねなかった、そのことに対する叱責ならいくらでも受けられる。けれど、避けられないことだとは分かっていても、こんな姿を彼にだけは見られたくなかった。
返事の代わりに、扉を開けることで呼びかけに応じる。
彼の顔を見ることはできなかった。
「ナマエ、」
「……申し訳ありません」
「……何故謝る」
「……」
「とにかく、顔を上げてくれ」
心ならずも言われた通り顔を上げれば、藍色の瞳が心配そうに自分を見ていた。
男は何かを言いたげにしていたが、さすがに部屋の入口に立たせたまま話をする訳にもいかない。とりあえずと中に招き入れ、ナマエは扉を閉めながら男に聞こえないほどの小さなため息を吐いた。
「……不覚でした」
男に向き直り、先に口を開く。
叱られた子供のような声を笑うこともせずに、目の前の男は首を振った。
「怪我は無いか?」
「はい、それは大丈夫です」
「そうか。……しかし、本当に可哀想なことをした」
まるで自分の事のように、気遣わしげな面持ちで男は言う。
余計に気を煩わせてしまう自分が心底腹立たしかった。今回のことは、注意力が散漫だった己の非でしかないのだ。それなのに、男は一歩間違えれば大惨事になりかねなかったという醜態を責めるどころか、他人にしてみれば些末でしかないような事柄で自分と同じように心を痛めてくれている。彼の部下としても一人の武人としても、情けなくて仕方がなかった。
反面、そんな風に自分を気に掛けてくれる事をひどく歓喜する心はあったけれども。
「一度も短くしたことが無かったからな。――大切だったのだろう?」
あなたが綺麗だと言ってくれたから、こんな髪でも大切にしていたんです。
そう告げたなら、彼は笑うだろうか。
着飾ることよりも、強くなることが全てだった。ずっとそれを第一に考えてきた。
誰より想い慕うこの男に対しても、騎士として傍らに在ることを選んだのは自分だ。その為に今までたくさんのものを蔑ろにしてきた。
けれどこの髪だけは。彼が綺麗と言ったこの髪だけは、ただひとつ自分を女でいさせてくれたから。
「……ラインハルト様……?」
結局言葉を返しあぐねていると、不意にすっと伸ばされた手が左耳の横から髪の中へと差し入れられた。
慣れない感覚に一瞬背筋がぞくりと粟立ってしまう。短くなった髪を指先に絡ませながら、男はその一房をそっとすくい上げた。
「……私が側にいてやれれば、こんな事にはさせなかったのだがな」
「ラインハルト様がお気になさることではありません……! そ、それに髪などすぐに伸び――」
控えめな香水が鼻腔をくすぐるのを感じた瞬間、ナマエは言葉を失った。
男の指に絡む自分の髪。
そこに落とされた、静かで優しい口づけ。
「――伸びるのを見ている楽しみもある、か」
耳元の空気が震えて、目を閉じることも出来ない。
触れられた箇所の孕んだ熱が、じわじわと身体を浸蝕していくような気がした。そこには神経など通っていないはずなのだけれど。
途轍もなく長く感じられた数秒が過ぎると、男の指先からは流れるように髪がこぼれ落ちた。先程と同じ香りを伴いながら、ゆっくりと身体が離される。ふわりとしたその余韻が空気に融けてしまったそのあとで、名残惜しげに男は呟いた。まだ仕事を残してきているのだと。
部屋の扉へ足を向けた男を呆然と目で追うナマエの視線の果て、彼は一度だけ振り返る。
そうして、殊更ゆっくりと口角を持ち上げた。
「ナマエ」
「っ、は、はい」
「言っておくが、今の長さも新鮮で私は好きだぞ」
さらり、と。
まったく何事もないといった風で、男はそう言ってのける。思わぬ追撃に反応することすら忘れてしまったナマエに小さく苦笑を返すと、ひとことの別れを置いて彼は部屋を後にしていった。
ようやく我に返ったナマエは、無意識に男の触れていた箇所へと手を運ぶ。
どくんどくんと脈を打つのは指先に走る血管だけれど、伝わる温度を錯覚と呼ぶにはあまりにも温かすぎた。
どうしようもない程に沈んでいたのは、一体いつのことだったのか。あんな台詞を口にしてみせる彼もさることながら、自分の都合の良さには呆れを通り越して感心さえしてしまった。ああして触れられただけでまた、一層特別なもののように感じてしまうだなんて。
――どうかしている。
静かになった部屋で、小さくこぼれ落ちた吐息はひどく熱っぽかった。