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もげるようにこぼれた嘘
――フュリーと子供たちを、頼んだぞ。
そう言い残して彼が国を後にしたのは、もう何年前のことになるだろう。
行かないで、と泣きすがる彼の幼子と一緒になって引き留めたくなるのを必死で堪えながら、旅立つその背を見送った日のことは忘れない。「すぐに帰る」の言葉が偽りであることくらい、幼かったナマエだって簡単に気付いてしまった。彼はどこか遠いところへ行ってしまって、二度とシレジアへは帰って来ないのではないかと、そんな予感すらした。それでも、「レヴィン様には必要なことだから」と気丈に送り出そうとする細君の姿を見ていては、とても袖を掴むような真似なんてできなかったのだ。
思えば、バーハラの悲劇を奇跡的に生き延びて戻ってきた時には既に、彼はそれまでとはどこか違う雰囲気を纏うようになっていた気がする。あの戦いで多くの戦友を一度に失ったせいかもしれないと、当時はそう思っていた。けれども、誰より彼の傍で彼を支え続けてきたその細君は、ある日ナマエにこう言ったのだった。
あの方はね、レヴィン様であって、レヴィン様ではないの。
そして、幾年もの時を経て彼と再会したナマエは、ようやくその言葉の意味を理解したような気がした。
「見違えたな、ナマエ」
あの頃まだ十五にも満たない少女だったナマエを、歳月は一人前の騎士へと変えた。
だが、目の前の男はどうだろう。確かに彼は、かつてのレヴィンが相応に年を重ねた姿をしている。紛れもなく彼はレヴィンであって、他の何者でもないのだ。だからこそ、彼を包み込んでいる不思議な雰囲気の正体がナマエには分からなかった。彼であって、彼ではない。あの時のフュリーの言葉はまさにその通りで、自分自身でもそうとしか言い表せないように思えた。
「レヴィン様……」
ただ、それは決して不穏なものではなかった。微笑む彼の眼差しは、昔と少しも変わらずに優しかったから。
「子供たちのことでは世話を掛けた。礼を言うよ」
「わたしなんて、ただ見守らせて頂いただけです。お二人とも、本当に立派に育たれました。お優しく、いつもお母様思いで……」
「……ああ。フュリーには可哀想なことをした。おまえも辛かったろう」
本当は恨み言のひとつくらい口にしようかと思っていたけれど、哀情を隠し切れない声音にナマエはそれを飲み込んだ。彼がどれだけフュリーを大切に想っていたか、ずっと傍らで二人を見ていた自分はよく知っている。
思わず俯いた頭を、男の手のひらがぽんぽんと撫でた。
幼かった頃こそ、子供扱いはやめてくださいと文句を言っていたはずだったのに。大人になった今ではそれが落ち着くのだから、どうしようもない。
「これからは、セリスに力を貸してやってくれるか」
レヴィンの言葉に、ナマエは顔を上げた。
「もちろんです」
今やセティもフィーも立派な戦士だ。彼らに守役はもう必要ない。ならば、己の為すべきことはただ一つだった。そしてそれは、ナマエがずっと望み続けていたことに他ならない。
「レヴィン様の護衛は、わたしにお任せください」
この解放軍での自らの役割。抱き続けてきた願い。
決意も新たに、といった心持ちで、ナマエはそれを宣言した。けれども目の前の男はと言えば、わずかに面食らったような表情を見せた後、次の瞬間には吹き出しながら声を上げたのだった。
「ははは。私の護衛とは、面白いことを言うな」
「なっ……レヴィン様! わたしは本気で申し上げているのです!」
まさか一笑に付されるとは思ってもみなかった。数秒の間固まったナマエだったが、このまま彼の調子に流されるわけにはいかない。返す言葉に、我知らず熱が篭もる。
「そもそも、軍師であるあなたが今まで護衛も付けずにいただなんて! もしもレヴィン様の身に万一のことがあったら、この軍は立ち行かなくなってしまいます。セリス様だって、どんなに悲しまれるか……」
それでも、いくら訴えようとレヴィンは首を横に振るばかりだった。
「気持ちはありがたいがな。それには及ばんさ」
確かにレヴィンは卓越した魔道の才の持ち主だ。先の戦争での経験も十分すぎるほどある。けれどそうだとしても、万に一つの可能性を少しでも減らすことができるのならば、自分が傍らにいる意味はあるはずだとナマエは考える。
