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悪趣味と不器用

 困っているのか悩んでいるのかは知れないが、何となくいつもと違うということくらいは分かる。
 ソファの隣で寛いでいる男は、一見何事もない様子で好き放題にナマエの髪を弄んでいた。そんな彼の所作に抗議のひとつも口にできずにいるのは、先程終えたばかりの晩餐で飲んだ酒などが原因なのではなく、まさにその違和感のせいだった。
 たとえば言葉や態度の端に何か引っかかるものが表れていた、というわけではない。つまり自分の抱いているそれは、いわゆる第六感だとかに類するような根拠の欠片もない代物でしかないのだが、けれどもナマエには確信があった。確信こそあれど、それをどう扱ったらいいのかに関しては皆目見当もつかずにいたのだったが。

 ナマエの前に立つラインハルトはいつだって穏やかだ。
 しかしいくら恐ろしいほどによく出来た人格者と言えども、彼とて一人の人間なのだから腹を立てたり悲嘆にくれたりすることだって当然あるだろう。それが軍隊などといういかにも面倒な組織に属しているのだから、人並み以上の苦労を強いられているであろうことは明らかだった。それでも彼は、少なくとも自分の前では激情を露わにするようなことはなかったのである。
 負の感情に苛まれている姿を見るよりは、彼が心安らかでいてくれることの方がずっといいのだから、それはそれで構わない。ただ、曲がりなりにもラインハルトにとっての特別な立場にある身としては、時には彼の不満のはけ口にでもなった方がいいのではと思うことだってあるのだ。問題なのはそれをどう実現したらいいのか分からないことだった。
 生来の素直でない性格は、とりわけこの恋人を相手にしている時に遺憾なく発揮されてしまっていて、日頃からラインハルトに可愛げのない反応ばかりを返しているという自覚は嫌というほどあった。今だって、この髪を撫でている彼の行為はごく普通に考えても愛情表現以外の何物でもないのだろうが、そうと認めるより先に手慰みだなんだという言葉を頭に浮かべている辺りで、ナマエは己に対して諦念を抱かずにはいられなかった。
「どうした? 難しい顔をして」
 頭上を行ったり来たりする手の動きはそのままに、笑み混じりの声が言う。自身の膝を見つめていた視線を上げると、こちらを窺うようにして緩く細められた双眸とぶつかった。
 いったん思考に没頭してしまえば、表情の制御にまではとても手が回らない。ナマエに言わせればそれが普通なのであって、考え事をしながら顔を取り繕うなどという器用な芸当が出来る人間の方が稀だと思うのだが、今はそんなことで誰にともない言い訳をしている場合ではなかった。
「……どうしたはこっちの台詞よ」
 助けるべき当の相手から助け舟が出たというのも滑稽な話だが、これに乗らない手はない。単に「難しい顔」が気になったというよりは、ナマエが何かを言いたげにしているのを見抜いた上での発言だったのであろうと思われたが、そこからは敢えて目を背けることにした。一々気にしていては、いつまでも先へ進むことができない。
「……何かあったんじゃないの?」
 ラインハルトは手を止めた。
 軽く瞠目されて、もしかするとまずかっただろうかという思いが頭を過ぎる。あまりに直接的過ぎたかもしれない、もしかしたら触れられたくなかったのかもしれない。途端に意気が萎んで、ナマエはこの手の件を上手く扱えない自身が心底恨めしくなった。そもそも苦手と分かっていながら無計画に手を出すべきではなかったのではないか――と、底無しに続くかと思われた後悔の波は、「よく分かったな」との穏やかな声によって存外あっさりと終わりを迎えることになった。
「夕食を終えたら話そうと思っていたのだが、お前の髪で遊んでいるのが愉快でつい夢中になってしまった」
「そういうのはいいから……!」
 事実だぞ、とラインハルトは手を下ろしながら笑ったが、次に彼が口を開くまでには優に十拍もの空白があった。
「……遠征の命が下ったんだ」
「遠征?」
「そうだ。二月ほど国を離れねばならない」
「……」
 それは、彼が軍人である以上は避けることのできない話だった。
 期間の長短に差はあれこういうことは今までにも度々あったし、ナマエもこればかりはどうにもならないと受け入れているつもりだ。二ヶ月ならばまだまだ可愛い方ではないか、と思えるくらいの心構えはできている。
 けれども彼は、つい先月に長らくの出向からフリージへと戻ったばかりなのだった。
「……私の部隊が出る必要があるとは思えないのだがな」
 やっとで故郷に帰還できた矢先のこの命令はさすがに応えたのか、珍しく愚痴めいたことを自嘲気味に言う。ナマエは目の前の男に同情を禁じ得なかった。
