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ひかりのひと
士官学校を卒業したときには、これから祖国の為に働けるということが本当に嬉しかった。
苦楽を共にした同期生との別れを惜しみながら、互いの武運と活躍を祈り、国への忠誠を誓い合ったあの日。任地へ向かう胸の内は、それまで歩いてきた人生のどの瞬間よりも、色鮮やかな希望に満ちていたはずだった。
月日はまだ、あれから一年も経ってはいない。それなのに、今ではもう、自分の選んだ道を後悔すらしている。――こんなことのために軍人を志したのではなかったのに、と。
初めての配属先は、とある収容所の警備隊だった。それが決まったときにも、ナマエは不満を抱いたりはしなかった。前線で敵と切り結ぶばかりが軍人ではない。捕虜の管理処遇は、その方向を誤れば我が国の品格を問われかねない重大な職務である。捕虜の身となった敵兵であろうと、彼らはその信念に従い勇敢に戦った戦士たちなのだ。ならばこちらもフリージの名に恥じぬよう、敬意と礼節を持って接しなければならない。そういう気持ちで、ナマエは初めての任務に臨もうとした。
けれども、そんな決意はすぐに無意味なものとなってしまった。そこに収容されていたのは敵兵などではなく、まだ年端もいかぬ子供たちだけだったのだから。
――子供狩り。その噂を耳にしたことがなかったわけではない。だが、それは帝国勢力下のごく一部で行われているらしいという程度の認識だったし、まさか誇り高いフリージ家がそのような非道に与しているなどとは考えもしなかった。本当に、一片の疑いすら持っていなかったのだ。家に返してと泣き叫ぶ子供たちを、ここで実際に目にするまでは。
そうして、あの時抱いた夢も希望も何もかもが打ち砕かれて、それからは失意の中で無為な毎日を過ごしている。
こんなことに加担する祖国は間違っている、そのことだけははっきりしていたけれど、だからと言って子供たちのために自分が何か行動を起こせるというわけでもなかった。家族の身を危険に晒してまで、国に手向かい裏切り者の汚名を背負う覚悟などない。彼らの両親は愛する我が子を奪われたというのに、自分の保身ばかりを考えてしまうことに心底嫌気が差した。
――そんな臆病者だから、きっと罰が当たったのだ。
「こっちだ! 早く!」
「まって、おにいちゃん!」
「ほら、急がないと帝国のやつらに――……」
非常を報せるけたたましい鐘の音と同時に、目の前に二つの小さな影が飛び出してきたとき、ナマエはそう思った。
目が合った。
その瞬間、おにいちゃんと呼ばれた少年の瞳はたちまち絶望の色に染まっていった。
――なぜ。おそらくこのとき、双方がそう思ったに違いなかった。
ナマエの持ち場は砦の外周部、つまりは屋外であり、中に囚われている者が脱獄を試みたところでここまで至ることなど考えられないはずだった。だが、現に幼い兄妹は今、自分の目の前に立っている。両親の元へ帰ることを願って、それを叶えようと必死でここまでたどり着いたであろう彼らもまた、信じられないものを見るような目をナマエに向けていた。最後の最後で望みを切り裂かれる衝撃は、幼い心で受け止めるにはあまりにも重すぎる。
「そんな……せっかくここまで来たのに……」
「お、おにいちゃん……」
剣の柄に手を掛けたのは、鳴り響いた警鐘が反射的にさせたからだ。だが、彼らの目にはそうは映らない。このとき、見回りをしていたナマエのちょうど背後には、主に荷馬車の出入りに使われる副門が開かれた状態にあった。自分さえいなければ、きっと彼らは逃げ果せていただろう。彼らにとってナマエは希望を奪った憎き帝国兵でしかなかったし、それが今にも剣を抜かんとする処刑人のように見えているのだ。
そして、ナマエはまさにそのように行動しなければならなかった。それが衛兵たる自分の役割だった。けれど実際には、抜剣どころか身動き一つ取れずにいる。彼らと同じくらい、もしかするとそれ以上にナマエは動揺していた。手にも足にも力が入らない。声を出すことすらままならない。
