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wingless bird

 ――息が苦しくて仕方がない。
 確かに呼吸は出来ているはずだった。情けないその音ははっきりと耳まで届いていたし、吐き出した息が冷えた空気を白く濁す様も、間違いなく自分の目には映っていたのだから。けれどそれを分かっていてもなお、全身を締め付けるような痛みから逃れられる気配は一向に無かった。訴える術を奪われたこの身体には、泣き声を上げることすら許されないのだ。
 声は喉元まで出かかっている。それなのに口からこぼれ落ちるのは空気ばかりだった。
 伝えたい言葉は溢れるほどに渦巻いているのに、出口を奪われたそれはナマエの中を埋め尽くしていく。今にも頭が破裂してしまいそうだ。出来ることはと言えば、ただ目の前に立っているその男を見つめ続けることだけだった。
 彼の手の中から、大振りの杖が消えていくのが見える。
 自分に振りかざしたのを最後に、言葉を奪うためのその杖は役目を終えたようだった。
「……すまんな、」
 謝るくらいなら、どうして。
 声にならないその声は、確かに彼に届いているはずだ。けれども男は気付かないふりをする。無様に縋ろうとする自分から、視線を逸らさないままで。

 偶然だった。
 男とカナスの話を、自分が聞いてしまったのは。

 ――ネルガルがモルフを創りだした時……たった一人だけ協力者がいた。
 ――そいつは傭兵で……戦いで失ったものを取り戻すため、自ら進んで奴の実験体に志願したんだ。
 ――"人"ではなくなると……知りながらもな。

 驚かなかったと言えば嘘になる。けれどそれは、自分にとっては後付けの真実に過ぎなかった。
 それよりも。
 話を聞かれたのだと知った時の、男の顔が瞼に灼き付いて離れない。
 聞かれたくなかったのだろう。
 自分には話す気などなかったのだろう。
 人と交わらない男と、一番近しい場所に居たのは自分だった。それは己惚れなどではないと思いたい。
 誰よりも側に居るのを許してくれた。滅多に表情を変えることのない男だけれど、自分には時折穏やかに笑んでくれた。それだけで良かったのだ。本当に、それだけで。男も同じ気持ちでいてくれるのだと信じていたし、それを疑ったことは一度だって無かったのに。

「ナマエ」
 名を呼ぶその声色は硬かった。
 恐らく初めて名を呼ばれた時よりもずっと。
「俺の目を見ろ」
 延ばされた男の手が頬に触れる。それは小刻みに震えていた。
 思わず抱きしめたい衝動が身体中を駆け巡る。けれども動くことは出来なかった。悲痛な表情を浮かべた男の視線だけが歪まない。目の前の男に対して、初めて畏怖を覚えた気がした。
 ――何故、彼は自分に本当の事を話さなかった?
 正体が知れてしまったなら、自分に拒絶されるとでも思っていたのだろうか。自分はその程度の存在としか、思われていなかったのだろうか。
 男の考えていることが分からない。けれども彼はナマエの心中を分かっているかのように首を横に振る。――だとしたら何故? どうして言葉を奪ってまで、自分にそのことを口にさせまいとする?
「……よく聞け。俺は人間じゃない」
 だから何だというのか。
 知ったところで何が変わるというのだろう。自分にとって男は男だ。それだけで十分なはずなのに。
「……黙っていて悪かったな。俺は作りものだ。お前とは違うんだ」
 どうしてこんな時に声を出せない?
 どうして術を破れない?
 どうして――――
「だから、もう俺を愛しているなどと言うな」
 力の抜け切った身体が地面にくず折れるのを、ナマエは他人事のように感じていた。
 もはや自分は何処にもいないのだ。男は一瞬逡巡した様子を見せたが、頬から離れた手が再びナマエに伸ばされることはなかった。
「……好きなだけ恨んでくれて構わん」
 やがて背を向けて歩きだした男へ、伸ばしかけた指先が虚しく空を切る。
 ――いかないで。
 その言葉もついに許されることはなく、ただ涙ばかりが溢れ出ていた。歪む視界のその果てで、男が一度だけ振り返ったことも、もう分からない。

「……ナマエ。お前の側は、幸せだった」

 枷が解かれたのは、男がナマエの前から姿を消した後だった。