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Happily Ever After
『い、いけません、ラインハルト様……!』
上擦る声の、なんと情けないこと。
踵は背後の壁にぶつかり、もう一歩たりとも退く余地がない。細長い迷路の行き止まりに追いつめられでもしたのか、右にも左にも天井が見えないほど高い壁が聳えている。唯一道の続いているであろう真正面は、よく見知った相手に立ち塞がれていた。その表情に平生からの穏やかさはない。射抜くような視線だけをひたすらに注がれて、目を逸らすことも許されずにいる。
いつの間にか、身体は壁に縫い付けられていた。押さえつけられた肩は別段痛みを覚えたわけでもない、つまりその程度の力しか加えられていないはずなのに、全身が固まったかのようにぴくりとも動かない。動かすことが、出来ない。
――もう逃げられない。ナマエはそう直感した。
『何がいけない。何の問題があるというのだ。……それとも、私はお前に嫌われているのか?』
『まさか……!』
『ならば構わないだろう』
ずいと距離を詰められる。吐息が触れるほどの近さに眩暈がした。心臓の音がいっそ耳障りなほどに響いている。
ああ、この先は本当にいけない。
こんな思いには覚えがあるような気がするが、とにかくこれ以上先に進んでしまったら大変なことになる。
『ナマエ、私はお前を――……』
聞きたくない。
この続きを聞いてしまったら、自分は。
「――っ!!」
弾かれたように跳ね起きたのと同時に、ナマエの意識は朝の光が差し込む現実へと引き戻された。
何を考える前に、ベッド脇のサイドボードへと手を伸ばす。乱暴に水差しを引っ掴んでグラスに注ぎ、その中身を一気に飲み干した。心臓がまだ早鐘を打っている。深い呼吸を数度繰り返してから、もう一度グラスを水で満たし、今度は自身を落ち着かせるようにゆっくりとそれを喉に流し込んだ。
悪夢に魘されたときの嫌な脂汗とは種類が違うが、それでも背中はひどく湿っていた。夢なのだから誰に覗かれているわけでもないというのに、顔から火が出そうなくらいに恥ずかしい。決定的な瞬間の前に目覚めたことだけが救いなのだろうが、それにしたってあまりにもあまりな内容ではないか。
あんな夢を見るだなんて、本当にどうかしている。
それも全ては、昨日街で偶然出会った彼の友人のせいだ。自らの咎を他人に帰するような人間になりたくはないけれども、しかしこれに限っては謂れのない責任転嫁であるとはとても言えないはずである。全く何ということを仕出かしてくれたのだ。
とんでもない話を聞かされた昨日の今日でとんでもない夢を見て、この後何事もなかったかのように彼の副官として振る舞うだなんて自分には到底無理な話だった。
いったいどんな顔をして、ラインハルトと会えばいいというのだろう。
***
「……以上が今週の訓練の予定だ。各部隊長に連絡をしておいてくれ」
「……」
「ナマエ?」
「あ、は、はい!」
名を呼ばれ、はっと我に返った。
自己暗示と深呼吸とを何度も繰り返し、そして数分を要する一大決心をしてからこの執務室の扉を叩いたはずが、蓋を開けてみればこの有り様である。意識しないようにと努めれば努めるほどにその逆を行ってしまうというのが人の常なのか、平静を保とうとする試みは予想通りどころかそれ以上に無残な結果に終わった。何しろ部屋の中に足を踏み入れた途端、その壁の模様と今朝の夢に出てきたそれが同じであることに気付いてしまったのだ。そしてそこから自身の思考は正常に機能しなくなったのだった。
「ええと……、トロンとサンダーストームの魔道書がそれぞれ一箱ずつですよね!」
手にした帳面に走り書きされた文字を見ながら慌てて答える。実はメモを取った記憶すら残っていないのだが、意識の外側で手が動いていたことには自ら拍手を送りたかった。しかし。
「……その話はもう終わっただろう?」
少し困ったような言葉に固まること数秒。
その後、ナマエの身体は勢いよく直角に折れた。
「申し訳ありません……!」
穴があったら入りたいとはこのことか。
何が拍手を送りたいだ。結局話のほとんどは頭に入っていないではないか。これまで拙いなりにも仕事だけは真面目にこなしてきたつもりだった。軍人として当然のことではあるけれども、自分の取り柄と言えばせいぜいそれくらいだったというのに。本当に何たる失態だろう。
「いや、それは構わないのだが……どうかしたのか?」
厳しい叱責こそ自らの望むところだったが、叱り付けられるどころか案ずるように声を掛けられて尚更居た堪れなくなる。
腰を折ったまま何も答えられずにいると、やがて男が椅子を立つ音が聞こえた。そのまま自分の傍らまで来ると、恐らくは何気なくとった行動なのだろう、彼の手が肩に添えられた。
「!!」
途端にびくりと身体を強張らせてしまったのは、反射である以上はどうしようもなかったのかもしれない。けれどもこれはまずかった。彼には珍しい仕草というわけでもなく、この程度の触れ合いなどは日常的にある。
やってしまった、と思っても、もう後の祭りだった。これでは余計に怪しまれてしまう。
「……どうした。何をそんなに緊張することがある?」
「いえ、あの、なんでも……!」
「……。まずは顔を上げてくれ」
「……はい」
意を決して彼の言葉に従う。
