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錦百合

 最初に抱いた印象といえば、なんだか怖そうな人、という程度のものだった。
 リョウマ様直属の家臣という肩書きは、それだけならば純粋な羨望の的になったのかもしれない。けれど彼の場合は加えてあの風貌、というか主にあの鋭すぎる目つきのせいで、羨望というよりはむしろ畏怖の対象となっていたし、彼が宮中の女性から美男子だなんだと騒がれているスズカゼさんの双子のお兄さんだと聞いたときには、あれだけ正反対の兄弟もいたものだなあと妙に感心してしまったりもした。今となっては我ながら随分と勝手な評だったようにも思うけれど、一介の祓串使いであるわたしと第一王子の腹心である彼との間には、もともと接点なんてほとんどなかったのだ。だから、王城で働いていた頃のわたしには「なんだか怖そうな人」についてそれ以上深入りする理由もなかったし、彼が本当はどんな人なのかを直接知るような機会だって、当時のわたしにはやっぱり無縁のものだった。
 あの悲劇が起こった後、もしもカムイ様についていくことを選んでいなければ、わたしの中の彼はいつまでも怖そうな人のままだったんだろう。
 別に大層な志があったというわけじゃない。ただ、それまではミコト女王の結界のおかげで生身の暗夜兵がこの国に侵攻してくることはなかったし、代わりに放たれたという怪物たちも滅多なことがなければ城下にまで迫って来たりはしなかったから、戦時下の国にありながらもわたしはそれをどこか遠くのことのように感じていたのかもしれない。けれど穏やかだったのは本当は自分の周りだけで、そんなちっぽけな平穏すらあんなに脆くも崩れ去っていく現実を突きつけられて、ようやく目が覚めたような思いがした。このままじゃいけない、わたしはわたしにできることをしなければ。そんな風に思って、わたしは従軍巫女としてカムイ様の元で戦うことを決めたのだ。そして、結果的にその選択が、彼との間に接点を生むことになったのだった。
 ――あの、これ、良かったら使ってください。
 ――かたじけない。
 初めて交わした会話らしい会話を、わたしは今も覚えている。
 テンジン砦の戦いの後で彼が部隊に加わってから、しばらく経ってのことだった。そしてその頃には、わたしの中での彼は「よく怪我をしてくる人」になっていた。
 このやり取りをする以前にも、それこそ「よく怪我をしてくる」と思うくらいの回数は彼の治療をしていたから、恩に着るだとか悪いなだとかの謝辞を言われたことはもちろんあった。ただ、彼はいつもわたしが何か言葉を返す前にその場を去ってしまうのだった。たぶん、当時の彼には立ち止まっている暇なんて少しもなかったんだろう。その時はまだリョウマ様の消息も分からない状況にあったから、彼の心境を考えればそれも当然のことだった。
 その後リョウマ様とは無事に合流を果たすことになるのだけれど、だからと言って彼の怪我が減るというわけでもなかった。なんでも彼の得意とする技の中には、炎を纏って敵に切り込むことで、自身も痛手を負うのと引き換えに相手に致命傷を与える諸刃の剣があるのだという。当然彼ほどの手練れが闇雲に突っ込んだりするはずもなく、確実に仕留める算段がついているからこその必殺技なんだろうとは思う。それでも治す側としては複雑なところもあったし、あまりにも火傷や生傷が絶えない様子がさすがに心配というか気の毒になって、わたしは火傷によく効くという薬を彼に差し出したのだった。
 きっかけは、そんな単純なものだった。
 それは何の変哲もないやり取りだったけれど、薬も言葉も彼は確かに受け取ってくれた。そしてその瞬間から、わたしの世界はほんの少しだけ色を変えたのだ。
 傷を癒して送り出すときには、いってらっしゃいだとか気を付けてだとか、必ず一言二言を添えるようになった。彼は、ちゃんと返事をしてくれた。戦いや手当のことだけじゃない、その日起こったこと、見つけたこと、好きなもの、苦手なもの、色々な話を聞いてくれるようになった。時折見せてくれる、少しだけふっと緩められた表情が、なんだか嬉しかった。
