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失われた時をもう一度

 失うことの怖さに耐えられなくて、逃げ出した想いがあった。
 あの頃のわたしはどうしようもなく臆病で、どうしようもなく意地っ張りで、それでもどうしようもなく、彼のことが好きだった。
 永遠を夢見ていた幼い恋心を自らの手で終わらせたくせに、結局捨て切ることが出来ずにいるそれは、今も未練がましく心の奥底に押し込んである。
 あれが、きっと、わたしにとってただ一度の恋だった。

 彼とわたしは同じ士官学校で出会った。
 名家の生まれであり、剣と魔法のどちらをとっても非凡な才能を持っているということで入学当初から彼は有名な人物だったから、その名前だけは顔を見る前から知っていた。
 初めてその姿を見たのは、一度目の合同演習が行われた日。この時わたしは――わたしだけじゃない、その場にいた誰もが、彼の圧倒的な実力を目の当たりにすることになったのだ。力強く、それでいて洗練された剣技。轟く雷鳴の如き、鋭い魔法の一閃。その全てが話に聞いた以上のものだったし、何よりも彼の纏う雰囲気は明らかに他の士官候補生たちと違っていたのだった。
 はっきりそうだという自覚はなかったけれど、その時にはもうわたしは彼に惹かれていたのかもしれない。けれども、折り紙つきの才能に加えて見目までも麗しかった彼の周りにはいつもたくさんの人間が集まっていたから、結局は自分には手の届かない、別の世界の存在だと思っていた。あの日、彼がわたしに話しかけてくるまでは。

 魔法騎士を目指して学校に入ったのは、現役時代にゲルプリッターの一員として戦っていた父に憧れたからだった。
 けれどもわたしが父からそれなりに受け継ぐことが出来たのは魔道の能力だけで、父のご自慢だった剣の方に関しては、残念ながらその資質の恩恵にあずかることは出来ていなかった。剣を置いて魔道を専門に極めた方が能力を生かせるんじゃないか、と教官に言われたこともあったくらいだ。でも、それでもわたしは魔法騎士になりたかった。今までに見てきた父の姿も、思い描いてきた自分の姿も、簡単に捨てられるものではなかったのだ。
 だからこそ、夢を叶えるためには人一倍の鍛錬が必要だった。そして、そんなわたしに剣を教えてくれたのが彼――ラインハルトだった。
『右手に力が入りすぎている』
『!?』
 意地っ張りだったわたしは苦手な剣を練習しているところを誰にも見られたくなくて、寮から少し離れた場所にある立ち入り禁止の森の中でいつもこっそりと訓練に励んでいた。
 だから、まさかそんなところに人が現れるだなんて思ってもみなかったのだ。
 背後から声を掛けられたというだけでも本当に飛び上がりそうになったというのに、振り返った先にいたのがあのラインハルトだったものだから、わたしは驚きのあまり剣を取り落としてしまった。しかし彼はそんなわたしの様子など意に介さないかのようで、こちらのすぐ側まで近付いて来たと思えば、草の上に落ちたばかりの剣を拾い上げたのだった。
『それから、もう少し手首を使うといい。――こうだ』
 実に鮮やかに剣を振って見せる彼の前で、わたしはしばらくの間ものも言えずに固まっていた。手首をどう使えばいいのかも全く頭に入っていなかったし、狼狽と緊張とでどうにかなってしまいそうだったのだ。
『あ、あの、』
『君はいつもここで練習をしているのだろう?』
 それなのに、彼はわたしの言葉を遮ってこんなことを言う。
 知っていたよ、と。浮かんだ穏やかな笑みが、動揺でめちゃくちゃになっていた頭の中を一瞬で淡い色に塗り替えた。
『必死で剣を振っている姿が、気になっていたんだ。……良かったら、名前を聞かせてくれないか?』
 ――これが、わたしたちの出会いだった。

