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誓い
"わたし、この身に代えてもあなたをお守りいたします。"
大真面目にそう告げて大笑いを返されたのは、彼の副官となってどれくらい経った頃だっただろうか。
ひとしきり笑った後になってから、真っ赤になって固まってしまった自分を無遠慮に抱きしめた男は耳元で優しく囁いた。
それは逆だと。
部下を守るのが、上官の役目なのだと。
――だから手の届く場所にいろ、ナマエ。決して私から離れるな。
「どうした、ナマエ? 今日はずいぶん甘えたがるな」
からかうようなその声音は、いつもと比べるとほんの僅かにだが沈んでいた。
それは恐らく彼自身も気付いていないであろう、本当に些細な違いだったけれど。一度感じ取ってしまったそれを看過することなどが、自分に出来るはずもなかった。彼の心に満たされないものがあるのならば、この手でそれを埋めてしまいたくなる。
「……わたしだって、偶には甘えたくなることくらいあります」
胸元に頬を寄せれば、大きな手が頭に乗せられた。髪を撫でる彼の手は、いつだって自分を安心させてくれる。
けれど、今は自分よりも彼を。
どうしたらいいのだろう。どんな言葉を告げれば、少しでも彼を救うことが出来るのだろう。
「……寂しかったか?」
こうして二人きりで会う時間を持つのは暫くぶりのことだった。
だからもちろん、彼の言うように寂しかったことは事実だ。しかし、だからと言って素直に頷いていいものかどうかは迷ってしまう。
今、自分が男と共に過ごせているのは、彼がイシュタル王女の守役を外れたからに他ならないのだから。
ゲルプリッターがこの北トラキアへ招集を受けてからも、彼は王女に同行して本隊とは別行動をとっていることが多かった。
レンスター東門での戦いの際にも彼は戦線には加わらず、コノートへ向かった彼女に随伴していたのだ。褒められた行動ではない、と不満を述べる兵がいたことも確かだが、その時の王女の様子が落ち着かなかった――彼女と愛人関係にあるユリウスが高熱を出し、容態を悪化させたためらしい――ことを考えれば、守役の彼としては当然のことだったのだろう。
けれども、王女の傍らに控える騎士の存在が、ユリウスの気には召さなかったらしい。
その後、彼らの間にどのようなやり取りがあったのかは自分の知るところではないが、結局ラインハルトはイシュタル自身の命によって、彼女の傍を離れることとなってしまったのだ。
「……だが、これからはお前を妬かせることもなくなるな」
不意に降ってきた予想外の言葉に驚いて顔を上げれば、男は含みのある笑みを浮かべていた。
「や、妬いてなどおりません……っ!!」
王女が幼い頃から、ラインハルトは彼女を守り続けてきたのだ。
彼らの間にあるのが、家族のような絆で強く結ばれた信頼関係なのだということを自分は知っている。
だからこそ反射のように言葉を返してしまったのだが、こういう時、ナマエは彼のことをずるいと思うのだった。
そのことで――イシュタルのことで傷ついているくせに、当の彼自身が茶化してしまうのでは、自分にはどうしようもなくなってしまうではないか。
「本当か?」
「本当です……!」
「そうか……、それは残念だ」
言葉とは正反対の表情をして、男は言う。
戯れは嫌いではない。むしろ、彼に構ってもらうことには幸福を覚える。しかし今に限ってはそれが苦しかった。
確かに、王女を羨ましく思ったことなど一度もない、と言ってしまえばそれは嘘になる。
けれども、彼が大切にしていた役目を果たせなくなったことを悲しみこそすれ、そこに身勝手な感情と結びついた歓喜などがあるはずもないのだ。
「……わたしはラインハルト様を信じておりますから」
こぼれ落ちた自分の声はひどく弱々しかった。
誰よりも辛いのは彼の方だと分かっている。分かっているからこそ、抑えようとしないで欲しかった。それは勝手な我侭なのかもしれない。けれど自分の前では、せめて自分の前だけでは、無理に押し殺すことなんてしないで欲しい。
あの時笑われてしまった願いは、今でもこの胸に抱いている。何に代えても自分が守りたいのは、彼の身だけではないから。
「……悪かった。そんな顔をしないでくれ」