 そんな日々を過ごしているうちに、だ。
 よく怪我をしてくる人は、なんとなく気になる人になっていて、いつの間にか、頭から離れない人になっていて。そうして気付いたら。
『……いつも面倒を掛けるな。だが、この傷を癒すのはお前であって欲しい。その代わりというつもりはないが――』
 ――お前のことは、俺が守ってやる。
 気付いたら、誰より近くにいてくれる人になっていた。


「……おい、何だ」
 行軍の合間、拠点で一緒に過ごせる時間は貴重なものだ。
 立場上、戦闘時以外にも常に何かしらの任務を抱えている彼には、自由にできる時間は決して多くはない。彼はそのほとんどを、部屋でわたしと二人で過ごすことに使ってくれていた。
 もうしばらく前から、わたしは黙ったまま隣に座した彼の姿を見つめている。元々彼は口数が少ない方で、二人でいる時には基本的にわたしが喋っているというのが常だから、こんな調子には慣れていないんだろう。居心地が悪そうな様子で行動の意味を問うてくる。けれど、わたしの口からはいつものように言葉が出てこなかった。どうしてか、なんて分かりきっている。それは、偶然知ってしまったある事実のせいだった。
「……どうした?」
 相変わらず何も言えないまま、手を伸ばして頬に触れてみる。普段の彼ならさっさとこの手を振り払っていたところだろうに、こうしてされるがままになっているのは、明らかに様子のおかしいわたしを心配してくれているからなんだろう。申し訳ないと思う反面、ぐるぐると心を渦巻いている薄黒い雲をわたしは抜け出せずにいた。
 いつもの突き刺すような目つきからは想像もつかないくらいの、気遣わしげな表情。今わたしだけが享受できる、彼の特別。
 けれど、それを知っているのはわたしだけではなかったのだ。
 かつて、彼の隣には別の人が立っていた。今でもその人は彼の相棒で、戦友で、同じ主君を守るために戦って、背中を預け合ったり、国の理想を語り合ったりして。
 その人がかつて立っていた場所は、今では確かにわたしのものになっていて、それは誰にも譲るつもりなんてないけれど。その人が今もなお立っている場所にわたしはどうしたって届かないのに、二人の過去なんて関係ないと言えるほどの度量なんてわたしは持ち合わせてはいなかった。
 伸ばしたままの指で、右目の傷をそっと辿る。
 これを刻んだのはあの人ではないけれど、わたしは彼の中に何かひとつでも消えないものを残すことができるだろうか。ずっと特別でいられるような、揺るぎない何かを。
 たとえば戦場で彼を庇うでもして、そうしてお揃いの傷でも負ってみればどうだろうか。そんな狂気じみた考えが浮かんだところで、傷跡をなぞるわたしの指は道半ばで彼の手に阻まれてしまった。気付けば、彼は苦々しげな表情をしていた。
「……そんな顔で俺を見るのはやめろ。気が滅入る」
 痛かったのかと思ったけれど、そうではなかったらしい。
 ひどい言い草をしていても、発せられる声音はどうしようもなく優しいのだ。
「ナマエ」
 促すように窘めるように名前を呼ばれて、わたしはとうとう黙っていられなくなった。
「あのね」
「ああ」
「独り占めしたいって言ったら、笑う?」
 彼の閉ざされた右目がぴくりと動く。
 様子のおかしい恋人が突拍子もないことを言い出したのだ、訝られても笑われても呆れられても仕方がなかった。けれども、少しだけ間を置いてから彼がくれた言葉は、そのどれでもなかった。
「……しているだろう」
 どこを探したって、これ以上の答えなんてあるはずもないのに。
 なのにどうして、わたしはどうにもならないことに囚われたままなんだろう。
「うん、だけど、今だけじゃなくて」
 それだけで、彼は全てを察したらしかった。
 決まりが悪そうに、顔を顰めてわたしから目を逸らす。困らせたいわけじゃないのに、と言い訳がましく浮かんできた思いをわたしは無理やりかき消した。だって、困らせることにしかならないなんて、初めから分かり切っていたじゃないか。彼は何ひとつ悪いことなんてしていないのに、こんなことを告げたって何ひとつ良いことなんてないのに。口に出さずにはいられなかった自分自身がひどく情けなかった。それでももう、膨れすぎた馬鹿みたいな独占欲を、わたしは扱い切ることもできない。