生半可な気持ちで今日まで鍛錬を積んできたわけではない。それに、ナマエにとってこれは強さの問題ではないのだ。
「駄目です。わたし、フュリー様と約束したんです」
レヴィン様に会えたら、彼をお願いね。
病床の彼女は、かつてのレヴィンと同じ願いをナマエに託した。
その術を持たないとは言え、日に日にやつれていくフュリーを救えなかったことは事実だ。もう二度とあんな思いはしたくない。彼女との最後の約束は、何としても遂げなければならない至上の使命だった。それはフュリーのためでもあり、ナマエ自身のためでもある。
「……あの頃は何もできなかった。でも、今のわたしにはその力があります」
特別な存在になりたいだなんて思わない。
淡い恋心を自覚した時にはもう、彼は愛する人と結ばれていたし、その頃のナマエはまだ子供で、実戦に出ることも許されない騎士見習いに過ぎなかった。それでも槍を振るい続けた理由は、抱いていた想いは今もずっと変わっていない。
この手で、彼を守りたい。
隣でなくて構わない、一歩先でも二歩後ろでも、彼に降りかかる災禍を薙ぎ払うことができる場所に立てるのならそれでいい。だから。
「今度こそ、お傍に置いてください。あなたを守らせてください!」
十年越しの想いを今、どうか遂げさせてほしい。
レヴィンの表情からは既に茶化すような調子は消えていた。
切れ長の瞳が真っ直ぐにナマエを見つめる。けれど怯んだりはしない。気圧されたりもしない。こちらにだって、譲れないものがある。だから根比べなら負けない。負けない、はずだった。
「ナマエ」
向かい合う男と自分との間を、一陣の風がびゅうと通り抜ける。
ナマエは息を呑んだ。
名を呼ばれた、ただそれだけだった。それだけでナマエの決意は呆気なく揺らいだ。それまでの空気は一瞬のうちに跡形もなく霧散していた。何がそうさせたのかなど、知るべくもない。
レヴィンが息を吸って、言葉を続ける気配がした。その先は聞くなと、直感がそう告げる。しかし身体は固まったように動かない。
「バーハラでシグルド公子を失った後、私はマンフロイに戦いを挑み、そして敗れた。その時、レヴィンは一度死んだのだ」
ナマエの頭は、彼の話を理解することを拒んでいた。
その思いはおそらく表情にも出ていただろう。だが、レヴィンは語ることを止めなかった。
「私はもはや、おまえたちと共に生きていくことはできぬ」
彼であって、彼ではない。
それが意味するものはあまりにも受け入れ難く、そしてその真実からは逃れようもなかった。
手を伸ばせば抱きしめられる距離にありながら実の子すら突き放したレヴィンは、決して自らそれを望んだわけではない。彼は、そうしなければならなかったのだ。
いつか失うかもしれないのなら最初から求めないほうがいいだなんて、そんな生き方をナマエは選ぼうと思わない。失う怖さに怯えるよりも、共に在る時間を慈しむ方がずっといい。けれども、すぐそこに終わりがあることが、初めから分かっていたとしたら? そうして引き裂かれる艱苦がどれほどのものか、知っていたとしたら。
今のレヴィンを生かしているのは人智を超えた力だった。それは温情などではなく、彼は使命を与えられただけに過ぎない。人の理を外れ、そうまでして彼がこの世界に存在せしめられる理由は、セリス達を、彼の子達を、新たな時代を作るべき者達を導くためだ。その役目を終えたら、彼は彼の在るべき場所へと旅立たねばならない。
「分かってくれるな」
だから、きっと彼は正しいのだ。
「……いやです」
言い返すだけの武器はもう見つからないし、口を衝いて出る言葉は思考すら通っていない。
「分かりたくなんか、ありません」
声が震える。
残っているのは感情だけだった。ナマエにはもう、抗う術はそのひとつしか残されていなかった。
「だって、あなたはレヴィン様なんです。わたしの大切な、レヴィン様なんです。だから」
――戦いが終わるまでの間だけで、構いません。
こぼれ落ちた懇願はどうしたって覚悟を伴っていなかった。
