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微熱

 立ち上る湯気が、額に汗をにじませる。
 鍋をかき回す手にはつい必要以上の力が籠った。中でぐつぐつと煮えているスープは、日頃から貴人に出しているそれに比べればどうしたって粗末な一品だ。だが、今の状況にあっては、それが自分に調理し得る最良のものだとナマエには思えたし、だから夕食の主菜として窯焼きにするはずだった質の良い鳥を惜しげもなく寸胴に放り込んだのだ。
 どれだけ自分が懸命になって調理をしたところで、彼を苛んでいる状況が変わるわけではない。それでもナマエは、そうせずにはいられなかった。

 この日、屋敷の若主人は朝餐の時間になっても食堂に姿を現さなかった。
 決して頻繁には帰って来られない生家で過ごす偶の休日であろうと、彼の起居はいつでも規則正しく、使用人や彼の実妹が朝を告げに寝室のドアを叩くようなことは滅多にない。もちろん、偶然今日にその稀な機会が訪れただけかもしれないし、日頃多忙を極めている彼の心身がいつもより少し長い休息を求めることだってあろう。この日は特に予定はないと聞いていたし、しばらくはそっとしておくことにしよう――と一度はそう考えたナマエだったが、やはりなんとなく気がかりになって様子を見に寝室へ足を踏み入れてみれば、ベッドの上で苦しげに眉根を寄せて荒い呼吸を繰り返す若主人の姿があったという訳である。
 大慌てで呼んだ医者は、ただの風邪だから心配はないと言い、薬を置いて帰っていった。
 素人の自分に何が分かるでもないし、医者の言葉を疑っているわけではない。ただ、それが単なる風邪だとしてもこの状況は大変な一大事だった。何しろラインハルトに仕えて数年、彼が弱っているところなど初めて目にしたのだから。

「……失礼いたします」
 控え目に声を掛けて部屋に入ると、視線だけがゆっくりとこちらを向く。男は眠ってはいなかったようだった。
「ナマエか」
「はい。お加減はいかがですか……?」
「……ああ、今は幾分か落ち着いている」
 答える声音は思ったよりもしっかりしていたが、初めて目の当たりにしたラインハルトの病に臥せた姿はそれだけでナマエを落ち着かなくさせる。おいたわしい、なんてもちろん口にはしないが、まさかラインハルトに対してそんな言葉を思い浮かべる日がやって来ようとは。
 ベッドの傍らまで近付くと、顔には微かに赤みが差しているように見えた。さすがに額に手を触れて確かめるのはあまりに不敬だろうと憚られたが、おそらく熱が上がってきているのだろう。絞った手拭いか何かの冷やすものを用意しなければ、ああでもその前に。
「ラインハルト様、食欲はおありですか? 召し上がりやすいものをご用意していますので、できれば少しでも何か口にされた方が……」
 医者曰く、薬はあくまで気休めで、滋養のあるものを食べて安静にしていることが第一。食欲のないところを無理に勧めるわけにもいかないが、その気休めの薬だって、空の胃の中に入れるのはあまり好ましくないだろう。
「……そうだな、頂こうか」
 男がそう答えたので、ナマエは内心ほっとしながら食事の準備に取り掛かった。

 ベッド脇のテーブルに食事用の盆を置き、スープの皿と果実を盛ったガラスの器を並べる。
 ラインハルトは食堂まで行くと言ったが、ベッドから立ち上がろうとしたところでふらついたのでナマエは慌てて止めさせた。病人が寝台で食事を摂るのに、行儀が悪いなどとは誰も言うまい。
「……すまない。余計な手間を掛けさせる」
「そんなことありません。どうかお気になさらないで、ご自身のお体のことだけお考えください」
「不摂生をしていたつもりはないのだがな……」
 なんとも自嘲気味な響きだった。
 慣れない不調に、身体はもちろん精神的にもなかなか応えているらしい。彼の泣き言を聞きたくないというわけではないのだが、なんとなく居た堪れない思いがして、ナマエはこの話を早々に切り上げた。
「きっとお疲れなんですよ。さあ、ご無理はせずに、召し上がれるだけ召し上がってください」
 スプーンを手に取り、ラインハルトは皿を覗き込む。
「これは……初めて見る料理か」
「はい。わたしの田舎で、風邪を引いたときにはいつもこれ、というスープなんです。お口に合うかどうかは分かりませんが……」
 もっとも、食材の質という点に関してだけ言えば、いつも通りこの家の水準を満たしているわけではあるが。
 風邪で味覚が鈍っているだろうだとか、そんな不敬な推測はもちろんしていないけれど、栄養面と身体を温める効果は保証するからこの際味が好みでなかったとしても多少は目をつぶってもらいたい。
「……美味いな。確かにこれは効きそうだ」
 匙を口に運び、男はそう言った。どうやらナマエの心配は杞憂に終わったようだった。

