Aa ↔ Aa
Good morning, my dear.
小鳥のさえずりが聞こえる。
遮光性の乏しいカーテンの向こう側から、入り込んだやわらかな陽射しが瞼の上をちらちらと揺れた。
ほんの少しだけ呼び起こされた意識は、重い瞼を押し上げることを拒んでいる。まだ、この心地よい微睡の中から抜け出したくはない。ベッドの上のナマエは、差し込む光から顔を背けるように寝返りを打った。
半身分ベッドの中央側に身を寄せれば、ふわりと漂うかすかな芳香が鼻をくすぐる。爽やかで仄かに甘い、大好きな香り。そうだ、昨夜もこの香りと温もりに包まれながら幸せな眠りに落ちたのだ――と、淡く広がる幸福感に浸りかけたところで、ナマエはふと違和感を覚える。寝返りを打てるのはおかしい。正確には、ぶつからないのがおかしい。なぜなら、この一人用の手狭なベッドにでは、肩を寄せ合って二人並ぶのがやっとのはずなのだ。
違和感の正体に気付いたのと同時に、かちゃかちゃと陶器の触れ合う控えめな音が耳に届いた。そこでようやく、ナマエははっきりと目を覚ました。
城下町に借りているこの家は、居室に台所が付いただけという、決して広くはない一部屋造りのものだった。隅に置かれたベッドからゆるゆると起き上がりながら、台所に立つ男の背中を視界に捉え、ナマエは小さくため息をついた。それはもちろん、自身に対しての落胆に他ならない。
「おはよう、ナマエ」
身を起こす気配に、男が振り向いた。
未だ気だるさを引きずっているナマエとは対照的に、その顔には爽やかな笑みが浮かんでいる。いつから起きていたのだろう。
「……おはようございます、ラインハルト様。すみません、わたしまた……」
こうしてこの家で共に朝を迎えて、ナマエがラインハルトより先に目を覚ましたためしはこれまでに一度としてない。
元々朝には弱い性質だった。確かにナマエとて一介の軍人であり、たとえば行軍中に交代で睡眠を取るようなときには、傍らには常に剣を置き、決して深い眠りに落ちることなく、少しの物音や空気の振動でもたちまち目を覚ますような身体には出来ている。だが、それもそういった状況下で気を張っていればの話だ。共に過ごす久しぶりの休日を満喫すべく、昨夜から浮き立っていたナマエの心は、張り詰めた緊張とはまるで無縁の状態だった。加えて、この場所が慣れ親しんだ自宅であるということも理由の一つだ。ラインハルトとは今や周知の仲であるとはいえ、まさか兵舎に宛がわれた部屋に互いを連れ込むわけにもいくまい。かと言って、何度か提案されているラインハルトの屋敷への招待に応じる覚悟も準備も、ナマエにはまだできていなかった。結局、互いの傍らで日付を越えられるような夜には、決まって二人はナマエの家の狭いベッドに沈み込み、翌朝は決まってラインハルトが先に目を覚ますのだった。
「構わないさ」
言いながら、ラインハルトはカップを両手に一つずつ持ってベッドへと近付き、ナマエの隣に腰を下ろした。湯気の立ち上るカップから、淹れたてのコーヒーの香りが広がっていく。
「何なら、まだ眠っていても良かったのだが」
もう十分だ、と言わんばかりに、ナマエは差し出されたカップを受け取った。
口に運んだ液体は、程よく甘い。毎度毎度朝のコーヒーを任せきりにしているせいか、いつの間にかラインハルトはナマエの好みの加減を的確に心得ていたようだった。
「……起こしてくださればよろしいのに」
「あまりにも気持ちが良さそうだったのでな。それに、お前の寝顔を眺めるのは私の楽しみでもある」
「……ラインハルト様……」
非難がましげな声音は、単なる照れ隠しだ。
彼以外の男が口にしようものならおそらく失笑するしかないであろう台詞も、この男だからこそ様になるというのが本当に卑怯だとナマエは思う。
ラインハルトはそういう言葉を憚ることも恥じらうこともない。そして、それが向けられるのはナマエただ一人だ。自分だけが知っている、ラインハルトの特別な姿。髪形一つをとってもそうだった。普段は後ろにきっちりと流してある髪は、今は無造作に下ろしたままになっている。初めてそれを見たときには、本当にどぎまぎしたものだった。今となってはさすがに心臓が早鐘を打つようなことまではないが、それでも目を奪われてしまう。