「……過去は過去だ。今更どうにもならん」
「……うん」
「この際だから言っておくが、隠すつもりはなかった。敢えて言う必要などないと思っていただけだ」
「……それも、分かってるよ」
 知らずに済んだのなら、その方が幸せだったんだろうか。彼はああ言ったけれど、もしかしたらわたしのために黙っておいてくれたのかもしれない。
 彼は優しい人だから。
 ぶっきらぼうだけど、お茶目な一面もあって、意外なくらい情熱的で。
 目の奥に灯る炎。労しげに触れる手のひら。名前を呼んでくれる少し掠れた声。
 誰も知らない彼の姿を一番近くで少しずつ見つけていけることがわたしは何より嬉しかった。でも、わたししか知らない彼なんて本当はいなかったんじゃないかって――……
「……済まんな」
 耳に届いた神妙な声で、はっと我に返る。
 今更後悔してももう遅かった。なんだかわたし以上に彼の方が気落ちしてしまったようで、妙な空気になってしまう。
「……ううん。わたしこそ、変なこと言ってごめん。たぶん、自信がないだけなのかも。ほら、出るとこもあんまり出てないし、さ」
 自分からこんな雰囲気を作っておいてなんだけれど、それをどうにか霧散させたくて馬鹿みたいなことを言ってみたら今度はため息が返ってきた。無駄どころか、かえって逆効果だったようだ。余計に居た堪れない感じになってしまう。
 今度こそ本当に呆れられたかもしれない、と思ったその時だった。
「……もういい、この話は終わりだ」
 言葉を聞き終わるか終わらないかというところで唐突に肩を押されて、上体がぐらりと後ろに傾ぐ。姿勢を保とうとする間もないまま、わたしの身体は重力の思いどおりになって、頭を打つすんでのところで彼の腕に背を受け止められた。あっという間に畳の上に寝かされる格好になって、視界には天井の梁、けれどそれもすぐに見えなくなってしまう。仰向けになったわたしの顔の横に、彼は肘をついていた。ずい、と、目と目の距離を詰められる。
「……サイゾウ?」
「安心しろ。そんなくだらんことは、二度と考えられないようにしてやる」
 鍛え上げられた身体が、わたしの貧弱なそれを押しつぶすようにして圧し掛かってきて、手足の自由も利かなくなった。苦しいのは物理的な重みか、それとも別のものなのかも分からない。
 逸らせずに見つめ返した瞳に爆ぜる焔に、わたしが何かの引き金を引いてしまったことを理解した。この話を始めたときには、本当にそんなつもりなんてなかった。そもそも、先のことを考える余裕なんて少しもありはしなかったのだ。けれども、どうにもならないことをわたしは彼にどうしてほしかったのか。わたしが彼に望んでいたことは。
 ――忘れてくれだなんて言えない。
 だからせめて今だけは、わたし以外の何をも感じずにいてほしい。
 そう願いながら、押し付けられる熱にわたしは身を委ねた。


 ***


「……馬鹿な奴だ」
 深い寝息を立てるナマエの髪をそっと撫でながら、男は呟いた。
 彼女に告げたとおり、決して隠そうと思っていたわけではなかった。いつかはこういう日が来るだろう、という心積りもしていた。けれども、彼女が知らずに済むのならそれがいいと思っていたのも事実だった。
 それが過去である以上、誰にどうすることもできない。彼女とてそれは分かっている。
 だから、己に何か為せることがあるとするならば、それは未来の約束だけだ。
「……ふん。添い遂げる覚悟くらい、とうに出来ているさ」
 ――だが、こんな状況で言えるか。
 小さく落とされた声が、眠る彼女の耳に届くことはない。
 いつどうなるとも知れない身であることは、自分が誰よりよく分かっている。だからこの言葉を伝えることはまだ許されない。主君も彼女も守り通して、この戦争を終わらせて、国に本当の平和を取り戻すその時までは。
 今は、まだ。