 結局ラインハルトはスープを二杯も平らげたので、ナマエは多少安心しながら彼が薬を飲むのを見届けることができた。
 しかしその後、再び身体を横たえた彼に毛布を掛けて濡らした手拭いを額に乗せ、それではゆっくりお休みくださいと失礼する段になってみると、たちまち戻ってきた病人然とした姿にやはり「おいたわしい」気持ちが頭をもたげてくる。
「ナマエ。何て顔をしている」
 それは表情にも出ていたらしい。ラインハルトは苦笑した。
「案ずることはない。医者も言っていただろう、ただの風邪だと」
「ですが……」
「さあ、もう下がれ。お前まで寝込むようなことでもあったら、誰が私の世話を焼いてくれるのだ」
 おどけたように言い、毛布から出した片手を軽く振って見せる。だが、こちらを安心させようとするその言動にかえって憐情を煽られるような思いがした。
 事が起こるまで、男の不調に気付けなかったことへの後悔と自責の念。代われるものなら今すぐにでも代わりたいのに、何もできないもどかしさ。そして、こんなときまで平生と変わらない彼の優しさに胸を打たれるような気持ち。
 そんな綯い交ぜになった感情が、ナマエに次の行動を取らせたのかもしれない。
「……ナマエ?」
「あっ……!?」
 気付けば、まるで祈りでも捧げるような格好で、毛布から出たラインハルトの手を握りしめていた。
 不思議そうに名を呼ばれて現状を認識し、大慌てで両手を離す。途端に羞恥心が全身を駆け抜けた。間違いなく自分が起こしたはずの突飛な行動に、当の自身の理解が追いついていない。
「し、失礼いたしました……! ええと、その……、幼い頃にひどい熱を出して寝込んだ時、母がこうしてくれて、安心したのを思い出して……つい……」
 後付けの理由というより、最早口から出任せだった。確かにそういう経験はあるけれども、それを思い返す間もなく身体が勝手に動いていたというのが事実だ。
「本当に申し訳ありません。わたし、ラインハルト様になんてご無礼を……」
 たまらず俯くと、それから数拍を置いて、ふっと笑う声が耳に届いた。
 視界の端で、ラインハルトの手が指を結んで開く動作を繰り返している。今度はナマエが首を傾げる番だった。
「……あの、ラインハルト様……?」
「手を握られると安心するのだろう? ならば、少しだけ相手を頼む」
 すぐに眠るから、と続けられた言葉に、戯れかと思って顔を上げるとラインハルトは穏やかに微笑を浮かべていた。
 これは冗談を言っている表情ではない。おまけに開閉を繰り返していた手は、今や開かれたままでナマエを待っている。何だかとんでもないことになってしまったような気がして、妙な事態を引き起こしてしまった数十秒前の自分にナマエは文句を言ってやりたい気持ちになった。――ただ、ほんの少しだけならば、賞賛してやってもいい。
 心の準備をどうにか整えて、おずおずと手のひらを重ねる。それが軽く握り返された時には、ラインハルトは既に瞼を下ろしていた。
 直に触れる温度は、きっといつもより少し高いのだろう。まだ風邪をもらったわけでもないのに、こちらの熱まで上がりそうだとナマエは思った。
 このまま暫し、彼の寝息が聞こえてくるまで。