苛立つでもなく訝るでもなく気遣わしげな表情がそこにあって、本当に頭を抱えたい気分になった。本人のものでもない言葉に勝手に取り乱した挙げ句勝手に変な夢を見たというだけで、こんな風に煩わせてしまうだなんて情けなさや申し訳なさで押し潰されそうだ。しかしそれでも、いったいどうしたら良いのかが全く分からないのだから始末に負えない。
「何があったのか、少しでも構わないから話せないか?」
「……」
言い訳の一つも思い浮かばない頭が恨めしかった。
黙り込んだところで相手に折れてもらえるとは思えなかったが、まさか馬鹿正直に全てを語れるはずもない。
「無理強いするのは本意ではないが、そんな状態では仕事に支障があるだろう。それに……見たところどうやら私にも原因があるように思えるのでな」
「そ、そういうわけでは、」
「ないと言えるか?」
「……」
藍色の双眸にひたと見つめられる。どこまでも真摯な追及に、気圧されてしまう。
ナマエはとうとう白旗を揚げた。
もう観念するしかなかった。初めから、彼を相手に嘘を吐き通せるわけがなかったのだ。
「……実はその……昨日、偶然ある方とお会いして……」
「ある方とは?」
「…………ラインハルト様のご友人です。先日お誕生日を迎えられたあの……」
ここまではまだいい。だが、この後の説明をどうつけようか。
ご冗談のつもりでしょうが、とでも言い添えればよいのか。あるいは、聞き間違いと思うのですが、の方が当たり障りがないかもしれない。いざ降参だとは言っても、やはり当人を目の前にしてあのようなことを口にするなど並々ならぬ勇気がなければとても出来はしない。言い訳が出来ない以上は白状するしかないのだろうが、どう切り出せばいいものか。
「ふ……、なるほど」
答えが出る前に、目の前からは苦笑が返ってきた。
口振りからするに、どうやら友人に会ったという内容だけで彼には合点がいったらしい。
「それで、余計なことを吹き込まれたというわけか」
その通りだ。
全くその通りなのだが、彼にはその「余計なこと」の内容に何か心当たりがあるのだろうか。もしその心当たりが実際に語られた中身と同じであったならば、すぐにでも友人のその言葉を否定して欲しいくらいだった。軽い冗談だから忘れろと、彼自身の口からそう言ってくれたなら。この期待めいた浅ましい感情を断ち切ってくれたなら、自分は楽になれるはずだから。
ラインハルトが自分を好いているなど、そんなことは何かの間違いに決まっているのだ。
けれどももし、万に一つの確率でそれが真実であったとしたら。だとしたらどんなに幸せだろうかと、心の片隅で想像してしまうことを今はまだ止められずにいる。
「……あいつはどうにも世話を焼きすぎる節があってな。悪く思わないでくれ」
「あ、はい、それはもちろんですが……」
世話を焼きすぎるとはどういうことなのだろう。彼の心当たりは、もしかすると本当に的を大きく外してはいないのかもしれない。
「しかし……他人に先を越されるとは、あまり気分の良いものではないな……」
「え?」
聞き取れないほど小さく呟かれた言葉を尋ね返すと、ラインハルトは独り言だと首を振った。
初めに比べれば幾分か落ち着きを取り戻しつつはあったが、問題はまだ肝心な部分へと行き着いてはいない。「余計なこと」の内容を質されることに備えて身構えながら、ナマエは次の言葉を待った。
「……少し話は変わるが、例の夜会で顔を合わせた中に伯爵家の息子がいたのを覚えているか?」
「……? はい、覚えておりますが……」
「その彼だが、当主を継ぐことが先日正式に決まったそうでな。近いうちに襲爵披露の宴が開かれることになるだろう」
ナマエの覚悟を余所に、話は核心から逸れたかのようだ。
他にどうすべくもなく頷いてはみたものの、男の言わんとするところはまだ見えない。
「そこでだ。私は次こそ、お前を恋人として彼らに紹介したいと思っている」
「は……、……ええっ!?」
思わず耳を疑った。
しかし目の前の男は、確かにこう言ったのだ。
――恋人、と。
「要するに」
目を見開いて固まることしか出来ない自分に、ラインハルトはさらに言葉を続ける。
「昨日お前が聞いたという話は、全て真実だということだ。もちろんあいつの口にした一言一句までは私の知るところではないが、」
初めから二人は示し合わせていたのではないか。そう思わずにはいられなかった。
逃げたいわけではないはずなのに、身体が勝手に後ずさる。どこに向かっているのかも分からないままにただただ足を退かせる、けれども開いた以上の距離を詰められたのでは何の意味もない。
かつん、と踵が何かにぶつかった。ラインハルトは小さく笑いながら、目の高さを合わせるようにして軽く身を屈める。
ああ、これはまるで。
「……ゆめ、」
「うん? ……悪いが夢ならもう見飽きたぞ」
御伽噺のように手を引かれて連れ出されたあの時からずっと、長い長い魔法にかけられているかのようだった。
けれども彼はこうして目の前にいる。
願いだったものは、全てこの人が現実にしてくれたのだ。
「ナマエ」
吐息が触れるほどの距離と、うるさいくらいの心臓の音と。ここまでは知っていた。この先を知ることはないと思っていたし、知ってはいけないような気がしていた。そんな心中を見透かしたかのように、そしてその思いをかき消してくれるかのように、男の顔には穏やかな笑みが浮かぶ。
「私は、お前を愛している」
叶えられた夢の続きは、抱えきれないほどの熱から始まった。