「たすけて、神様……」
少女は怯えていた。
いっぱいに涙を湛えた円らな瞳、消え入りそうな祈りの声が、刃となってこの身を突き刺す。
「くそっ……帝国の悪魔め、地獄に落ちろ! 死んだらあの世で呪ってやる!!」
睨みつけてくる少年の形相は、思わず息を呑むほどの烈しい憎悪と憤怒に満ちていた。笑っていればどれほど可愛らしいのだろうと思わせる顔立ちと、まだ変声を迎える前の高い声が、それとはあまりに不似合いなおぞましい呪詛を吐き出すのだ。
これが、自分たちの為してきたこと。
まだ年端もいかぬ子供に、こうとまで言わしめるほどの暴戻。目を背け続けることしかできなかった、この国の所業。
自分を悪魔と言った少年に、ナマエは返す言葉もなかった。泣きたいのはきっと彼らの方なのに、目の奥が灼けるように熱い。
「……行きなさい」
剣の柄を握りしめた指の一本を解くことすら容易くはなかった。なんとかそこから手を離すと、棒になった足を一歩また一歩、ナマエは子供たちから遠のくように門の前から退いた。
やっとの思いで絞り出した声は笑いたくなるほど震えていた。覚悟なんて微塵もできていなかった。それでも。
「……え?」
「早く逃げなさい!!」
それでも、他の道など選べなかった。
小さな手をしっかりと結び合わせて、二人の兄妹は走り出す。遠ざかる足音に反比例するように、鼓動が重さを増しながら速まっていった。
軍人として、自分は過ちを犯した。
けれども人間としては、きっとそうではない。
どうしてそれが重ならないのだろう。訳も分からずせり上がってくる嗚咽を、ナマエは必死で飲み込み続けた。しばらくの間、それは止まらなかった。嵐の後のように辺りは静かで、喉奥で鳴る情けないその音だけが聞こえていて――あと少しだけ時が待ってくれる、何故だかそんな風に思ってしまったのかもしれない。
「奴らが逃げたのはこちらの方向です!」
「よし、急げ!」
本当は、猶予などありはしなかったというのに。
「おい、そこの警備兵!」
全身から冷や汗が吹き出した。
心臓が、今にも口から飛び出しそうだ。
外壁の陰から現れこちらに近付いてきたのは、いくつかある警備小隊の一つで長を務める男とその部下だった。ナマエが所属する隊ではないが、当然顔は知っている。
「は、」
「非常警報は聞いただろう。ガキが二人脱走した。どうやらこちらに逃げたようだが、お前、奴らを見なかったか?」
「……いえ、わたしは、何、も」
不自然極まりないことくらい、自分が一番分かっていた。平静を装ったつもりで答えた声は面白いように上擦って、訝る二つの視線が一気に突き刺さる。
「……隊長、この者は明らかに挙動が不審です。何か隠しているのでは?」
「っ、ですから、なにも」
「……ふん。まさかとは思うが、貴様、ガキどもを逃がしたのではあるまいな?」
「……!」
図星か。隊長の男が言った。
白を切り続けることもできなければ、堂々と両手を差し出すだけの度胸もない。今度こそ、堪えきれずに涙が流れそうだった。
このたった一年にも満たない軍役の日々に、一体何の意味があったのだろう。
「おい、こいつを連行しろ! 俺が尋問してやる!」
――終わりだ。
とうとう目尻からひとすじの雫がこぼれ落ちた、その時だった。
「待て」
静かな、明瞭に通る声。
威圧感とは違う、けれどたった一言で空気を支配するような音だった。
声の主を振り向いたナマエは驚きに目を瞠る。思いもしない人物が、門の向こう側に立っていた。この軍に身を置く者なら誰もが知っている、特に若い兵にとっては憧れの存在だ。聖戦士トードの再来とも称される、ゲルプリッターの指揮官。雲の上の人とも思うその男を間近で見たのは、これが初めてだった。
「ラ、ラインハルト将軍っ!?」
驚いたのは自分ばかりではなかったようだ。隊長の男が素っ頓狂な声を上げ、部下の方もまた、ナマエへ向けていた剣を下ろして大袈裟に姿勢を正す。ラインハルトは門をくぐってこちらに近付くと、ナマエと兵たちの間に入るように立った。