「どうした? 惚けた顔をして。まだ目が覚めていないのか?」
細められた双眸が、柔らかな笑みを湛えてナマエを覗き込む。
けれども、見惚れていただなんてとても言えない。
ラインハルトの傍らで過ごす時間は、ナマエにとってはいつだって夢心地なのだ。
「……お腹、空きましたね」
由無し事を話しながらコーヒーを飲み終えて、空になった二つのカップがベッドの脇机に並ぶ。寝起きの気だるさがどこかへ行ってしまったかわりに、やって来たのは空腹感だった。
小さく笑いながら「そうだな」と返すラインハルトは、ナマエより先に目を覚ましていた分余計にそれを感じていたのかもしれない。紅茶やコーヒーを淹れるくらいのことはラインハルトにとって造作もないが、料理となれば話は別だ。彼ほどの家柄の人間ともあれば、趣味にでもしない限りは自ら包丁を握る機会などいつまでも来ないのだろう。
そもそも、もし仮にラインハルトにその心得があったとしても、今この場で腕前を披露することはおよそ不可能だった。このところずっと兵舎に詰めていたおかげで、しばらく主の帰りのなかったこの家に残されている食材はといえば、未開封のジャムや油漬けの瓶が数点だけという有様だった。そういうわけで、多少遅い朝食をこれから作ろうと思うのならば、まずは市場に行かねばならない。けれどもその後でパンを焼いたり卵を焼いたりするとなれば、それはそれで時間がかかってしまう。その間ラインハルトを待たせるくらいなら、いっそ外で食べることを選んだ方が良いのではとナマエは考えた。
「よろしければ、今日は外に食べに行きませんか?」
「外にか?」
「はい。わたしが作ってもいいんですが、まずは買い物に行かないといけませんから、それだと時間がかかってしまいますし」
そういえば、街の教会の近くに、テラスのある料理店が新しく出来たという話ではなかったか。いったい誰から聞いた情報だったろうかと記憶を探りかけたところで、ナマエは隣の男の今一つ気が乗らなさそうな様子に気が付いた。
「私としては、出来ればお前の作った食事を二人で楽しみたいところだが……」
これにはナマエも、すぐさま外食という選択肢を投げ捨てるしかなかった。
ラインハルトが、こんな風にして自分の希望を言うようなことは珍しい。そしてその言葉に、彼がナマエとの時間をどれほど大切にしているのかを感じさせられて、ナマエはこの男が注いでくれる愛情の深さを思い知る。
「……あなたのお望みのままに」
ああ、と、満足気に頷く声。
「ナマエの手料理というだけで、私にとってはこの上ない贅沢だ」
それに加えてそんなことを告げてくるものだから、ナマエはまた気恥ずかしさに負けて、照れ隠しに逃げるしかなくなってしまうのだ。
「……ラインハルト様ともあろう方が、そんなに安上がりでよろしいのですか?」
男はおかしそうに息を漏らした。そうかと思えば、その片腕はナマエの腰へと回され、捕えられた身体はぐいと引き寄せられる。
唐突に詰められた距離はあまりにも近くて、思わず身体を硬直させてしまったナマエに、安上がりのつもりはないとラインハルトは笑った。そうしてナマエが何も言えずにいるうちに、見つからない言葉は押し当てられる熱に飲み込まれてしまう。
「……無料では味わえないだろう?」
確かに料理のことを言っているはずのそれは、男の飲んでいたコーヒーの味がわかるような口づけのせいで、何だかもっといけないことのように聞こえた。
このままでは朝昼兼用どころかただの昼食になってしまうのに、ラインハルトはどうにも離してくれそうにない。それでも従順に受け入れるほかに術を知らないナマエは、ともすれば蕩かされてしまいそうになる意識の片隅で、触れる合間にこぼれ落ちる吐息に耳を震わせた。
もしも、これが前払いだというのなら、いったいどれほどの御馳走を用意しなければならないのだろう。