 それから、わたしたちはいくつもの季節を一緒に過ごした。
 寮を抜け出して、誰もいないこの場所で彼と二人で剣の修行をした。
 彼がわたしを呼ぶ言葉が「君」から「お前」に変わって、わたしは彼をラインハルトと呼ぶようになって。あの時抱いた憧れ以上に彼に惹かれるようになるまでに、そう時間はかからなかった。
 ――好きだ、と告げられたとき、どれだけ嬉しかっただろう。
 畏友と呼ぶべきだった存在が想い人になって、それから恋人になっても、誰も知らないこの場所でわたしたちはいつも一緒にいた。
 けれども、結局わたしは彼から逃げることになってしまった。
 劣等感の種なんてものは、もともと自分の中にあったのだと思う。
 彼と共に過ごす時間の中に代え難い幸せも感じていながらも、わたしはそれが育っていくのを止めることが出来なかったのだ。
 ある日、彼とわたしは自分たちが出会った頃の話をしていて、その時に彼が、わたしの存在を知った理由――わたしが一人森の中で剣を振っていたのを知った理由を聞かせてくれたことがあった。
 それは、彼も以前から一人で訓練をしていたからだった。
 わたしと出会うまでは場所こそ森ではなかったけれど、彼も同じように人目のないところで訓練を積んでいたのだ。そうしているうちにある日偶然わたしの姿を見かけて、気になって後を追ってみれば、森で練習をしているところに出くわしたのだ、と。
 彼の言葉に、わたしはしばらく何も言う事が出来なかった。
 生まれついた才能を持った人間には努力など必要ない、そんな風に思っていたわけじゃない。そうじゃない、けれども彼が告げたその事実はわたしの心の中に深く突き刺さった。彼ほどの人間であっても、誰も知らないところで一人努力を重ねていたのだ。血の滲むような努力を。だからこそ今の彼があるのだと、そう思い知らされた気がした。
 ――どうしたって、追いつけないと思った。
 彼はいつか離れていってしまう。隣を歩き続けることの出来ないわたしを置いて行ってしまう。彼は優しいから、きっとわたしのために何度も振り返ってくれるだろう。でも、その度にわたしは彼の歩みを止めてしまうのだ。そんなことが重なって、いつか彼が辟易してしまったとしたら?
 彼の傍にいられることはどうしようもなく幸せだった。けれどそうであるほどに、わたしは自分がそれを享受するのに値するかどうかに疑問を抱かずにはいられなくなっていた。
 劣等感は日を追うごとにゆっくりと、でも確実に肥大し続けていた。いつの間にか伸びていた蔦は、もう振り払えないほどに足に絡みついていた。そうしてそれはいつしか、彼と一緒にいられる幸せを浸蝕してしまうまでに大きくなっていたのだった。
『わたしはもう、あなたの傍にはいられない』
 士官学校での、最後の日のこと。
 それぞれ別の部隊に配属が決まって、卒業と同時にわたしは彼に別れを告げた。


 あれからもう何年になるだろう。
 卒業以来、彼とわたしが話をすることはなかった。城内や訓練場で偶然会ってしまうことは何度かあったけれども、その度にわたしは彼の前を逃げるように去っていたし、彼がわたしを呼び止めることもなかった。わたしたちはそれぞれの場所で、それぞれの為すべきことをしていたのだ。
 魔法騎士になるという夢も叶えて、従軍してからの日々は苦しいこともたくさんあったけれど充実していた。そしてわたしは、次の戦いからパウルス将軍率いる第5軍団で一大隊を預かれることが決まったのだった。自分で言うのもなんだけれど、自身の年齢と性別も考え併せればこれは大拍手ものの昇級だった。
 嬉しくない、はずがなかった。
 それでもわたしは今、自身の内にぽっかりと穴をあけた欠落感を払拭出来ずにいる。その原因なんて、分かりきっていた。
 わたしがここまで来ることが出来たのは、ラインハルトのおかげだと言っていい。その彼は、今度からイシュタル王女の下でゲルプリッター騎馬隊の総指揮を任されることになったのだ。
 素直に喜ぶことが出来ずにいるのは、わたしではやっぱり彼の隣には居られない、とそう言われているような気がしたからだと思う。そんな風に思ってしまう自分には嫌気が差したけれど、どうしようもなかった。わたしは今でも彼のことが好きだった。
 自分の弱さに負けて、ああして逃げ出したくせに。わたしはもう、彼の何でもないというのに。