ナマエは自ら期限を付した。それは彼が二度と戻らないことを受け入れたのに他ならない。それでもこう告げるしかなかった。遠からず終わりが訪れることを分かっていながら、いつまでもその残滓を抱え続けることになると分かっていながら、ナマエは偽りで己を縛りつけ、仮初めの希望に手を伸ばしたのだ。
「……もういい、分かった」
愚かでもいい、と思ってしまった。
ただ、レヴィンの傍にいたかった。
「私の負けだ。……おまえの好きにするがいいさ」
ついに、男はそれを拒まなかった。
***
数多の血と涙を流しながらも、長きに渡った波乱の世はひとつの区切りを迎えようとしている。
失ったものはあまりに多過ぎた。だからこそ、誰もが待ち望んだ平和な世界を築き上げていくことが、残された者たちに与えられた責務だった。
荒れ果てた国々を蘇らせ、戦いに傷付き疲れた民を癒す。為すべきことは途方もなく大きい。だが、自分にとってはその方が好都合だった。何も考えず、ただひたすら祖国の復興に腐心していられるならばいい。
「どうした。戦いが終わったというのに、浮かない顔だな」
どうしたも何も、そんなことはあなたが一番分かっているでしょうに。内心でそう言いながら、ナマエは小さく頭を振った。
出来ることなら自分だって、この勝利を晴れやかな気持ちで迎えたかった。けれどもそれは初めから無理な話だ。やっとの思いで手に入れた新たな時代を、これから自分たちが生きていく世界を、誰より大切な相手は見届けてはくれない。
別れはもう、すぐそこにまで迫っている。
分かっていたことだった。決まっていたことだった。真正面からその事実を突きつけられたあの日、たとえ束の間であってもと彼の傍に立つことを選んだのはナマエ自身だ。
「レヴィン様」
引き止めたりはしない。行かないでほしいだなんて、口が裂けても言わない。
自ら決めた約束を違えるような真似などしたくはなかったし、そうしたところで彼が去っていくことに変わりはないのだ。
「わたしの我侭を聞いてくださって、嬉しかったです。今まで本当に、ありがとうございました」
「いや……私の方こそ、おまえには感謝している」
ひどく穏やかな笑みだった。
この戦いが終わりを迎えたということは、彼がその使命から解放されるということでもある。自分にとっては身を引き裂かれるような別れでも、レヴィンには本当の安らぎが訪れようとしているのかもしれなかった。
「……セティ達も、もう間もなくか」
セリス王に別れを告げ、聖戦士の末裔達は一人また一人と自らの国へ帰っていく。セティもフィーも、最後の支度を終えれば後は出発するだけだった。
ナマエも同じく、シレジアへと戻る。二人を助け、祖国を立て直すことがこれから果たすべき自身の役目だった。本当に彼らを見守るべき存在はもう、その場所にはいられないのだから。
「シレジアを頼んだぞ」
「はい、どうかご安心ください」
天馬の嘶く声がした。おそらくはフィーの愛馬だろう。
ナマエは安堵した。模範ぶった受け答えをするのも、もう限界だった。
「……では、もう行きます。レヴィン様、本当に――」
続けるはずだった謝辞は、言葉にならなかった。
時が止まったような感覚がした。それは心のどこかでずっと夢見ていたことだったのに、望みを投げ捨てた瞬間に叶うだなんてあんまりだ。
「ナマエ」
肩に掛かる髪の緑色しか見えない。耳元で、名前を呼ぶ声がする。
レヴィンの腕はナマエをやんわりと抱き込んでいた。自分のそれと同じように拍を打つ、彼の心音が聞こえている。それがどうして、同じ世界を生きることが許されないのだろう。
「……おまえは幸せになれ。私のことは忘れろ」
本気で忘れろと言うのなら、今すぐその手を解いてくれればいいのに。
無理やり押し込めようとした未練をこんなにも横溢させておきながら、最後に押し付けられた願いはどこまでも酷だった。
「……ひどすぎますよ、そんなの」
「……ああ、そうだな、許せ」
確かめてもくれないくせに、一生がかりの約束を置いていくだなんて。
「……もう、最後くらい、笑ってお別れさせてください」
ナマエは静かに身体を離した。
これが本当に、本当の終わり。そうと思い知らされるための時間なんて与えないでほしかった。二度と触れることもできないのなら、彼の温度も知らなくたってよかった。
「レヴィン様が、大好きでした」
――笑ってお別れなんて、できるはずもなかったのに。