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12時の鐘は鳴らない

「……」
 ドレスとショールの掛けられたハンガーは、他のものと比べてひどく小さく見えた。
 どちらかと言えば殺風景なこの部屋に全く調和することなく、煌びやかなそれは異様な存在感を放っている。
 しかし、まさかこれらを兵舎の部屋に持って行くわけにもいかないのだから、この一人暮らしの借家に置いておく他はなかったのだ。休日くらいにしか帰れないこの部屋に置いたままにしておくというのも、それはそれで不安ではあるけれども仕方がない。
 これを身に纏うことになったあの夜は、未知の経験ばかりでどうなるかと思った。
 あの男が一緒であったからこそ何とか乗り切ることが出来たものの、大貴族の社交場独特の雰囲気には完全に飲まれそうになってしまったのだ。ラインハルトの友人たちは気のいい人物ばかりだったけれども、それにしたって緊張のあまり自分がどんな応対をしたのかも覚えていない。立場上、軍関係の貴人は自分もよく知るところではあるが、それ以外の――たとえば芸術家だとか大商人だとかそういう方面の賓客は、同じ貴族でもまるで気風が違った。相手にするときは適当に相槌を打つしかなかったし、変に専門的な話を振られないかとひやひやしたものだった。実際には、主にナマエ自身のことについて、こちらが参ってしまうほどの質問攻めに遭うばかりになっていたのだが。

 自分のような人間を、なんとかああいう場に立てるほどのレベルに見せかけてくれたのは、間違いなくラインハルトの存在とこの衣装だろう。
 あの後、自分はてっきりこれらを店に返しに行くものだと思っていたのに。
『ああ、それはお前のものだ』
『ええ……!?』
 夜会の帰り道で、ラインハルトからそんなことを言われたのだ。
 着せつけられている時には値段を見る間も与えられなかったのだが、こういうものに疎い自分であっても、これがいかに高級な品物であるかは容易に分かるほどだった。それなのに、
『ナマエは日頃から良くやってくれているからな。その礼とでも思ってくれればいいさ』
 などと結局例の笑みでもって押し切られてしまったのである。
 嬉しくないわけがなかった。
 けれど、彼には本当に色々なものを与えられてばかりなのだ。もちろん微力は尽くしているつもりだけれども、彼の厚意に見合うだけの働きが出来ているのかと疑問に思うこともある。とはいえ、それに報いる手段など、自分には仕事しかないのだけれども。

 ……それにしても、目の前で光るドレスをどう扱っていいものかが全く分からない。
 ああいう機会でもなければ着ること自体なかなかないのではと思うのだが、部屋にあるクローゼットにそのまま入れておくのはどこか違う気がする。おそらくドレスカバーか何かは必要だろう。その手の店で、扱い方も一緒に聞いておけばいい。
 久々の丸一日の休暇日は、街へ出ることにした。