 野外訓練場を出てしばらく歩いたところにあるこの木立は、自分だけの秘密の場所だ。
 わたしの意地っ張りは今でも直っていなくて、軍人になってからは時間のある時にここで一人訓練をしていた。
 あの森とよく似たこの場所で、わたしはただ過去の思い出に縋っていたかっただけなのかもしれない。けれど、これだけは止めるわけにはいかなかったのだ。わたしはもう彼の何でもないし、彼に届くことなんてない。でも、それを分かっていても、努力を止めたら何もかもが終わりになってしまうような気がしていた。あの幸せだった時間までもが無かったことになってしまうような、そんな気がしていたから。
 水平に構えた剣を、無心で横に振る。
 かつて彼が、わたしに教えてくれたように。

「上達したな」
 ――ああ、まるであの日のようだ、と思った。
「……相変わらず、力む癖は直っていないようだが」
 急に姿を現すのも。
 後ろから声を掛けてくるのも、まるであの日だ。
 けれども今は違う。今はもう、全てが違う。わたしはあんなに驚いたりしないし、剣を取り落としたりもしないのだ。わたしたちはもう、あの頃のわたしたちではないのだから。

「このような所で何をなさっているんですか? ……将軍」
 振り向いた先で、ラインハルトは困ったように笑っていた。
「将軍だなんて、随分とよそよそしいことを言う」
「……」
 今更じゃないか。
 わたしはずっと彼のことを避けていたのに。あんな態度を取っていたのに、どうして彼はこんなに普通でいられるんだろう。
「大隊長になったそうだな」
「……おかげ、さまで」
 彼から目を逸らし、俯いて自分の爪先を見つめる。
 今の自分があるのは本当に彼のお陰なのに、呟いた言葉は皮肉のようにしか聞こえなかった。
「……あなたこそ、」
 空気が、声が震える。心が、折れてしまいそうになる。
 どうして今更、彼はわたしの前に姿を現したんだろう。閉じ込めた想いが横溢してしまいそうになる。
 わたしは今でも彼が好きだ。どうしようもなく、彼が好きだ。だから怖い。怖くて仕方がない。彼の輝かしい地位も名声も何もかも、耳にするのが怖いのだ。わたしはどうしたって臆病だから。弱いから。あなたの隣を歩けないことを思い知らされるのが怖いから、だから。
「ゲルプリッターの指揮官となられたこと、心からお喜び申し上げます。将軍のご活躍をお祈りしています」
 失うことの怖さに耐えられなくて、逃げ出した想いがあった。
 今のわたしもあの頃と同じで、どうしようもなく臆病で、どうしようもなく意地っ張りで、それでもどうしようもなく、彼のことが好き、だけれど。
「……それでは」
 ただ一度の恋に背を向けて、わたしはまた再び逃げようとしている。