「これはこれは……お迎えも出さずに申し訳ありません……! まさか将軍がこのような所へいらっしゃるとは、全く承知しておりませんで……」
「そんなことはいい。一体何の騒ぎだ?」
阿るような調子にも取り合わず、ラインハルトは至極事務的に言葉を返した。隊長の男は僅かに怯んだようだったが、すぐに気を取り直した様子で状況の説明を始める。子供が二人逃げ出したことに端を発する、この場に至った経緯。そして、彼らの脱走を幇助した疑いで、ナマエを捕らえようとしていたこと。
確かに脱走を黙認したのは事実であり、今更もう言い逃れはできない。けれどこんな――ラインハルトのような人間の目の前でまで、それを糾されなければならないのか。この誰もが憧れる稀代の武人にまで、自分は反逆の謗りを受けなければならないのか。
たまらず顔を伏せたナマエの頭上に、ふむ、と訝しげな声が落ちた。
「……子供たちはこの門から逃げたと言うのだろう。ここから遠ざかるにしても、まずは外周に沿って南へ向かうしかない。ならば、必ず私と出くわしているはずだ」
だが、私は子供どころか野兎一匹すら見ていないぞ。
予想とは裏腹に、ラインハルトの口振りはまるでナマエを庇うかのようだった。けれどそれにしたって妙だ。子供たちは確かにこの門を出ていった。彼の言うとおり、副門から繋がる道は一本しかなく、ラインハルトがそこを通ってきたのなら出会わないはずがない。
「で、ですが、奴らがこちらへ逃げたのを私の部下が確かに見ているのです」
「間違いありません。それに、この者は態度も不審で……」
「あらぬ疑いをかけられて動揺しているのだろう」
揃って反論しようとする男たちをラインハルトは一蹴した。
どうやら本当に庇われているようだ。彼の言っていることが真実だとするならば、子供たちが忽然と消えたというのでもなければ説明がつかない。ナマエは顔を上げてラインハルトを見たが、その表情から何かを読み取ることはできなかった。
「しかし……」
「今この道を通ってきた私が、姿を見ていないと言っているのだ。この門から逃げ出したというのは考え難い。……それとも、貴公らは私の話が信用できぬと?」
「い、いえっ、滅相もございません……!」
食い下がっていた隊長の男も、そう問われるとさすがに顔を青くした。男の返答に満足したように表情を緩めると、ラインハルトは腕を組んで言葉を続ける。
「この砦も大分古い。大昔に使われていた地下通路も、未だ残っていると聞く。恐らくはそこへ潜ったか……いずれにしろ、彼女の尋問よりも子供の捜索が先なのではないか?」
「仰せの通りで……! ……おい、行くぞ!」
「ハッ!」
二人の男は逃げるように去っていき、その場にはラインハルトとナマエだけが残された。
――助かったのか。そう思った途端に両足の力が一気に抜け、ナマエは地面に座り込んでしまった。雲の上の存在、というだけでなく、今や命の恩人にまでなってくれた偉大な将軍の前で、こんな無礼を晒してはならないのに。早く礼を言わなければならないのに、今更身体の震えが止まらない。そんなナマエに呆れることも笑うこともなく、ラインハルトは膝を屈め、労わるように声を掛けてくれた。
「大丈夫か?」
「あ、あの、も、申し訳ありっ、」
「焦らなくていい。落ち着いて、ゆっくり呼吸を整えるんだ」
宥める声と共に、目の前にハンカチが差し出される。汗と涙で顔がめちゃくちゃになっているのは自覚していたから、さすがにそれを受け取るのは忍びなかった。だが、ラインハルトはいつまでも手を引っ込めようとしなかったので、恐縮しながらもナマエは結局その厚意に甘えざるを得なかった。
「安心しろ。あの兄妹なら無事だ。私の手の者が保護している」
「え……!?」
まともな言葉が出るようになるより先に、疑問への答えが明かされる。子供たちは何らかの魔術で消えたのでもなければ地下通路に隠れたのでもなく、彼の手によって救われていたのだ。