肩を引き寄せられ、視界が塞がれた。
痛いくらいの力で抱き込まれて、息が苦しくなる。
このまま融け込んでしまえたのなら、彼の抱える苦しみを代わることが出来たのだろうか。
「……ラインハルト様……」
王女のことだけではない。数日のうちに戦場で相対することになる解放軍には、男の妹であるオルエンも身を置いているのだ。もちろん彼女を説得出来ることを信じてはいる。それでも、去来する不安は拭い去れるものではなかった。
「ナマエ」
応えてあげたい。
「お前は……私の傍から離れるな」
「はい。誓って」
求められるのならば、それ以上のもので応えたい。
自分は王女の代わりにも、妹の代わりにもなれないけれど、彼の願いを守ることなら出来るから。
離れるなと彼が命じるのなら、いつまでもその傍らに。
たとえ、いつか、この手が他の何をも為せなくなったとしても。彼の傍に在ることだけは、それだけは絶対に違えはしない。
***
祖国から遠く離れたトラキアの地を流れる大河は、降り注ぐ太陽の光を反射して水面を輝かせていた。
幾人もの血を飲み込んだというこの河に、自分たちもまた消えていくのだろう。
けれども、不思議と恐れはなかった。
将を失った軍勢が総崩れになるというのはよくある話だ。
一軍を統率する者の力が大きければ大きいほど、それが失われた時の衝撃もまた大きくなる。
そしてこの時、確かに神話は崩壊したのだった。
聖戦士トードの再来と謳われる、常勝無敗の武人の散華と共に。
「ラインハルト様……?」
地に叩きつけられた身体は既に骨の何本もが折れていたが、それでも辛うじてまだ使える状態ではあるらしい。
思い通りには到底動かせないが、痛覚が麻痺しているのだろうか、痛みはほとんど感じられなかった。
ゲルプリッターを、そしてその指揮官たる男をよく知る者ならば誰でも、この状況を信じられないと思っただろう。だが、自分たちの敗北は紛れもない事実だった。
――後は、至上の使命を果たすだけ。
何よりも大切な誓いを果たすだけ。それが最後の、自分に出来るたったひとつのことだった。
利き腕は既に立たない。
うつむけに伏した身体、もう他方の腕を地について支えにしながら、やっとのことで顔を持ち上げる。
数十歩ほど前方に、霞む視界は彼の姿を認めた。
「そんな所に……いらっしゃったのですね……」
声に滲むのは、この場にはどうしたって似つかわしくない安堵。
倒れた姿を目にして気を緩ませるだなんて、どうかしていた。けれど、彼は確かにそこにいるのだ。焦がれて止まなかった深い藍色に、ナマエはこの世で最後の光を見た。
鉛のような身体は引きずれど引きずれど、意志に反してなかなか前には進まない。
ようやく彼に触れられる距離にまでたどり着いた頃には、自身に残された時間もほんの僅かになっていた。
「……ラインハルト様……」
答えはない。
彼は目を開けてはくれなかった。
自分は彼を守ると言ったのに、先立つことを許してしまった。
彼は自分を守ると言ったのに、自分のことを置いていってしまった。
それでも彼の願いだけは、まだ破られてはいないから。
「どうか……ご安心ください……」
震える自分の手をゆるゆると口元まで運び、手袋の端を歯で噛んだ。なけなしの力で食いしばって押さえ、手首を横に引いて布から抜き出す。
それから腕を伸ばして、掴んだ男の手。
上手く動かない指先でどうにか彼の手袋も外してしまったなら、剥き出しになった手と手を重ねて出来る限りの力で結び合わせる。
ああ、この人の肌は、こんなに温度が低かっただろうか。
与えられるだけの体温も、自分にはもう残っていないのだけれど。
「……わたしも……すぐに、参ります、から……」
涙で滲む視界。
本当は、最期に彼の声を聞きたかった。一度だけでも、彼に名を呼んで欲しかった。
けれど、それは叶わないから。ならば自分が、彼の名を呼ぼう。
「ラインハルト、さま……」
幾千もの幸せを、惜しげもなく与えてくれたひと。
自分もまた、彼に同じだけの幸福を与えられていただろうか。そうであることだけを、今はただひたすらに願っていた。
「わたし……は……、……最期、まで……あなたの……おそば、に…………」
――誓った約束は、永遠に果たし続けることができるから。