「ナマエ」
 歩き出したはずのわたしの身体は、固まったように動かなくなった。
 久しく聞いていなかった自分の名前を、彼はこんな風に呼んでいただろうか。こんな、苦しげな声で。
「……お前がずっと悩んでいたことは、知っていた」
 ぐらり、足許が揺らいだ。
「私がお前を不安にさせていることは、知っていたんだ」
 いつから。いつから彼は、気付いていたというのだろう。
 後ろ暗い感情なんて、ひた隠しにしていたはずだった。あの時だって、たった一言だけを置いてわたしは彼の反応を待たずに逃げたのだ。
 だって、彼が悪いんじゃない。悪いのは全部、臆病なわたしの方だ。それなのに彼は、まるで自分のせいであるかのように、自分を責めているかのように。
「それでも、どんな言葉で救えるのかが分からなかった。私は結局、お前に何もしてやれなかった。……だから、あの時もお前を追い掛けないことが最善の選択だと思っていた」
 だが、と言葉を切る。
 小さく息を吸う音が聞こえた。
「……耐えられないんだ」
 絞り出すような声音に、わたしはとうとう振り向いてしまった。
「私はお前を傍に置いておきたい」
「……なに、を……」
 一歩ずつゆっくりと、彼が近付いてくる。わたしは動けない。顔を逸らすことさえ出来ずに、ただただ立ち尽くすばかりでいる。
「たとえそれで、お前を苦しませたり泣かせたりすることになっても」
 痛いほどの力で両肩を掴まれる。
 彼の手が、震えている。
「……これ以上は、耐えられない」
 ナマエ。
 今にも消えてしまいそうな声で、彼はわたしの名を呼ぶ。苦しげに寄せられた眉根。どうしてだろう。藍色の瞳の向こうにあるものに、今になって手が届きそうだと思うなんて。
「私には……お前が必要なんだ……」
 彼はそう言った。
 縋るように、祈るように。
 わたしは訳が分からなくなる。どうしたらいいのだろう。どうしてこんなわたしが、彼の傍にいることを許されるというのだろう。
 ――違う、いつだって彼はわたしのための場所でいてくれた。わたしが勝手に、それを捨てただけじゃないか。でも、だったら尚更どうして。だってあなたは分かっているんでしょう。わたしの、どうしようもない弱さを。それなのに、どうしてわたしが必要などと言うの。どうしてそんなに、泣きそうな顔をするの。
「……ライン、ハル、ト……?」
 自分ばかりが、彼を頼っていると思っていた。
 彼がわたしを大切にしてくれていることなんて痛いくらいに分かっていた。けれどもこんなにも求められていただなんて、どうして今まで気付けずにいたのだろう。
 わたしはずっと、彼にこんな思いをさせていたのだろうか。
 この優しいひとから、逃げ続けたばかりに。
「……許して……くれるの……?」
 ラインハルトは真っ直ぐにわたしを見ている。
 いつだって見守っていてくれた瞳。あれからもう二度と向けられることはないと思っていたその中に、今確かにわたしが映っている。どうしようもなく弱くて、臆病なわたしが。抱えきれないほどの幸せを与えられておきながら、身勝手な劣等感で全てを投げ出したわたしが。
 それでもまだ、彼はわたしを求めてくれるというの――?

「……まだ、間に合うの……?」
 言葉で確かめる必要なんて、もうなかった。
「間に合わないことが……あるものか……」
 わたしを包み込む腕が、彼の温度が、全てを伝えてくれていたから。
「わたしたち、やり直せるの……?」
 それでも言葉にせずにはいられないわたしは、やっぱり臆病だ。
 強く掻き抱かれた身体は苦しかった。視界は塞がれて何も見えない。見えないはずなのに、それはひどく歪んでいる。目の奥が熱い。彼は、こんなにも温かい。
「違う、続きだ……」
 そうだろう、ナマエ。
 応えるようにいとしいひとの名を呼ぶことを、わたしはもう躊躇わない。
 続きの始まりのキスは、涙の味がした。

 失うことの怖さに耐えられなくて、逃げ出した想いがあった。
 今のわたしもあの頃と同じで、どうしようもなく臆病で、どうしようもなく意地っ張りで、それでもどうしようもなく、彼のことが好きだった。
 あの日のように、わたしはこれからもきっと何度だって不安になる。彼のことを想うほどに、きっと何度だって怖くなる。
 だから、手を引いていて。離さないで、掴んでいて。背を向けることを許さないで、いつまでもずっと縛り付けておいて。

 ――ただ一度の恋から、もう逃げ出すことのないように。