けれども、王女の守役であるはずの彼が、一体なぜ。その思いが顔にも出ていたのだろう、ラインハルトは苦笑した。
「我が国の上層部とて、何も子供狩りに賛同する者ばかりではないさ。中でもイシュタル様は、誰よりお心を痛めておられる」
「イシュタル様が……」
聞けば、イシュタル王女は囚われた子供たちを密かに助け出しているのだという。国の重鎮や名のある騎士の中にも、そのような活動をしている者たちが複数いるということをラインハルトは教えてくれた。イシュタル王女とイシュトー王子は、ブルーム王とあのヒルダ王妃の間に生まれたとは信じられないほどの人格者である――と口さがない者たちの噂する声を聞いたことはあったが、まさか王女自らが、子供たちを守るために手を尽くすほどであったとは。
そして目の前のラインハルトもまた、王女の想いを汲んで――それだけではない、きっと彼自身の信念に従って、あの幼い兄妹を助けてくれたのだ。たったこれだけの僅かな時間に接しただけで思い知らされる、彼の人柄。
絶望を知ったあの日以来、ナマエは初めて救われた思いがした。
「……本当にありがとうございました。わたし、何とお礼を言ったらいいか……」
それから落ち着きを取り戻すまでには、そう時間はかからなかった。
手を引かれて立ち上がった両足は、今ではもうしっかりと地面を踏みしめることができる。ナマエは深く頭を下げて、精一杯の謝辞を伝えた。
本当は、その想いを全て表すことなど到底できない。命を救ってくれただけでなく、自分が見失った大切なものを、ラインハルトはもう一度示してくれたから。
「いや……礼を言わねばならぬのは、私の方だ」
だから、彼のその言葉には持ち上げた首が傾いでしまった。自分が彼から感謝をされる理由など、一体どこにあるというのか。
「君は新兵だろう。それでいてあの行動、なかなか取れるものではない。君のように志ある勇士を我が軍に迎えられたことに、私は勇気付けられたのだ」
ラインハルトという人間を少しでも知った今では、彼が世辞や偽りを口にするとは思わない。だからこそ、勇士の誉れは自分に向けられるべきものではないのだ。
嬉しくなかったと言えば、それは大嘘になるけれど。
「……そのようなお言葉をいただく資格はありません。わたしは今日まで、子供たちのために何一つしてあげることができませんでした。……自分が臆病であるばかりに」
それでも、目の前の男は首を横に振るのだった。
「危険を冒してまで、あの子供たちを助けようとした君が臆病であるものか。私はフリージの軍人として、君を誇らしく思う」
身に余るほどの賛辞をどうしたらいいのかも分からないのに、ラインハルトはさらにナマエを狼狽させる。
「君の名を教えてくれないか?」
名乗るほどの者ではない、と言うのはなしだ。そう先手を打たれてしまっては、もうどうしようもない。
「……ナマエ、と申します」
「ではナマエ、敢えて問おう。我が国の所業を知って、君は軍人を辞したいと思いはしなかったか」
そのときラインハルトは、穏やかな笑みを引き締まった表情へと変えた。
真っ直ぐにこちらを見据えてくる視線に、一切の欺瞞やごまかしは通用しない。それを感じさせられながらも、ナマエは最早答えを迷わなかった。
そうだ、と頷いていただろう。
――彼と出会う前ならば。
「……これまでは、確かにそう思うこともありました。でも、今は違います。この国には、将軍やイシュタル様のような方がいてくださるのだと知りました。だから……」
だからもう少しだけ、頑張ってみようと思います。
正面から男の目を見つめ返し、はっきりとそう告げる。
祖国の全てを信じることはもうできない。自分自身のことだって、もしかしたら信じられないかもしれない。けれど。
「……ありがとう。それを聞けて安心した」
――君の進むべき道は、きっと見つかるだろう。
もう一度微笑みながらそう言ってくれた彼のことなら、心から信じ続けられるから。
「また会おう、ナマエ」
汚れてしまったハンカチを強く握りしめながら、ナマエはその背をいつまでも見送った。