 ***


「ナマエさん」
 声を掛けられたのは、買い物を終えて家に戻ろうとした時だった。
 振り向いた先には、先日の誕生会の主役であった、ラインハルトの友人が立っていた。慌てて姿勢を正し、それから直角に腰を折って、挨拶と先日の謝辞を述べる。
「堅苦しいなあ。もっとくだけてくれていいのに」
「そのような……!」
 確かに、夜会で会った中ではこの男が最も気さくな人物だったように思われた。
 彼とラインハルトが本当に親しいというのは、二人を見ていてすぐに分かったことだ。しかし、それならば余計にラインハルトの友人に無礼を働くわけにはいかない。
「……まあいいか」
 夜会の場でもずっとこんな調子だったからか、彼の方も諦めてくれたらしい。
「この間はどうだったかな?」
「と、とても素晴らしい経験をさせていただきました」
「それは良かった」
 含みのある笑みだった。
 そういえば、自分が彼らの友人たちに囲まれてがちがちに緊張しているところを、この男は楽しそうに見ていたような気がする。
「ところで、ラインハルトは一緒じゃないのかい?」
 まさか、と首を振った。
 あの場では色々な相手から多大に誤解をされてしまった上に、それが解けたか解けていないかも微妙なところなのだが、上官とああして私的な時間を共にすることの方が珍しいのだ。
「そもそもわたしは、本来ならば仕事外であの方と出歩けるような立場ではありませんから」
 男は数度目をぱちくりとさせた後で、なるほど、と小さく呟いた。
「これじゃあ、あいつも苦労するよな……」
「え?」
 上手く聞き取れなかった言葉を思わず聞き返してしまったのだったが、何でもないよと緩く首を振られてしまう。
「それより、見たところ買い物があるようだけど。一人なら付き合うよ」
「いえ、もう用事は終わったところですので」
「だったら家まで送ろう」
「それには及びません……!」
「友人の大切な人を放っておくわけにはいかないだろう?」
 ラインハルトの笑みを彷彿とさせるようなそれを向けられて、ついたじろいでしまった。
 貴族というのは皆こうなのだろうか。しかし、あの上官にはいつも押し切られてばかりでいるものの、この男に自分の部屋まで送らせるわけには絶対にいかない。そんな面倒をかけるだなんてとんでもない、というのも勿論のことながら、一度ラインハルトの連れとして夜会に参加した以上、自分の家をこの高貴な男に見られることはどうにも躊躇われるのだった。がっかりされることを恐れているのではないし、この男がそういうことで人を判断するような人物でないことは分かっている。それに、決して貧相な家というわけではないのだけれども、それでもやはり気が引けてしまうのだった。
「こ、これでも軍人ですから! それに、わたしはただの部下だと申し上げております……!」
 頑なに固辞すれば、今度はやれやれと肩を竦められてしまった。
 機嫌を損ねてしまったのかと一瞬背筋が凍りついたが、そうではなかったらしい。目の前の男は溜め息を苦笑に変えながら、いいかい、と諭すような口振りで言った。
「あいつが夜会に女性を連れてきたのは、妹を除けば君が初めてなんだよ」
「……それは、たまたまオルエン様がいらっしゃらなかったというだけでは……」
「いいや。以前なら、オルエンがいない時は一人で来ていた」
 だから毎回、お前はいつになったらちゃんとした相手を連れてくるんだ、とからかわれていたんだ。
 今こうしてこの男と話している自分の方が余程からかわれているのではないかと思ったが、その口元こそ緩く弧を描いているものの彼の目はもう笑っていなかった。
「君があんなに珍しがられて、僕らの友人たちに囲まれたのはそのせいだよ」
 思い返してみれば、誰にも彼にもラインハルトの恋人なのかとか聞かれ続けて、否定するのが本当に大変だった。
 部下だと言っても聞く耳をもたない相手も何人かいたし、当のラインハルトだって笑うばかりで否定らしい否定をしてくれなかったのだ。
「しかし、君が大人気で囲まれていた時のあいつの面白くなさそうな顔。あれは傑作だったな。僕は付き合いが長いけれど、あんな顔はなかなか見られるもんじゃない」
 そんな、まさか。
 確かに、今回のことに限らず、ただの部下にしてはあまりにもよくしてもらっているという自覚がないわけではなかったけれども。それでも、部下思いの上官であると隊の皆から慕われているラインハルトのことだから、それも彼なりの気遣いの延長であると思っていたのだ。
「あいつは君を気に入っているんだよ」
「……」
「ああ、でも、こんな言い方じゃ君には伝わらないかな。君は鈍い上に堅物なようだからね」
 ずけずけと厳しいことを言われたが、そんなことを気にしていられる余裕ももうなかった。
 この先は、聞いてはいけない。
「はっきり言おう。ラインハルトは君を――」
「し、失礼いたします!!」
 素早く一礼してから踵を返し、逃げるようにその場を去った。
 どうしたって無礼な行為であると分かってはいたけれど、自分には耐えられなかったのだ。
 普段ならば多少走ったところで息一つ乱さないのに、身体は火照り動悸は激しくなるばかりだった。
 古くからの友人である彼が、自分よりもずっとラインハルトのことを理解しているということは分かる。分かるけれども、だからと言ってあんなことを口にするだろうか。
 もっと早く足を動かしていればよかった。
 なぜなら、聞こえてしまったのだ。

 ――ラインハルトは君を愛しているよ。

 ラインハルトにそう思われていると考えただけでどうにかなりそうだ。
 本人から直接言われたわけでもないのにこんな調子ならば、もしも彼自身に言われたとしたら……いや、そうではない、自分はいったい何を考えているのだ。そうと決まったわけではない。尊敬すべき上官が自分を好いていると妄想するなんて、失礼極まりないではないか。
 あれは単なる彼の優しさなのだ。そうだ、そうでなくては困る。
 あのラインハルトが自分を好いているなど、まさかそんなことがあるものか。あの友人が言うのは何かの間違いなのだ――。

 息を切らしながら、ようやく自宅に戻る。
 真っ先に目に飛び込んできたドレスは、その存在を自ら主張するかのようにしてきらきらと光っていた。