 正直なところ、軍部のことなどは伝え聞く話程度でしか理解していないのだが、聖戦士トードの再来だの数百年に一度の逸材だのと称されているラインハルトが稀代の武人であるということだけは知っている。そんな彼が振り回されている――という言い方には主観が多分に含まれているが――ことを考えても、単純に実力主義で成立しているような世界ではないらしい。諸々のしがらみはあるのだろうが、力量と家柄に関しては申し分ない彼の障害となっているのは第一にその若さなのかもしれなかった。早々に将軍位を授かり、破竹の勢いで階級を上げている彼をやっかむ者も多いと聞く。しかしラインハルトは常から仕事のことを多くは語らないので、結局大概のことはナマエの想像の域を出ずにいた。
「……仕方がないわ、命令だもの」
 だからこそ、軍人としての彼に口を挟むような真似はしたくない。
 本当は不安に押し潰されそうになることもある、寂しくて仕方がなくなることもある、なかなか言葉にして本人に伝えることはできなくともそれは嘘偽りのない気持ちだった。けれども、必ず戻るという約束を決して違えたことのないラインハルトを信じて待つということ――そんな自分なりの応え方は、きっと間違ってはいないのだと思える。
「わたしは、その……あなたが無事に帰ってきてくれれば、それでいいから」
 だから気を付けてね。そう続けかけたところで、ナマエははっと口を噤み男から目を逸らした。
 ……感傷に流されるあまり、うっかりとんでもないことを言いはしなかっただろうか。確かに本心ではあるが、意地っ張りが身上の自分としてはどうにも殊勝に過ぎたような気がする。有り体に言えば「らしくない」だ。
 そうと自覚した途端に拍動が加速を始め、頬には瞬く間に熱が集まっていく。改めてナマエは自分がいったい何を告げたのかを理解したのだったが、いよいよ耐えられなくなって身体ごと彼を背く前に、横から伸ばされた腕にぐいと肩を引かれてそれは阻まれてしまった。
「ちょっ……!」
 思いのほか強い力に両足が浮いたかと思えば、バランスを失った身体は簡単に抱え上げられ横向きに座り直させられる。一方の腕にはしっかりと背を支えられ、もう一方の手は本日お気に入りの玩具であるらしい髪へと再び。
 文句を言おうにも、引き金を引いたのが自身のらしからぬ言葉だと分かっているだけにどうにも決まりが悪い。
「ナマエ」
 名前を呼ばれるとさらに何も言えなくなってしまうのを、この男はよく心得ている。注がれる視線の中に仄かな火影が透けて見え、距離を詰められる前触れにナマエは身構えた。体勢からして圧倒的劣位をとっているこの状況では、もはや頼りになるのは持ち前の意地それだけだ。
「聞き分けのいい恋人でいてもらえるのは大いに助かるのだが、一つだけ問題がある」
 ――私は寂しがりなんだ。
 果たしてそれは耳元で言うべきことだったのか。背を震わせる波をなんとかやり過ごそうと、両手をぎゅうと握り締めて耐える。
「……だから?」
「お前が恋しくてどうにかなってしまうかもしれない」
「…………馬鹿じゃないの……」
 ――負けた。何が勝ちで何が負けなのかも定かではないが、とにかくその言葉が脳裏に浮かんだ。
 せめて完全に冗談めかして言ってくれていたのならまだ良かったものを、ラインハルトが発したのは確かに“そういう”時の声音だったから。
「何なのよもう……ほんと馬鹿なんだから……」
 こうなれば後はもう稚拙な反撃手段しか持たなかった。そしてそれは結局のところ彼を愉しませることにしかならない――。頭ではそうと分かっていながら尚も抵抗の体を崩せないのは、我ながら何ともはや、だ。
「私にそんなことを言ってくれるのはお前くらいだな。……もっと聞かせてくれないか?」
「……寂しがりのラインハルト将軍閣下は被虐愛好家の顔もお持ちなの?」
「お前のそれは心地が好いんだ」
 頭上に置かれていた手が、輪郭に沿って緩慢に下降する。こめかみを辿り、耳朶をくすぐるゆるい軌道はやがて頬へと。こそばゆいだけではない感覚にたまらず目を閉じれば、指先が下唇の上を滑っていった。
 そろそろ何も考えられなくなる。意識が飲み込まれるその前にと、ナマエは苦し紛れの憎まれ口を探した。
「……あなたって、」
 閉じた瞼を押し上げる。
 恨みがましく睨めつけたつもりが、間近の瞳に映る自身の顔にはどう見ても毒気が足りなかった。
「趣味が悪いわ。それも、すごく」
 ひどく満足げな笑みを最後に、そっと落ちてきた影が視界を遮る。次いで押しつけられる熱と、ふわり訪れる浮遊感。追いかけるようにして重ねられる体躯に後押しされ、支えを失くした背は重力に従順に服した。火照った空気の逃げ場すら、与えられないままに。
 ――ぎしり。
 物言いたげに、ソファが小さく呻き声を上げた。